4 可愛い弟①

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4 可愛い弟①

「……そろそろ次の発情期かなって思ってたら、やっぱりな、ってかんじ。心配しただろ?」  顔を合わせた早々、少女漫画に出てくる少年のように長い濃い睫毛に彩られた大きな目には笑みを湛え、呆れ気味に唇を尖らせた和哉にそうぼやかれた。 「ごめん」  布団の中でくぐもった声で謝ると、和哉はパイプベッドに近寄ってきて掛け布団をゆっくりと捲り上げた。 「いいって。来るの遅くなってごめんね?」    安アパートに似つかわしくないほど貴公子然としたイケメンに育った弟はそう言って長身を屈ませると、顔が隠れるほどに乱れた柚希の黒髪をかき上げ目を合わせにきて懐っこい仔犬のような甘い目元で微笑んだ。  その笑顔を見るだけで正直ほっとして身体から嫌な力みが抜ける様だ。  多忙な弟にわざわざ発情期を知らせているわけではなかったのだが、柚希の同僚の女性たちが昨日の午後柚希が体調不良で早退したことをこっそりリークしたようで、その日の夕方タイミングを計ったように和哉から連絡が来たのだ。  職場の女性たちが皆、たまに店に顔を出す爽やかなイケメン大学生、和哉のファンを自認していて、柚希の知らぬところで彼女らとやり取りをしている。  和哉くんが商品を紹介したらきっとドーナツの売り上げにもつながる!などと度々店のSNSに写真入りで登場させているのだ。  気のいい和哉はほいほい顔出しをOKしたが、兄弟で一緒に出てよと言われたけれど柚希はそういうの俺は恥ずかしいから絶対無理!と断った。  だがそのおかげかお店のフォロワーもぐわっと増えたのでオーナーに大喜びされ、とても感謝されているため、柚希も和哉が皆と仲良くすることに口出しできないのだ。 『一ノ瀬さんも端正でかっこいいけど若干地味めだから、断然、和哉君の方が王子様感強いよね!お肌つるつる~ 目の輝き方が違う! キラキラ感がすごい!!』  柚希だって何の悩みもなかった高校時代は今よりずっと輝いていたはずだ。若さ眩い現役大学生とバークヤードで粉まみれになっている自分を比べられても困る。  とはいえ自慢の弟を皆がドーナツの王子様などと呼んで可愛がってくれているのは単純に嬉しかった。 「カズ、学校忙しいのにありがとな」  身体が怠くても兄としてみっともないところは見せたくないと起き上がろうとするがまるで力が入らない。  ぽふんっとまたうつぶせに敷布団とぐしゃぐしゃの掛け布団の山につっぷしたら、和哉が柚希の寝乱れて黒髪がぐしゃぐしゃになった後頭部を、よしよしといった感じで指を差し入れて撫ぜ上げてきた。  怠く熱っぽい身体を労る優しい手つきとその温みに不覚にも涙が出そうだ。 「無理しないで。別に今日だけたまたま落としちゃいけない授業があっただけで、いつもは別に対して忙しくないよ。もう就職先も決まってるしね?」 「流石我が家の期待の星だな」  何とか横向きになって赤く潤んだ瞳で僅かに微笑しながら弟を見上げる。今のこんな状態の柚希がこんなことを呟いたら少し皮肉に聞こえたかと不安になったが、和哉は瞳を細めて曖昧に微笑んでいるような眼差しを向けてきた。  優秀な弟は早々に就職先を見つけてきてもう内々定をもらっているらしい。その祝いの席を設けるから家に戻っておいでという両親の誘いを、もしかしたら発情期が近いかもしれぬと思って柚希はついこないだ保留にしたばかりだ。 「荷物用意できてる? 下着と帰りに着る服があれば、後はスマホと財布で用が足りるから。兄さんが好きそうなお菓子とか飲み物買っといた。持つべきものは使いやすいβの弟。そうだろ?」 「β……。らしくないけどね?」  見慣れているはずの柚希でも時折しげしげと見つめてしまうほど端整な弟が、一次検査がβだったのだとは今でも信じがたい。  口を開けばふざけた調子で軽口を叩く癖に、和哉は怒っているような、呆れているような、少しだけ哀しげにも見える一言では言い表せないような複雑な表情をしている。 (兄ちゃんがΩになったとかって、やっぱ複雑だよな……。しかもお前の先輩と付き合ってるとか。ごめんな、和哉)  こんな表情をみると小さな頃、アパートの階段に腰をかけて柚希が中学から帰ってくるのを待っていた幼い和哉を思い出す。  不安げで寂し気な顔が柚希の姿を見つけるとぱあっと明るく輝いて、まるで仔犬の様にころころと一途に駆け寄ってきてくれた。 胸元に抱きつき擦り寄って黒目がちなくりくりの目で上目遣いに見上げられる様は本当に愛らしくて、この子のことを俺が一生守ってあげようという気にさえなったものだ。  一人っ子だった柚希はずっと兄弟が欲しかったから、和哉のことが弟のように可愛くて仕方がなかった。二人で辺りが真っ暗になってもずっと互いの家の間にあった公園でボールを突きながらバスケのまねごとをして過ごしていた。 (あの頃は和哉の母さんが亡くなって、父さんが一人で必死で子育てしてた頃だから、髪の毛とかだいぶ適当で伸び放題になっててさ。可愛い顔してたから、はじめ一瞬女の子かと思ったよな。なのに、くそ。こいつまた身体大きくなったな。父さんにどんどん似てくる……)  今は布団に伏していて下から眺めていると余計にぬっと大きく見える。そして背格好とシルエットがαであり、息子の自分でも惚れ惚れするほど大変な男前の父の若い頃を想わせて柚希は少しだけ切ない、そして恋しい気持ちになった。  こんな感傷的な気分になるのはたぶん発情期前のなせる業なのだろうが、自分の中に感じやすい少女の心が隠れていたかのような、このざわっとする感情に慣れることはないだろうと思う。  Ωになる前は悩みと言ったら思い切り身体を動かせば振り払い忘れられたような他愛のないものばかりだったけれど、今はじっとりと身体に絡みつくようなそれに苛まれてばかりだ。 「鞄ってこれだけ? 部活の遠征? 今度僕がお洒落なやつ買ってあげるよ」 「うるせぇ。それしかもってないもん、俺」  そんな風に和哉に揶揄されたバッグはまさしく昔部活の遠征に使っていた色気もへったくれもない擦れた汚れだらけの白いエナメルのスポーツバッグだ。そこに数日分の下着と着替えを詰めておいた。 財布と鍵はいつも仕事に行くときに使っている黒いボディーバッグと共に座卓の上に置いてある。  和哉はベッドサイドでまた光ったスマホを取り上げると、着信履歴をちらりとみてから綺麗に整えられた眉を一瞬しかめた。  それをボディーバッグにぐいぐいとしまいこみ、荷物すべてを攫うように肩にかけた。ついでに兄の身体をごろんと軽々仰向けにして背中と膝の裏に遠慮なくぐいぐい大きな掌を差しこんでくる。 「へ、あ?」  和哉が来たことで多少気が抜けてくたりと脱力したまま瞑目していた柚希は、きゅうな浮遊感に驚いて目を見開く。  弟の色素の薄い大きな瞳が間近に見えて、父親似の男っぽくも非常に整った美貌が大写しに目の前にあった。 「なに?」  甘いがすっかり低くなった地声でこともなげに囁かれるから、逆に恥ずかしくなって元々汗ばんでいた身体がもっと暑く火照ってくる。  和哉は小さい頃はどちらかといえば甘やかな美貌の母親似だった。時の流れは切ないほどに速いもので、昔は甘えてせがまれるたびに背中に負ぶってやった華奢な美少年が、今では荷物を抱えたまま成人している兄をひょいっと軽々と抱き上げられる、非常に逞しい美青年に成長したわけだ。  兄を追いかけるようにバスケ部に入部した後、晶から継いだエースナンバーを背負った和哉の活躍は目覚ましかった。OBとしてしょっちゅう応援しに試合を見に行っていた柚希は兄としても先輩としても彼が誇らしく、その後有名大学に進学し就職も決まりと和哉の成長にまつわることは大抵喜ばしいことばかりだ。  しかし弟に軽く追い越されて置いてけぼりにされているような、長兄として僅かながら複雑な思いも抱く存在になりえていた。 「生意気な体つきしやがって」   そんな風に茶化して力の入らぬ拳でへにゃりと胸を突くと、明るい茶色の目をすっと猫のように細めて兄の顔を覗きこんできた。 「だって兄さん、父さんや晶先輩みたいに背が高くてがっしりしてる人の方が好きでしょ?」 「え、まあ……。そりゃ、男ならだれでも憧れるだろ。ああいう体格」    父の敦哉も晶も、手足は長くがっしりしつつも尻はきゅっと引き締まって、その鍛え上げられたセクシーな体格は骨格からして日本人離れしている。  和哉も今ではその眩い造形美の仲間入りをしていることは兄として誇らしくも思うが、だからといってお姫様抱っこで外まで歩かれては兄の沽券にかかわるというものだ。 「でもちょっとまて、流石にまだ自分で歩けるって」 「このアパート、階段急なんだから、ふらついて落ちたら大変だろ。大人しく掴まってて」  和哉が小首を少し傾げ、目配せしてきた。暗に首に手を回せと言っているのだと察した柚希は仕方なく指示に従うと、明るい綺麗な茶色の前髪を僅かに揺らし、同年代の女の子なら即落ちしそうな人懐っこくふんわり明るい笑顔を見せた。 「素直でよろしい」 (くそっ、ただのイケメンじゃねぇか。ほんっと、生意気なっ)  そういうと和哉は抜群の安定感で荷物も柚希も一緒くたに車まで運び入れ、再び軽やかに二階に駆け上がると施錠をし柚希の靴をもって降りてきてくれた。  父の車はいわゆるセダンタイプのファミリーカーだ。再婚した時に張り切って買った中古車で、下見に行ったはずが男三人が笑顔で車に乗り込んで帰ってきた時には母は大いに呆れたものだった。  そもそも母より4つ年下の父は柚希とは20歳も年が離れておらず、スポーツもアウトドアも大好き。α性をもつ義父は若々しくて当時なんて黙っていたら学生に見えたかもしれぬほど。そこらへんでお目に掛かれない体躯はずば抜けて格好が良くて、どちらかといえば年の離れたお兄ちゃんができたようで柚希はこの再婚がとても嬉しかった。  勿論その父の血を引いた和哉も父に瓜二つとまではいかないが、怜悧な面差しと均整がとれつつがっしりした体格がとても似ている。笑うと愛嬌漂う目元にはさらに甘さが足されたような今風のイケメンだ。  優しくて誰にでも親切な弟は、昔父の敦哉を見た時に大きくなったら和哉もこんな感じの男前になるのかな?とドキドキした通り、飛び切り素敵な青年に育った。  柚希の実の父は母より20歳も年上のα男性で、柚希も抱き上げて膝に乗せてもらってよく可愛がっては貰ったが、いつも書斎で物静かに本を読んでいるような大人しい男性だった。  髪も真っ白だったから、父というよりお爺ちゃんに近い雰囲気だった。名家の出身で、ずっと独身をとおすものだと思っていた親族や兄弟の思惑をよそに秘書をしていた母と結婚。  しかし結婚生活の大部分は病を経た父の看病に母は明け暮れていた。そしてついには柚希が10歳の時に亡くなってしまった。  柚希が14歳、和哉が11歳の時に親の再婚で兄弟になったが、もともと小さな公園を挟んだマンションとアパートに住まうご近所同士で、2人は顔見知りだった。  当時家事や育児を任せ切りだったΩの妻に先立たれた、年若い‪α‬の父親の懸命だが配慮が至らぬ育児のせいで、和哉はいつも一人遅くまで寂しそうに公園にいて家に帰らないでいた。  何がきっかけだったかもう殆ど忘れてしまったが、見かねた柚希が声をかけてほとんど毎日一緒に遊んであげているうちに家にまで招き入れ、おやつや夕食を一緒に食べたり宿題を教えたり、仕事から帰宅した母の桃乃と共にあれこれと世話を焼いていた。  母も番をなくし、似た境遇だった彼らが危なっかしく見えて、とても放って置けなかったのだろう。  年の離れた‪α‬の夫に先立たたれた上に家を追い出され、その上息子を跡継ぎにと奪われそうになって引っ越してきた先がまさに今、一人暮らしで柚希住んでいるボロアパートだ。  父と母は互いに番を亡くした辛い境遇で、助け合って子育てをしているうちに番とはまた別の信頼関係で結ばれて再婚に至った。  互いを尊敬しあう関係を息子である柚希は好ましいと思っている。  しかし、柚希は紆余曲折があって、哀しいかな、今硬い絆で結ばれた家族と離れて暮らさざるを得ないのだ。  運転席に和哉が乗り込んできていよいよ出発だ。傍に人がいてくれるというのはやはり安心感が違うらしく、怠さが弱まり今まで感じていた閉塞的な感傷も薄らいだ。  それもこれも和哉が至れり尽くせりの対応をしてくれるからだろう。 家から靴も持ってきてくれたようだが、ホテルの室内でも過ごしやすいようにとそのまま使える柔らかいスリッパをはかせてくれて、後部座席から織の綺麗な赤と茶のチェックのブランケットを取り出して丁寧な手つきで身体にふわりとかけてくれた。 (なんかこっち側からみると、横顔が父さんによく似てる)  形良い額から高い鼻、綺麗に刻まれた唇までのラインを少し見蕩れてから何気なく呟いた。 「和哉、ついに彼女出来た?」 「どうしてそう思うの?」 「いや、ひざ掛けとかさ、自然な感じだったからいつも女の子にしてあげてるのかなって」  すると聞いてはいけない内容だったのか和哉がむすっとした顔をして、いつの間にか口にくわえていた棒つきキャンディをがりがりばりばりと口の中で砕き飲み込んだ。
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