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 新しく移り住んだアパートから出て小さな小道をまっすぐ進んで行き、大きな桜の木のあるお宅を目印に右に曲がる。そして大通りに向って少し歩いた所にソレはあった。小さなちいさな弁当屋。そこは持ち帰り用の小窓だけで、お客は中へ入る事はできない。  下ごしらえはしてあるのだろうけど、注文を受けてから調理するスタイルだ。朝早い時間にも関わらずそこそこ客がいて、出来上がりが売られている店のようにサッと欲しい物だけ買って終わり、というわけにはいかないが『待たされた』と感じた事は一度もなかった。  おにぎりひとつにしても手作りで、工場で施されたような包装ではなくひとつひとつが人間の手でラップで丁寧に包んでくれる。それを家からもってきたハンカチで包んでしまえば、ほうら手作り弁当に早変わり。  弁当屋の表に置いてあるメニュー表に『恋人、家族のぬくもりをあなたに』という文字を見つけ、思いついた事だった。  俺に恋人ができた、という事にしよう。  設定は、 ・最近できた恋人が料理下手なのに俺の為に一生懸命おにぎりを握ってくれている。 ・他の人から弁当を貰う事は恋人に対する裏切りだからできない。  これなら誰も傷つける事がなく、どこにも角は立たないだろう。 「ご厚意は感謝します。受け取れなくてすみません」と弁当をくれていた人全員に丁寧に断りを入れた。罪悪感から途中つっかえつっかえ、しどろもどろになる様はかえって『恋人』の存在を本当の事だと思わせたようだった。みんな笑顔で「良かったね」と言ってくれて、その度に胃がキリキリと痛む。  本当はこんな事してはいけないと分かっている。どう言い訳をしてみたって、騙している事に変わりはないのだから。それでもこれが最善の方法で、せめて幸せなんだと笑っていなくては――。  菓子類は日持ちもするし受け取る事で、この罪悪感を少しだけ和らげてくれる気がした。  俺を心配して弁当を作ってきてくれた人たちには感謝している。  だけど、本当に限界なんです――。  親切心とお節介と自己満足。――母さんが言っていた「感謝しなさい」という言葉と、我慢と嘘と……。  暴食を続けて重く、罪悪感で鈍く痛む胃をそっと撫でた。
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