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②
俺はいつものようにおにぎりを買おうと『乙女さん家』を目指し家を出た。
大きな桜の木のあるお宅を目印に右に曲がって大通りに向って……。
いつも少しだけできている人だかりがない。
そして降ろされたままのシャッターには【しばらくお休みします】という張り紙があった。
昨日は休みなんて事ひと言も言っていなかったし、乙女さんに何かあったのだろうか? 何か急な用事で休むだけならいいんだけど――。
休むという事実だけしか書かれていない張り紙をじっと見つめる。
何の情報を得る事もできないと分かっていても、しばらくその場から離れる事ができなかった。
胃の不快感がいつもより強まった気がした。
そうして俺は心配のあまりお昼の用意を忘れてしまい、周囲からは「恋人さん病気なの?」「もしかして――あ、いや、何か辛い事があったら相談しろよ?」と言われてしまった。
その度に「大丈夫です」と返すものの乙女さんの事が心配でそれが顔に出ていたのだろう、元気づけようとお菓子の差し入れが増えてしまった。
俺は見た目が貧相だから今までも世話を焼きたがる人は多かった。
だけどそれは『同情』であって『愛情』ではないと分かっていた。
ありがたくはあるけどそれと同じくらい複雑な想いもあって、心は温かくはならないし少しだけ胸の辺りがチクリとする気がした。
俺と母さんはふたりであっても充分に幸せだった。だけど俺の見た目のせいで母さんが何度となく悪く言われているのを聞いた。充分な食事を与えていないと誤解されたのだ。
「違う」と俺がいくら言ってみても信じてもらえず、無理矢理食事をとらせようとした。俺は拒絶して泣いて喚いて、ますます母さんの事を悪く言われた。小さな子どもには全てが悪夢のようで、こうなってしまうのは俺が全部悪いんだと自分を責めた事もあったけど、いつも母さんは抱きしめて「大好きよ。いい子ね」って言ってくれたんだ。だから俺は少しの不満や疑問を抱きながらも誰の事も恨まずに生きてこられた。
手作り弁当の差し入れを普通に断れないのもこうした経緯があったからだ。母さんが言うように「大事に」「感謝を」という言葉が間違っているとは思った事はない。だけど、やっぱり表面しか見ずに自分の考えを押し付ける周りの人間に対し特別な感情を抱く事はなかったし、これから先もないだろうと思っていた。
――なのに、乙女さんは違った。
知り合ってそんなに経っていないのに、彼女の瞳はいつも『愛情』に溢れていた。勿論『恋』や恋愛的な『愛』ではなく、『家族愛』のようなものだった。小食のはずの俺も普段よりは少しだけ多く食べる事ができるような気がした。味は違うけど母さんが作ってくれたおにぎりに感じる温もりと似ていたのだ。
俺は仕事帰りにコンビニで買ったパンをかじり、機械的に口を動かし続けた。まるでシュレッダーのようだと自分で自分の事を思った。
部屋には目立った家具と言えば、大きな冷蔵庫だけ。冷蔵庫のブーンという音だけが虚しく響いていた。
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