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レア現象はレアじゃない
さすがに、会社帰りに雪かきさせたことを悪いと思ったのだろうか。
母からの連絡が、しばらく途絶えた。
時間と気持ちに大変余裕のある日々を過ごしているうちに、積もった雪も消え去り、ああ、春も近いなあ、なんて油断していたある日。
玄関ドアにカギをさした瞬間、スマートフォンが鳴った。
お庭番の長期休暇も終わったらしい。
やれやれ、勤勉なことだ。
「はい?」
「あんた、久しぶりじゃないの」
久しぶりなのは、そちらの電話です。
「ご無沙汰です」
「明日、帰りに寄りなさい。渡したいものがあるから」
プツっ。
例によって、こちらの返事や都合は丸無視ではあるけれど、要件を伝えてきたところに進歩を感じる。しかも、「渡したいもの」
そうか、そうか。
雪かきには感謝をしているんだな。
生まれてこのかた数十年。
母が「ありがとう」「ごめんなさい」を口にしたのを聞いたことがない。
ホントに、誇張ではなく。
おそらく、「ありがとう」「ごめんなさい」を言うと死んでしまう病気なのだろう。
そう思えば腹も立たない。
けれど、悪いと思っているらしい、という雰囲気を醸し出すことが、たま~にある。
今がそうだ。
大変レアな現象に遭遇したので、明日はノー残業で実家に寄ろう。
渡したいものというからには、何某かのお礼に違いない。
ちょっとだけほくほくした私は、まだまだ母への理解が及ばなかったというところだろうか。
ダイニングキッチンの戸を開けると、だいぶ顔色の良くなった父がニコニコしていた。
「調子、良さそうだね」
「おかげさまで。雪かき、ご苦労様」
「病院には行けた?」
「行けたよ、ありがとう」
ドサっ!
穏やかにうなずく父と私の間に、つやつやと輝くマグロの切り身が入ったパックが、勢いよく置かれた。
「あんた、マグロ好きでしょう?持って帰って」
「わあ、中トロじゃん!すごーい。おいしそう!」
おお!
余計なものをよそ様にねだってもらったものではなく、ちゃんと購入した食品をいただけるとは!
ちょっとした感動を味わっていると、さらに母は、立派な巨峰とシャインマスカットが入ったパックを、いそいそと冷蔵庫から出してきた。
「昨日デパート行ったらね、ちょっと遅かったから、いろいろ安くなってて。ほら見てごらん。立派でしょう?このブドウ!」
見ればマグロパックにも「お買い得!」値引きシールが貼ってあるが、おいしいは正義なので、まったく気にならない。
よっぽど感謝してるんだろうか。
でも、こんなにはもらえないな。
「マグロだけで十分だよ、ありがとう。ブドウはいらないよ」
「あげないわよ?」
「なに言ってんの」とでも言いたげな母が、首を傾げている。
「えっ、見せただけ?ニラミブドウ?!」
感謝してるようでも、母は母だった。
ニラミ鯛ならぬニラミ葡萄の向こうで、父が苦笑いをしている。
そして、自慢するためだけに出したブドウ二房を、さっさと冷蔵庫に戻した母から、母砲が放たれた。
「なに突っ立ってんの。用事が終わったら早く帰んなさい。明日も会社なんでしょ」
誰が呼びつけたんじゃー!
家に帰って、「感謝」という言葉を改めて検索してみた。
「ありがたいと感じて礼を述べること。また、ありがたいと感ずる気持」
なるほど、理解した。
中トロは感謝じゃなかったんだな。
そう、「此度の働き、ご苦労であった」という意味の、ご下賜品だったに違いない。
母のトリセツに新たな項目を加えて、ご下賜の中トロを味わった。
大変、おいしゅうございましたよ。
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