10人が本棚に入れています
本棚に追加
/12ページ
9
※
「この吹雪自体が生き物っていうこと……?」
「雪そのものってわけじゃない。極めて似ているが、違う。こいつは常に吹雪のような姿をしていて、だから深い雪山か、雪深い地方にしか生きられない。晴れた雪山の中でも急にそこだけが吹雪いていれば、それは雪ではなくこいつが正体だ。吹雪に似た動きは捕食の為の動作で、これに取り巻かれると当然前も後ろ判別がつかない。吹雪の中心のようなもんだからな。残念ながら、内側で捕食が進めば更に視界は悪くなる。どこへどう歩いても進んでも、永遠に吹雪の中を進んで、諦めたその頃に遂に食われる。食われた生き物は雪に散っていくような様で、その場から消えるんだ」
「消える……」
二階光がずっと、表現していた言葉だった。「友人が消えた」、最初からずっと、そう訴えかけていた。
「依頼文とあんたの話と、ここの立地、この山に〝ふぶく〟が生息しているのを知っている。その上でこの吹雪。他に合致するものはない」
「……光は、それに捕まって、消えてしまったんですか?」
震え、か細い声で言う二階光が随分と簡単にマチの話を受け止めたと思ったが、そうだ、彼女はそもそも波多野光が「消えた」瞬間を見ている。
実際に〝見た〟二階光にとってマチの言葉は補足にすぎなかったかもしれない。二階光は自分が見たものと答え合わせをしていくだけでいい。そして、それは疑う余地もなく見事に、合致していっているのだろう。
「あんたは見たんだろ? 波多野光が目の前で消えたのを。それは、今俺が言ったものと違いはあったか?」
視線を落として、震える二階光は左右に首を振った。
「……違いはありません」
「あの日、口論が始まる前も後も、ここは今と同じく吹雪いてたな」
「深夜から明け方まで、ずっと」
「〝ふぶく〟には直に触れられない限り影響はない。この建物から出ずに悪天候と思ってやり過ごしていたらなにも被害はなかった。波多野光は運が悪かった。だが、悪天候をなめた時点で自業自得であるのも事実だ」
ヒムラは列車を降りた際にマチが言った言葉を思い出した。
こんな、酷い吹雪の中に飛び出す以外に手はなかったのだろうか。なんとか部屋に籠るだけでやり過ごせなかったのだろうか。
どんな状況にであろうとこの場を去りたくなる気持ちは、ヒムラにも痛い程よくわかった。けれど、波多野光のその状況には二階光という砦があったはずではないか。まさかこの二階光までが彼女を追い出すよう仕向けたとは考えたくもない。
運が悪かった、そんな言葉で片付けられられる程、波多野光の命は軽くはないはずだ。けれど、知らないものを理解して行動出来るような能力が備わっているはずもない。せめてその瞬間、怒りや悲しみや、そんな感情よりも危機感が勝っていたら。
「……それは、痛いんですか? その、消えてしまうまで」
「諦めがつくだけに寒い。それだけだ」
生命を諦められる程――……
ヒムラは言葉を失い、二階光は静かに、涙を落した。
「〝ふぶく〟はそんな場所にしか生きていられない。獲物自も捕れずに過ごすこともある。生きて行くには厳しい環境で食うことはなにより勝る。だから見つけた獲物は必ず食う。どこまでも追って、しつこさは相当だ。捕食し、食べ続け、また一年食いつないでいけるように蓄えて、その一部を保存食にする。時折、前の冬に行方不明になった人間が雪山の中を彷徨う姿が目撃されるようなこともある。それは〝ふぶく〟の保存食になった獲物の末路だ。寸でのところまで食われ、寸でのところで生かされ続ける。〝ふぶく〟が次の獲物を見つけられるまでの間、ずっと」
ヒムラにはまだわからない。けれどマチの話から視線を戻した時、既に彼女は納得がいった様子であった。彼女が見た、友人の、波多野光が消えた状況、その理由にも、どうしても違いが見つからなかったのかもしれない。違うと言い返せる程の違いが。
そして彼女から視線を離していたのはマチの言葉の分だけ、そのはずだが、二階光の体は既に震えることも適わぬ程、白く、凍り始めていた。
ヒムラにはまだわからない。たった今、二階光が流した涙は頬を伝う間に彼女の頬に張り付き、凍った。その、涙の意味が。
「あの日、波多野光が外に出た後、ここに戻って来たな。そして、あんたたちの前で消えたんだ」
次々に流れる涙が、次々に二階光の頬で凍って消えた。
頬には薄い氷の膜が張っているように見える。衣服から覗くあらゆる場所の皮膚が、手の皮膚も、首の皮膚も、白く、薄い氷の紋が幾つもひび割れていた。
ほんの一瞬だった。ほんの、ひとつのまばたきをする間に二階光の状況は変わっていった。次の瞬間には二階光の表面で凍った部分がミシミシと音を立て始めた。次の瞬間には二階光が咳き込み、吐き出す息は白い粉雪のように変わった。
次の瞬間には頬にヒビが入って、呼吸がままならなくなっていた。
「マチ!!」
「手負いが戻ったんだ。当然、戻った獲物を取り返そうと躍起になってる」
ヒムラの声を待つ前に、マチは蛇口から水を流し、手を洗う動作に紛れて煙草をシンクに捨てていた。そうして、焦る様子もなくゆっくり、二階光に歩み寄り、彼女の背後に立った。
二階光は既に振り向くことも適わず、もう一度、すぐに凍てつく涙を流していた。
最初のコメントを投稿しよう!