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二階光の背後に立ったマチは、はあっと自身の手のひらを温め、背後からその手のひらを二階光の喉と目元に当てた。視界を塞ぐように左手を目元に、掴むように右手を喉に。
みしり、みしりと、氷を素手で触れた時のような音がして、徐々にマチの手元が濡れていくのがわかる。それは既に人の肌の表面ではなくなっていた。氷が溶けていく、ただ、それだけだった。
苦し気に咳き込む二階光の唇からは大粒の雪が舞う。マチが二階光の喉に手を当ててから二分程経った頃、急に、固まりきった二階光の体が咳き込みと共にぎしりと鳴った。ぎこちなく関節部分が鳴る、何度も、何度も、人の体から鳴る音とは思えぬ程無機質な音が。
そして今しがた息を吹き返したかのように、二階光は大きく息を吸い込み、更にもう一度激しく咳き込んだ。その動作で彼女を覆っていた薄い氷の膜が幾つか剥がれ、皮膚から浮き、落ちて、溶けた。
咳き込んでは剥がれ落ち、繰り返す内に彼女の体を制御していたものすらも溶けたのか、固まっていた体が咳き込みと共に何度も大きく跳ねた。
押さえつけるようなマチの腕に、二階光の手が縋るように伸びる。喉を押さえていた右手がその手を掴んで受け取り、そのまま、目元の左手に誘導した時には二階光の呼吸は遂に正常に戻り、そして、吐く息は雪ではなくなった。
人らしい、温かい呼吸が繰り返されていた。
そうしてマチの両手のひらが二階光の視界を奪うように塞ぐ形になると、二階光の喉が小さく空気を通した音を鳴らし、次いで、言葉を発した。咳き込んで痛めた喉で、枯れた、小さな声で。
「……どうして……どうしてこんなこと、しちゃったんだろう……」
日頃の疲労と旅の疲労、いつも以上によく笑ったその日は気が付いた時にはもう眠ってしまっていて、目覚めると酷い風の音で窓ガラスが強く鳴っていた。
あの日、二階光がリビングに合流した時には既に酷い言葉の応酬だった。聞くに堪えない。二階光が制止の声をかけるも、しかしそれは数の力で押し負け、波多野光はすぐに敵わぬ状態へと追い詰められてしまった。
三人は束になって波多野光にあらゆる雑言を浴びせ続ける。二階光にはそれらのどの言葉も波多野光に浴びせられるべきものとは思えなかった。
間に入り、どうしたのか、どういうことか、とにかく落ち着いてはくれないかと、何度も訴えるが誰一人聞く耳を持たない。そうしてその内に三人は言うのだ、二階光が二年のもの間波多野光と連絡を取らなかったのは、彼女のそうしたところに愛想が尽きたせいなのだと。二階光も嫌気がさし、連絡を絶ったのだと。
違う、そうではないと声を張っても三人の勢いは留まることもなく、二階光までもが圧倒され、言葉を飲み込むまで押し込まれてしまう。
必死になって抵抗を試みる二階光、そうしている内に、波多野光は踵を返し素早く、部屋を出て行ってしまった。
「待って」と叫ぶ二階光の声も背後の三人の罵声に掻き消えてしまいそうになる。追いかけて、廊下に出た時に玄関の扉を開けた波多野光の背中が見えた。
しかし、途端に大きな音を立てて扉は酷い強風で吹き返されて閉じてしまった。
漸く押し開けた時には既に波多野光の姿は見えず、焦る思いとは裏腹に、その時、二階光の足は止まってしまったのだ。
理由は至極簡単に寒かった。そして怖かった。だがもうひとつは、今でもどうしてそう思ってしまったのか、二階光自身を苦しめた。
「このまま出ていったら、この後三人になにを言われるんだろう、私もなにをいわれちゃうのかって、どんなこと思われてるんだろうって、言われたくない、そしたら帰りが嫌な思いになっちゃうし、この後が凄く嫌だと思って、このまま、このままでいれば……」
――なにも言われないで済む
波多野光が、何事もなく帰って来るであろうと。それで、済んでくれるだろうと。
結果、波多野光は戻らなかった。十分、三十分、一時間を超えても。
遂に後悔を始めた者と、どうせと未だ悪態をつく者とに分かれ波多野光を追いかけずとも残った四人の関係は地獄めいたものだった。
そうして言い合って、時刻は既に波多野光が宿を飛び出してから三時間が経ってしまっていた。
訳のわからない疲労が四人を包んでいた。重苦しい空気とため息と、異様に重い体、絞り出す嫌味の一つも誰も口にしなくなった。
そこへ、急に、宿の扉が開いたのだ。そして、そこには雪にまみれた波多野光の姿があった。
四人はそれぞれの言葉を叫んだ。二階光はもう、自分がなんと声を張ったのかも覚えてはいなかった。
しかし、幾ら波多野光に言葉をかけても、彼女にはなにも聞こえてはいないようだった。どの言葉にも答えない。
二階光にはその幾つもの声に掻き消えて、波多野光がなにかを呟いているように見えた。けれど、真実を知った今となっては、その唇の動きも言葉を発したものだったのか、体の芯から凍えていく寒さからだったのかもわからない。
そしてその瞬間、開け放たれたままの扉から吹きすさぶ風と雪に散って、波多野光が消えた。
まるでそこには最初からなにも存在しなかったかのように、あまりにも軽い音を立てて、消えた。
暗い吹雪が晴れた瞬間、部屋の中には朝陽が射したが、照らされたそこに、波多野光の存在だけが、なくなっていた。
「あの時、あの時私が迷ったものの中に、なにも、大切なものなんかなかったのに、どれも大切じゃなかった、どうでもよかったのに、なのに、どうして、私、光がなんて言ったのかも、なんであんなこと、なんで、私」
マチの両手で覆われた彼女の顔は、マチの細い指の間を抜けて涙が濡らしていった。
その涙はもう凍ることなく、流れては落ち、溢れてはマチの手と彼女の頬を濡らした。
「〝ふぶく〟に捕まって食われてしまった人間には共通点がある。諦めて泣いた奴を、食うと決めるんだ」
抑揚のない低い声が、平坦な感情のまま囁いた。
「〝ふぶく〟は捕らえた獲物が涙を流すかどうかで捕食を決める。人間の体温は水分が外に出ることで左右される。それを感じ取って、涙を流した獲物を食うと決める。あの日、ここに戻って来るまでの波多野光は恐らく泣いていなかった。その証拠に、ここまで戻って来られた。波多野光はここに戻ってきた時に、涙を流したんだ。それがなんの感情だったのか、なんの意味があってなのかも知らないが、それを合図だと受け取った〝ふぶく〟に食われた」
泣きじゃくる二階光にこの言葉は聞こえているのだろうか。
波多野光が出て行った時、彼女は泣いていなかった。
きっと頭を冷やしに出たのかもしれない。けれど思った以上に吹雪が強く、先が見えない。彼女は、今度は運よくなんとか戻った。その安堵で波多野光は泣いてしまったのではなかろうか。酷い口論はしても目の前の友人達の存在に、二階光の姿に、安堵して。
しかし残酷にも彼女は既に〝ふぶく〟に囚われていた身であり、それは諦めた合図になってしまった。
波多野光に起きたことが、全てが報われずの結果になってしまった。
「そして、不幸なことにその時あんたを含めた三人は〝ふぶく〟の中にいた。波多野光が食われたその、たった今。あんたらがあの日からずっと寒いのは〝ふぶく〟に獲物として狙われてるからだ。きっとその頃夜が明けたのもあるんだろう。あんたら以外の宿泊客も外に出だして、〝ふぶく〟もそのままでいられなかった。そうしてそのまま、あんたらはこの地を去った。〝ふぶく〟は〝ふぶく〟で、あんたらに目印をつけて、離れた。体の芯、一部を凍らせて獲物が腐ってしまわないように。離れすぎた獲物を〝ふぶく〟は食えない。だからあんたらのその状態も、進みもしなければ治りもしなかった。そこに目印をつけたあんたが戻ったんだ。〝ふぶく〟は焦って、今、あんたを食おうとしてる。――けど」
二階光の目元を覆ったまま、マチはその場で少しばかり屈んだ。ソファの背もたれに肘をつく形で。
そうすると、泣きじゃくる二階光の肩を丁度、マチの腕が支えた。
「頼まれたからには、あんたを助けてやる」
言葉にした圧とは裏腹に、マチの声は囁く程に穏やかだった。
「涙を流したら、負けだ」
二階光の体を覆っていた氷の膜は、もうひとつも残っていない。
「泣くな」
マチの言葉に、二階光は必至で涙を止めようと試みるが出来るはずもなかった。あの時、なにをどうしていたら、考えても考えても終わったからこそ考え付くものばかりで、余計悲しくなった。
二階光は涙が止まるまでずっと、自身の目元を覆うマチの手に縋っていた。
二階光の手と差もないか細い指が、一時もぶれることなく彼女の涙を受け止め続けた。二階光の涙が枯れ、彼女の頬を濡らすものがなくなるまで。
いつしか吹雪は止み、真っ白な朝陽が射し込んだ。
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