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※
「マチ、どれにするの?」
「こんな早朝から食い物見てもいられねえよ」
「ダメだって。どうせ着くまでの間で腹減ったって言いだすくせに。どれでもいいからなんか選んでよ」
「なんでもいいからお前が選んどけよ」
「あれはやだこれはやだって言うくせに」
「何年一緒にいてまだ俺の好み把握しといてねえんだよ」
「うーわ。もの凄いこと言った今」
二人のやりとりに、二階光はかける言葉はないが静かに微笑んでいた。
あの後、泣き止んだ二階光が落ち着いてから風呂で温まった後、三人はすぐに宿をチェックアウトした。
マチは二階光の危機を退けたと言うが、当の二階光にはまだ実感がない。勿論、今はもう体の芯から湧き出る冷気で寒い思いをすることもなくなっていた。不思議と体が軽いと言っていたのは、本当に体の中にあった氷が溶けだしていったのかもしれない。それ程、彼女を悩ませていたものはもう、どこにも残っていなかった。
それでも、大切な友人をなくしてしまったこの土地に居続けられる程心の傷は癒えているはずもなく、二階光の申し出から早朝、六時台の列車を待つ運びとなったのだった。
三人とも一睡もなくここまで来ている。しかし疲労が見えるのはマチただ一人で、ヒムラは未だ観光気分で列車に乗る前の買い込みに勤しみ、二階光は疲労の色もなくその傍らに付き添っていた。
十数時間前に帯びていた悲痛な表情は、今はもうない。けれど、変わりにもっと、ずっと重いものを抱えて生きる結果とはなった。
二階光はあの日、波多野光が消える前、自分の名を呼んだのではないかと思っていた。誰のどの言葉にも反応しなかったあの時、波多野光は自分を見て「ヒカリ」と呼んだ気がした。何故なら、二階光はずっと彼女の目を見て話しかけていたからだ。いつものように、友人の目を見て。
その目が合ったような気がしていた。実際、二階光が一方的に彼女の目を見ていたからこそ、そう思えていたのかもしれない。
それでも、波多野光の目は自分を見ていた気がしている。ほんの一瞬の出来事で、それがけして確実なものであるとは思わない。けれど、自分ならどうかと考えた時、その行動が当てはまったのだ。あの状況、自分であれば確実に波多野光の目を見たはずだと。
吹雪に飛び出してしまった、怒りが続く間はいいがそれはすぐに寒さで掻き消えてしまう。大分我慢して、もうそろそろ彼女達も頭を冷やしただろうか。こんなことにして、少し思い知ればいいなんて、思ったかもしれない。
けれど結果、どんなに進んでも見えていたはずのものは見えず、わかっていたはずの道もすぐにわからなくなってしまった。寒い、迷ってしまった。どうしてこんな羽目に、こんな吹雪の、夜の山に。
それは想像出来る部分だけでも恐ろしい。けれど、ここで泣くのはまた違う。どこに行ってたのか、心配した、そうして泣くのは彼女達なのだと。考えつくがあまりにもくだらない強がりを自分でもしてしまうだろうと、二階光は思った。
そうしてやっとペンションにたどり着いた瞬間には意地はなくなり、緊張の糸も切れた。確信した安全と同時に襲う恐怖、安堵で泣いてしまったのではないか。もしも波多野光が三人の雑言に耳を貸さずに自分をこれまでの時間のまま思っていてくれたのなら、恐らく考える通り、友を見た瞬間に涙を流したはずではないか。
もしもその立場が自分ならばこう言ったはずだった。「ヒカル、よかった」、怖かった、戻って来られたと。
自分ならばそうだ。波多野光と、四歳から、高校の終わりまで、ずっと時間を共にしてきた自分であれば。
この先、どうしたものかを考えた。どう生きていけば良いのかも。そうして二階光が打ち明けると、この小さな頼もしき人物はなんの迷いもなく言った。「自分の犯した罪以外の贖罪はなんの意味もない」と。
二階光にはこの人物のような強さが自分にあるのかどうか、自分自身でもわからない。果たして言われてそう出来るのかも。けれど、それにも彼は言うのだ。
「必要な時に必要なものが自分の意志で出し入れ出来るなら、そもそも後悔なんてしてねえんじゃねえの」
とても面倒そうに、そして眠そうに、抑揚のない低い声で、言ってしまうのだ。
「ねえ、ヒムラ君」
「え? あ、はい!!」
「やっぱり日昏さん、結婚はしてないね」
「え? ああ、あれか」
ヒムラは一件の直前の会話を思い起こして、そして首を傾げた。
「どうして急に?」
二階光はこれまでとは少しばかり違う印象の笑みを向け、少しばかり声のトーンを上げた。
「だって、強すぎて支えてあげられる部分がなさそうなんだもん」
無邪気に笑う様子につられてヒムラも笑った。それはヒムラにとっては楽しさというよりマチに向けられたその言葉に対してと、二階光が初めて自分の名を呼んだ喜びでもあった。
二人は互いに笑み、最後まで時を過ごした。
※
乗り込む列車の時刻差から二階光とは駅で別れ、マチとヒムラは帰路へと向かう列車に乗り込んだ。バスといい列車といい、相変わらず温度差が激しい。途端ジャケットの存在がうっとおしくなってしまう。
「マチ、ジャケット上にあげる?」
「ああ」
脱いだばかりのボアジャケットは人肌程度に温かく、なんだか別の生き物のように感じた。同時に、これとよく似た自分の片割れを思い出し、ヒムラはため息を吐いて席に腰を下ろした。
「帰ったらヒヤマが怒ってそう」
「カケルがいるだろ」
「そうだけど、そうじゃなくて。二人だけ出掛けてずるいって思うんだよ」
「知らねえよ」
心底疲れたように、マチが吐き捨てる。まだ動かない列車の窓を睨みつけるマチの視線が、窓ガラス越しにも確認出来て一旦、ヒムラは黙った。
そうして幾らか経った頃、大きな音を立てて列車が動き出し、駅を離れ、やがて景色も木々と山だけになった。
早朝ともあって他の乗客の姿はヒムラたちの席から確認出来る範囲にはいない。列車以外は静かに、時を進めていた。
「ねえ、マチ」
たまりかねたヒムラが口を開くまでそう遅くもなく、マチの瞼もまだ開いたままだった。
「どうして二階さんは助かったって言えるの?」
「お前が雪山に住んでる狐だとする」
「僕が? なんで?」
「お前が聞いたんだろ」
「あ、ごめん、続けて」
「お前が雪山に住んでる狐だとして、ずっと食ってなくて飢えが半端ない。やっと見つけた獲物の足を噛んだまではいったのに獲物には逃げられた。その後も食えるものは見付からないし、獲れないし、腹が減ってもうしんどい。そんな時に自分が噛んで傷を負わせた獲物が傷ついたまま自分の目の前に現れたら、お前はどうする?」
「手負いだからいけるって思う」
「狐のお前はもう一度その獲物を狙う。そのお前が、その獲物を諦めるとしたらどんな時だ?」
「えー……色んな状況とかあるじゃない。いきなり雪崩れたとかでびっくりして離してもういいやとかー」
「狐のお前は厳しい環境で常に飢えてる。食えるもんをそうそう簡単に手放す気もない。やっと食える、いざ腹に、って時に、お前の目の前にお前ごと食いかねないやばそうな熊が出てきたらどうする」
「……あ」
ヒムラは気が付いた様子で固まり、そのまま、マチへ顔を向けた。もしや、信じられないとばかりに。
〝ふぶく〟は生き物だ。その生き物は常に食うことに飢えている。その、生物という部分を、マチは利用したということになる。つまりあの時、マチは〝ふぶく〟以上に強い存在であることを〝ふぶく〟に誇示した。今この獲物は自分が狙っていて、お前ごときには渡さない。自分がいかに強い存在であり、いかに〝ふぶく〟が敵わないと危険を感じるかまでに。
マチは〝ふぶく〟に誇示したはずなのだ。これは自分の獲物だと。その、印をして。
それは〝ふぶく〟が二階光たちにつけた印と同じように。
彼女がずっとマチの獲物であれば、二階光は一生、〝ふぶく〟に襲われる危険はない。他の、マチ以下の、危険物一切にも。
「……それはつまり、マチが熊ってことだね?」
「おやすみ」
「待って、じゃあ、それはもう、そういうことだよね!? なに!? 二階さんになにしたのマチ! まって!! 起きて!!」
ヒムラの制止も虚しくマチの瞼が落ちたのは、ほんのまばたきひとつの瞬間で間に合う程だった。
※
マチとヒムラが無事住む土地の駅に着いた頃、人々の雑踏で掻き消える待合室のテレビでは担ぎ込まれた先の病院で女子大生が凍死したという内容で賑わっていた。
その話題は暫くの間昼のテレビ番組を賑わせたが、下火になったのもいつの間にか、消えていった。
凍死した女子大生の存在も、一人きり。それ以外、マチとヒムラの耳にも入らなかった。
そしてあれ以降、二階光からの連絡もなかった。
(了)
20200123
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