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 彼女の背中もその輪郭も、白で埋め尽くされてもその後も、私の両足はひとつも動きはしなかった。 ※ 「寒い」  殆ど雪の気配を見せずに終わった一年が、明けてから中頃、急に一面を白銀に埋めてしまった。  暖冬だ暖冬だと騒いでも所詮この土地では意味のない言葉で、一面の白銀に車の出入りに応じて積み上げられた雪だまり、そして気温は常にマイナスを指していてこれで暖冬だと言われて素直に頷いてやれる愛想も向けてやれない。纐纈(はなぶさ)ヒムラは上着のファスナーを顎まで締め上げ、更にマフラーで隙間を埋め尽くすようにして口元まで覆った。ポケットの中で握っては開いてを繰り返す手に手袋はなく、出掛けに必要性を考えずに出たことを後悔し尽くした。  そんなヒムラの横で平然とした顔をして今しがた列車から降り立った黒の塊は、尚も悠然とした所作で煙草に火を点したところであった。吐く息は煙なのか寒さでなのか判別がつかない。それでもはっきりとわかる程、この黒の塊にはこの寒さも冷気も堪えていない。  黒の塊は眉ひとつ動かす様子もない無表情を貫いている。しっかりとした防寒を決め込んで。 「……それ、そんなにあったかいの?」  ヒムラは昨年秋頃に彼が購入したボアジャケットを指して恨みがましく言ったが、勿論ポケットから手を出して指さしたわけではない。ポケットの中で人差し指を向け、布越しに訴えたのだ。  彼の着ている黒いボアジャケットはマネキンのような完璧さで商品を美しく見せている。つまり、着ぶくれもしていない。そもそも小型で、そもそも着やせもしてしまう体という部分を考慮しても彼は薄っぺらく痩身なのだ。 「そもそも、そこまで寒くない」  言葉の通りに、吐き捨てる。  黒い塊の彼、日昏(ひなき)マチは衣服の黒とよく似あう真鍮色の髪をかき上げた。  真鍮なんていう品のあるものでは、本当はない。これはただ染めた色が落ちている最中の汚い状態なだけなのだが、偶然にも今、やたら真鍮色に似ている。  それがまた、マチの目立つ容姿によく似合う。古めかしい言葉で言うならば美人薄命だとかそんな言葉が浮かびがちだが、マチの性格も内面も知っているヒムラにとってそんな安直な言葉は浮かび上がりもしない。枝垂桜が食虫植物だったとか、ダイヤモンドの輝きは光線で人を殺すとか、この世で最も美しい色はこの世で最も危険な毒の色だとか、そんな言葉がよく似合う。  けれどそうした部分も、マチにそうした部分を求める者に対してのみ発動する為ヒムラのような者にはなんの毒もない。第一、マチの表面に対してそう求める者は至って無礼であり、非常識な者ばかりでされて当然とも思う。ともに道を歩いているだけでも、今しがた乗っていた列車の中でも向けられる視線は見るに堪えない。向けられる当人は慣れすぎてしまって気にもしてはいないのだが。 「僕もそういうのにして来たらよかったかなー。ペンションって言うから雪は関係ないと思ったんだけど」 「雪なめんなよ」 「なんで言ってくれないんだよ」  二人分の一泊程の荷物が詰められた大振りなバッグを、ヒムラは肩にかけ直す。勿論マチは荷物を持っていないが、これは優遇や冷遇でもなく、二十センチはある身長の問題があってのことなので致し方ない。勿論ヒムラが二十センチ高く、マチが二十センチ低いのだ。  ホームを過ぎ、小さな駅に入ると町をあげて取り組む観光とスキー場のアピールがこれでもかと全面に押し出されている。脇にある土産屋も雪の町を売り出しにした菓子が多い。かまくらやら雪だるまの姿をした甘そうなものが、いささか誘惑してヒムラを惹きつけてしまう。 「おい」  その一歩を、マチの低く、抑揚のない平坦な声が止める。我に返ったヒムラが目にしたのは一枚のビラ。それは若い女性の失踪事件を知らせるもので、そのビラの真下に、目的の人物が一人佇んでいた。  ヒムラは一目で理解し、歩むマチの背後について向かった。  自身に近づく怪しい男二人にか、それとも彼女もまたマチの表面に魅せられてか目を丸くし、あからさまに驚いていた。けれどマチとヒムラをこの地に呼んだのは紛れもなく、彼女であった。 「灰色の者です」  マチはお決まりの言葉を告げ、煙草の火を携帯灰皿に押し付けた。途端に安心しきった彼女は涙ぐみ、ビラを背に大きく一息、震えた息を吐きだした。
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