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「ここが私たちが泊まっていたところで、部屋は二つあります。トイレとお風呂は別ですし、リビングと、そっちはキッチンで。ベッドに、お布団は備え付けてありますが、チェックアウトの時にカバーを外して管理室に持って行かなきゃなりません。宿泊中は清掃が入らないので自分たちで。後は、大体他の宿泊施設と同じです。アメニティとか。あ、でもキッチンの刃物だけは管理室から借りてこなきゃなりません。お皿とか調味料はありますけど、お鍋とかはどうだったかな……後で管理室行ってみますね」
想定外に、良いものだった。
ヒムラは勝手に想像していた薄暗い施設の印象派を一瞬で払拭しなければならなかった。それもかなり上等なイメージに。
若者が大勢で宿泊する、そんな場所は格安であるはずと考えていた。狭かろう、簡素であろう、そんなイメージが勝手に植え付けられ、かつ、育っていたことを詫びなければならない。
なんの種類なのかは知らないが、香る木のにおいは森林にいるよりも強い。頭の中が冴え渡るようだ。備え付けられている家具に古めかしさも感じない。薄汚れた風もなく、清掃が行き渡っている以上に真新しくも感じた。
「凄い。新築みたいだ」
「リフォームとかもかなりしたみたいです。街コンとか、そういうので使うので直したっていうの、管理室の方が話してました」
「あー、通りで。そういうので使ってるなら、確かにきれいにしなきゃですよねー……」
二階光の説明の最中、荷物を床に置いてヒムラは物件散策に夢中となっていた。靴は玄関で脱いでスリッパ移動の為雪や溶けた水で汚れることもない。度を超え気味なきれい好きのマチでも床に座れる程に清潔である。
リビング、キッチン、奥に進んで突き当りがトイレ、左手に洗面所、脱衣所と風呂がある。進まず少し手前に扉があり、これは先程通過した玄関と続きの廊下になっていて進むと右手に六畳程の部屋が二つあった。
ヒムラはわけもわからず気分が上がり、止まらず目につく限りの扉を開けて歩いた。これが依頼人の自宅であればもう随分と前に後頭部を殴られ、この世のものとも思えない程恐ろしい目に睨みつくされた後でヒムラは藻屑となって消えていたかもしれない。けれど、その心配もない。そして、初めて見る全てが物珍しく、楽しい。
考えて見れば、旅行やキャンプといったものはいつ頃から体験がなかっただろうか。中学校のものは既に覚えていない。ということは小学校でのものもヒムラの記憶にはないはずで、それではやはりヒムラの記憶にひとつも刻まれていないはずである。
これは初めての体験かもしれない。思えば思う程、心が躍って仕方がなかった。
「ペンションというか、ロッジだな」
キッチンへ入ったマチは換気扇を回し、左手には既に煙草が一本、挟まれていた。
「一度は夢見ますよね、子供の頃に。木で出来てる家は全部秘密基地に思えてました」
黒いニット帽を脱いだ二階光の髪は圧と熱で頭の形に沿ってぺしゃんこに潰れていて、気にして何度か手櫛をしたが膨らむことはなく、肩下まである髪は梳いた分だけ静電気で一層ぐしゃぐしゃになった。
マチはそれに声をかけるわけでもなく煙草を吸い始めたが、そのマチを見た二階光は一言、「煙草嫌いじゃないですよ」と、笑顔で気遣った。
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あの日、二階光を含めた五名はこの宿に泊まり、二階光と波多野光が一部屋、もう一部屋に他三名とわかれた部屋割りだった。それを決めたのはくじ引きなどということもなく、ごく自然にそうわかれ、決まり、誰一人それに不満を言う者もいなかった。
それだけ平穏に進んでいた旅行に、なんのヒビがどう入ってしまったのか、二階光にはわからないことが多かった。
「私の職場でバイトしている子も、光のことをどうにか言っている様子もなかったですし、そもそも、呼ばないだろうなと思うんですよね。女子の好き嫌いとか、そういうのが絡む関係だと。そもそも旅行からも外すと思うんです。誘いもしないで、嫌いなら、終わった後にその話をするとか」
怖い、ヒムラは傍らでそう思ったが、ぐっと堪えた。
「だから、もし喧嘩してたのがそういうのだとしても、ちょっとよくわからないです。彼女達は皆大学が同じですけど、私だけは違って……はぶくなら、私だったんじゃないかなと思ったんですけど」
キッチンに立つマチが、さも調理音でなにも聞こえていない様子でヒムラとも視線を合わせようとはしなかった。どうした相槌をうつのが正解か、ヒムラには見当がつかず先程から延々と苦笑いを張り付けたままでいる。
が、正直な話、二階光と波多野光、他三名の口論の内容も、原因、過程も、依頼を果たすには全く必要のない情報であった。マチが言ったように、その情報は必要ないのだ。マチとヒムラ、いや、マチの仕事にとっては。
波多野光は「消えた」。それは二階光がそう表現し、断言している。マチに必要な情報はその「消えた」状況と、その前後の不自然な出来事や現象なのだ。
二階光、彼女にとっては友人たちの口論自体も不自然な出来事だったのだろうが、どうしてか、ヒムラには二階光がその口論をしていた事実を強調しているように感じられた。その話ばかりしている、ずっと、そればかりをマチに伝えている。
恐らくその部分に強い印象を植え付けなければならない事実がある。二階光にとって、不都合である何かのために。
コンロの火を止める音がして、マチがフライパンを持ち上げた。それと同時にヒムラの表情が一気に明るく穏やかなものとなった。
マチが調理していたのは簡単なナポリタンだった。ここには二階光たちと同じく三泊するが、その間は簡単なものだけを食べることになる。そうして選ばれたのが麺類と缶詰、冷凍したまま持ち運べる野菜を少しと温めて食べられる米とパン。三日分、三人分、二階光が持参したものとマチが持参したものがある。
そしてそれを調理しているのは二階光ではなく、マチだった。
この容姿と性格でマチは妙に家庭的なところがある。特に丸一日しないだけでイライラしだす程に料理が好きで、度を超してはいるがきれい好きで、最早趣味やストレス発散といった部分がある。
容姿とのギャップがあると唯一、本当の意味で評判な部分であるが、これに関してはヒムラも同意見である。
マチが施設備え付けの皿にナポリタンを盛り付けると嬉々として受け取り、食卓に並べた。これが美味であることは知っている。もう既に何度も、何年も口にしてきた味で、この殺伐とした話題の中でも安心出来る程に。
ヒムラにとってマチの料理は母親の味であるに等しい。家族に恵まれなかった、ヒムラにとっては。
「とりあえず、食べましょう! 体も冷えてるし、内臓の中からも温まらないと!」
二階光はヒムラの言葉に笑顔を表す回数が次第に増えていた。それはヒムラ自身にも感じられていて、これが今回の自分の役目であると理解していた。
恐らくマチは本筋に切り込むのであろうし、その為には辛辣な言葉も選ばなければ話は進まない。そしてそれが進まなければ、波多野光が「消えた」真実も明かされず、依頼すらこなせない。
依頼人である二階光本人が、それを望んでいるはずなのだ。「消えた友達を探して欲しい」それが、望まれた依頼であるのだから。
騒ぐヒムラと笑む二階光の間に、器用に片手にマグカップを二つ、もう片方には一つと携えたマチが揃い、食卓を囲んだ。置かれたマグカップには簡単なコンソメスープで満たされ、より一層ヒムラと二階光を賑やかにした。
「凄い。見た目も良くて料理もする男の人系だ」
あっけらかんと口にする二階光に、流石の無表情も顔を上げた。不快というよりは、不可思議に近い表情で。
だが、やはり苦言を呈することもない。その様子にヒムラは不満だが、マチが二階光を無害であると位置づけた証拠であるのも理解した為食ってもかかれない。必要もないのだが、一言くらいからかいを入れたい。
欲がない二階光は無害である。マチにとって、マチの特異な容姿に対しても。
「こんな風に男の人二人も前にして料理もしない程、実は女はそんなに料理しなかったりします。得意だったり、好きだったりでもしない限り。日昏さんは兄弟が多かったとかですか? 料理出来るのは。かぎっ子だったとか」
欲も悪意もない無邪気な問いかけは小さな子供の疑問に近いものが、多分、マチにはあった。
一拍迷った挙句、仕方なしに口を開いたマチは、それ以上付け込まれぬようフォークを持って、その後すぐに食事を始められるように。
「食わせてるのが二人と一匹いるもんで」
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