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※  波多野光(はたのひかる)が行方不明になった後、諸々から日常生活に戻ったはずの二階光(にかいひかり)を含んだ四名は、しかし続く体調不良に悩まされていた。  最初は誰しも心の疲労から来るものなのであろうと飲み込んでいたが、それにしては続く。風邪のような症状だが、熱がない。それどころか体温が低い。そして、寒い。ずっと、今も尚。  暖房の前にいても布団に入っていても、風呂に入ってもずっと寒かった。しかし瞬時で凍えるようなものではない。底冷えのように、じんわりと、常に全身が冷え続けた。  日々続く体調不良に怯えた一人は波多野光(はたのひかる)の呪いだと泣いた。そうして四人の仲も荒れ、堪えかねた二階光(にかいひかり)がもう一度このペンション宿へ向かう提案をしたが聞く耳があるわけもなく。悩んだ結果、マチへの依頼と繋がったのだった。  波多野光(はたのひかる)が行方不明になり、残った四人は謎の体調不良を訴え続ける。そしてそれが、消えてしまった波多野光(はたのひかる)の呪いなのではないかと怯えている。しかしヒムラにすらもどうにもそれだけが問題ではない気がしていた。  二階光(にかいひかり)から新たな情報が出た状況でまさかだった。ここに来てマチは問い詰めるのをやめ、急に一人風呂に向かってしまった。  随分と呑気で勝手で、「どういうつもり」とでも言えたら良いのだがそんな言葉ひとつではやり合えないのはもう重々承知のことだった。  結局「いってらっしゃい」と素直に見送り、反して全身が重怠くなってしまってほんの一瞬の疑問も、もうどうでもよくなってしまった。  真実の断片を語り、口から出してしまった不安と恐怖、そして大きな後悔で押しつぶされそうになっている二階光(にかいひかり)は、暖炉の前でしゃがみ込み、今も腕をさすっている。震えた息を吐くのはもう、泣き出しそうなのを止める為のものではないのだろうと思うとかける言葉も、するべき動作も、ヒムラには正解がわからなくなっていた。  きっとまだ語られていない部分に大きな原因が眠っている。波多野光(はたのひかる)が消えた理由、そして、彼女達の体調不良の理由も。  マチが依頼されているのはその部分で、仕事もその部分のみになる。マチがどうにかしてやれるのもその部分だけで、こうして二階光(にかいひかり)が幾ら感情の部分を語っても、それをどうにかしてやるわけにはいかなかった。二階光(にかいひかり)が幾らその涙を流しても、涙の理由を聞いてやる必要もなければ原因を取り除いてやるわけにもいかない。  それは仕事として請け負ってもいない以前、そうした感情の部分は大事な人間と行うべきだとヒムラは思う。これまでの仕事を見てきて、それだけは正解であることを知っている。  感情の部分は信頼出来る、向けられる言葉を無条件にでも受け入れられる相手と整理していかなければ自分自身が納得出来ないのだ。多くの依頼人たちからも見てきたが、それ以上にヒムラは知っている。そうでなければ飲み込んでいけないことを、自分自身で経験したからだ。  けれど、この状況はどうだろう。依頼人であるが故、名前さえ知ってはいるものの特に知人という立場でもない。まして顔を合わせたのは本日、今で何時間目なのか。この地に来たのが午後を過ぎていたのは覚えていて、先程夕食を終えた。単純に計算して、まだ九時間程しか過ごしていない女性の話を、さて、どうして聞いてやるべきなのか経験もない。  マチならば聞こうとさえもしないだろうが、ここはヒムラの感情面の問題だ。目の前で落ち込み、涙を流す相手が女性であってもなくても放っておくのが辛い。どうしたら良いのだろうか。わからない。  そうして二十分経つ頃か。長く風呂に入っていられない性分のマチが脱衣居に出たのであろう音が聞こえたのを合図に、ヒムラは意を決した。 「あのさ、呪いじゃないよ。呪いってそんな簡単に出る感情じゃないと思うし、本当によっぽどなんだと思うんだ、呪いって」  二階光(にかいひかり)は僅かに顔を上げたが、まだこちらを向くことはない。そういえば彼女はまだ真っ赤なダウンを身にまとったままでいる。食事を終えて、かつ、暖炉の前に三十分以上鎮座していても、尚。 「これまでマチのこの仕事について来て、呪いの類ってそんな、言い方悪いかもしれないけど、そんなに軽いものじゃなかった。もしも波多野(はたの)さんが本当に二階(にかい)さん達を呪っていたんだとしたら、症状……現象? そういうものが軽すぎると思う。人間の最上級の憎しみの感情みたいなものが、なんか風邪っぽい症状がずっと続くって、そんな軽いものにはならないと、思わない?」  言葉は選んだつもりだが、どうだろう。ヒムラはダイニングテーブルに突っ伏して身を低くまでして二階光(にかいひかり)の表情を窺った。傷つける言葉を選んでしまっていたなら早々に謝罪したいし、訂正もしたい。もう既に頭の中で謝罪を繰り返してすらいるこの重苦しい空気を、堪え続ける自信がない。 「……これまで呪いの仕事があったの?」 「あったよ。僕が見たのは、家や土地ごとの規模だった」 「これは呪いじゃないの?」 「呪いだったら、こんなものじゃ済んでいないと思う」 「……」 「僕たちにまだ話していない部分を含んで考えて、もし立場が反対だったとしたら、二階(にかい)さんは波多野(はたの)さんをこんな風に呪った関係だった? 結果を見るのとは別として、多分そこはマチよりも二階(にかい)さんの方が詳しいと思う」  真っ赤になった目を伏せて、二階光(にかいひかり)は、恐らく自身の過ごした時間を思い起こしていた。  それは友人が消えてしまう直前までの時間で、どこをとっても、二階光(にかいひかり)には彼女を呪える程憎いと思える瞬間はなかった。  覚えている限り、彼女と喧嘩をした記憶はなかった。進む道を別れたことで結果二年程、互いにまともな連絡はとらなかったが、けれど再会しても支障なく楽しい時間を過ごした。  何年分、どこを思い起こしても、彼女との記憶は楽しい思い出しか残っていなかった。  二階光(にかいひかり)の目に涙がたまっていく様子を見て、ヒムラは視線をそらしてしまった。  やはり言葉を間違えたのかもしれない、頭を抱えて項垂れたその時、ダウンの硬い生地が擦れ合う音がして、二階光(にかいひかり)が口を開いた。 「日昏(ひなき)さんが言ってた二人と一匹って、日昏(ひなき)さん結婚してるの?」  「そんな雰囲気あるよね」と続ける言葉は、再びダウンの生地が触れ合う音で掻き消えそうになっていたが、ヒムラは聞き逃さず呆気にとられた。  そしてそれは、唐突すぎる言葉にだけではなく、立ち上がった二階光(にかいひかり)が真っ赤なダウンを脱ぎ捨て、ソファに放ったその行動にも。  室内でも未だ白い息を吐き続けている二階光(にかいひかり)が自らダウンを脱いだ様子は、どこか決意か、諦めでもなく、受け入れた風だった。表情すら一段明るく、笑みすら戻った。  二階光(にかいひかり)の中で恐怖が消えた瞬間だったのかもしれない。  しかし、だ。 「……そんあ雰囲気ある?」 「落ち着いてるのがそう見えるのかな」 「あれは落ち着いてるんじゃなくて」  言いかけて、背後で扉が開く音がしたのを一瞬で聞き分けたヒムラは、用意しかけた全ての言葉を腹の底まで飲み下した。
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