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もっと簡素なものであろうと踏んでいた風呂は小さな温泉のようなものだった。正式名称は知らないが、青い、小さな石をタイルのように張り巡らせて作られた浴槽はヒムラの中の温泉のイメージそのままで、湯せんにつかっているだけなのだがやけに楽しい。
熱めの湯から立ち上がる真っ白な湯気、湯から少しでも出るとすぐに冷えてしまう程冷たい空気がそれらしい。行ったことはないが、恐らく温泉はこんな感じなのだ。
ヒムラの頭の中では既にどこか秘境の湯と化した湯せんは二階光が持参した入浴剤で白く濁った色をしていて一層、想像が捗った。良い香りもするが、これがなんの香りであったかはまるでわからない。それでもきっと、本物の温泉も良い香りであるには違いないのでヒムラにはその差もなかった。
浴室に取り付けられているほんの小さな窓から差し込むすきま風が高い音を立てている。外では雪が降り始めているようで、叩きつけられる雪粒が窓の下枠にたまっていく様子がわかった。
この寒さの中で温かい湯につかっているのが、また良い。薄着で冬の布団に潜っているような、変え難い心地よさがある。
この先、マチの仕事について歩けばいつか本物の温泉に行くこともあるだろうか。いっそ行ってみたいと打ち明けてみようか。マチはそうした雑踏めいたところが苦手であるのは知っているが、どうだろう、言うだけはタダである。
けれど、そうしてついて歩けるのは、一体いつまでになるのだろうか。
「ふやけるぞ」
二種の意味で浸っていたヒムラを抑揚のない低い声が現実に引きずり出した。こうも、丁度本人を考えている間に現れられるのは妙な気恥しさがある。
慌てて扉を見るとすりガラスの向こうに佇む姿があった。色味のシルエットだけでもマチだとわかる。真鍮色の頭部と白い胴体、黒い下半身、家でよく見るマチの姿そのものだった。
「なに、なにしてんの」
「早めに出ろ。この分じゃ朝方には外に出ることになる」
「は?」
「窓の外、荒れてんだろ」
言うように、確かに差し込むすきま風が冷たく、強くなっているには気が付いていた。この小さな窓ではその程度しかわからなかったが、それ程に酷い状況なのだろうか。
「どういうこと? 帰るってこと?」
「帰れたらいいけどな、そうじゃねえ」
濁らせる言葉選びにヒムラは察した。恐らく波多野光が「消えた」理由が、今、この宿の外に在る。迂闊にもそれを口にしないのは、それを二階光に聞かれては困るのだと。つまり、マチは目星がついたのだ。波多野光が「消えた」理由、あの日起こったことが。
「ヒムラ」
「え?」
「泣くなよ」
「なにが!」
この時は唐突な言葉にからかわれたのだと理解したが、その言葉の意味は数時間後、気遣いであったことをヒムラは理解することになった。
マチに言われた通り素早く風呂を上がったヒムラは、リビングに入るなり風呂から出ろと言われた理由を理解した。全ての窓ががたがたと大きな音を鳴らし、換気扇に入り込んだ風が時折爆発したような音を立てている。
雪が打ち付けられる音の他にも、外壁になにか、木々の枝が擦っているのだろうか。不穏に壁を掻く音までもが聞こえた。
「随分、荒れ始めたね」
ヒムラが風呂に入ってほんの数分だと記憶していたが、明らかに天候が急変している。家ごと揺れてもいるような錯覚があるが、もしかしたら錯覚ではないのかもしれない。それ程に強い風と、それに飛ばされる雪の量が凄まじい。暗闇の窓枠の中からでも見える、とんでもない吹雪となっていた。
「停電覚悟だな」
言う割に、呑気にキッチンを物色し始めるマチに不審な目を向けていると「電池」と一言、視線を合わせた。頑丈な暖炉があれば凍えることはないだろうが、違った部分で光は必要になる。ヒムラもマチに続いて万一に合わせたものを探ろうとした。
だが、その瞬間すきま風とは言い難い程の冷気を傍に感じ、ヒムラは足を止めた。丁度その場にはソファに張り付かんばかりに怯えて震える二階光の姿があり、ヒムラの肌を撫でる冷気は、その、彼女の体から滲み出ていた。
白い煙のような冷気が、二階光の体から床を這ってヒムラに届いている。
「に……」
名を呼ぼうとして、ヒムラは言葉を飲んだ。ほんの一瞬目を離したばかりの二階光の肌が、やけに白く、薄っすらと膜が張られたように見えたのだ。いや、そう変化したように見えた。
「あの日もこんな吹雪があったんだろ。波多野光が消える前と、消えた時に」
「吹雪が……?」
マチの言葉に、二階光は応じずともその表情で答えを表していた。
怯え尽くした恐怖が、彼女の顔面を埋め尽くしていた。
体は震えが増して吐く息は更に白く、その範囲も広がっていた。まるで冷気を吐くように動く唇の隙間からはカチカチと歯が鳴っているのが聞こえる。
最早、ただの「寒い」では済まされない。
二階光は凍え始めている。けれど、ヒムラもマチも彼女が感じているような寒さを、凍えるような寒さを感じていない。二階光は自身の中から、内側から凍えているのだ。
そばにいるヒムラの肌に、大きな氷を隣にしたような冷気が漂ってくる。
ほんの数秒単位で、二階光の体は状況が変わっていった。
縋るようにソファの布地を掴む両手は既に人の色を忘れ、青白く指先が紫がかっている。
自分自身に起きている現象に二階光が戸惑い、目にする光景に怯える度にあげる小さな悲鳴はやがて吐き出す白い息だけになり、彼女の体から小さな光の粉が舞った。
彼女だけがこの部屋の中で凍えている。彼女の内側からの、冷気によって。
「……二階さん!? マチ! 二階さんが!」
「体が冷たいか?」
二階光がひとつ頷いて、怯えきった瞳がマチに縋った。
「あんたの体にあの日から続いてるその寒さも、今起きていることも、これは波多野光の呪いなんかじゃない。そもそも波多野光も関係ない。これは別の生き物で、俺たちは今そいつの中にいる」
「生き物? どこに?」
二階光の様子とは裏腹に、マチの様子はこの期に及んでも恐れの一つもない。悠然といつもの煙草を口に咥えて、火をつけた。その唇から、二階光とはまるで正反対の白い煙を吐いて。
「この生き物は古くから在って、居た場所によってそれぞれの呼び名がある。現れる場所と状況に合わせて、この地方では“ふぶく”と呼ばれていた頃がある」
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