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コーヒーの香りは、麻薬のように脳を刺激する。秘書が用意してくれたエスプレッソに鼻を近づかせると、俊惠は目を閉じて深呼吸した。
下界は今日も平和そうだ。俊惠はこの眺めが好きだった。見下ろすことが好きというわけではない。すべてがちっぽけに見え、日に照らされたこの世界が穏やかに見えることが、心に一筋の安らぎを与えてくれる。それがたとえ偽りの平和であっても、そう見えることが心を空っぽにしてくれた。
その平和は、一本の電話によって、いともたやすく壊された。
「和泉さん、お父様の様態がよろしくありません。病院の方に今すぐ来てください」
父親が入院している病院からだった。心筋梗塞で倒れてから入院生活が始まり、ちょっとした風邪でも様態が簡単に悪化するようになった。
俊惠にとって、父親は上司そのものだった。父親らしい思い出など、どんなに記憶を掘り下げても、ない。小さい頃に母親を亡くし、俊惠は早くに大人になることを強いられた。唯一の後継者である一人息子に対する期待が大きいのは、大人になった今なら理解できる。それでも、俊惠にとっての父親との関係は、つらい思い出の連続でしかない。だから、入院中の父親に会いに行く、というよりも、会社の上司を見舞いに行く、という感覚の方がしっくりくる。
病室に入ると、眠っているように見える父親のそばには、主治医とナースが立っていた。
「外で話しましょう」
主治医は俊惠を病室の外へ連れ出した。俊惠は先生が話そうとしていることを何となく知っている気がした。
「お父様の様態ですが、かなり不安定な状態が続いています。この前もお話しましたが、心の準備をしておいてください。どこかで目覚めるかもしれないし、このまま目が覚めないかもしれません。少なくとも明日の朝までは、できればそばにいてあげてください」
そう告げると、主治医とナースはその場を離れた。俊惠は再び病室に入り、眠っている父親のそばに腰をかけた。
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