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悲しいという気持ちはなかった。人は死ぬ前に、こんな顔をするんだな、と客観的にこの状況を見ている自分に少しぞっとした。
「俊惠、俊惠」
白髪の老人は、弱々しい声で俊惠の名前を呼びながら、ゆっくりと目を開けた。
「お父さん」
俊惠は前かがみになって、父親の顔を覗き込んだ。
「俊惠、私は、罪人だ」
そう言って、老人は目をそらした。俊惠が不思議そうにしていると、父親はこう続けた。
「私は人殺しだ」
「人殺し?」
「おととしの、明光ホテルチェーンの買収の件、覚えてるか」
「ああ。確か、交渉が思った以上に長引いて、でも最後、あっさりと条件を呑んでくれた案件ですね」
この件については当時、俊惠も交渉に関わっていた。
「最後どうして呑んでくれたか、わかるか」
「いや」
「あの夜、私は一人で直談判をしに行った。君も知っている通り、明光の永田社長はプライドが高く、人前では絶対に譲歩しない。だから、二人っきりの方が話をまとめやすいと思ってね。社長室には私と彼の二人しかいなかった。最初は穏やかだったが、段々と議論が炎上してね、永田社長がいきなり、心臓を抑えながら苦しそうに地面に倒れこんだ。私は焦った。すると彼は机の上にあった小さな薬瓶を指さした。私はその瓶を手に取ったが、彼に渡すかどうかためらった。そして、その瓶を地面に捨てて、社長室を後にした」
父親は聞こえるか聞こえないかくらいの弱々しい声で語り続けた。
「翌日、永田社長は社長室で亡くなっている状態で発見された。心臓の持病によって急逝した、と判断され、そのまま葬儀が行われた」
永田社長が持病で急逝したと聞いた時は、俊惠もかなり驚いた。葬儀に参列したことは今でも覚えている。その後、明光はあっさりと和泉グループの買収案を受け入れた。
「このことは、神と私にしか知らない」
父親はかすれた声でそう付け加えた。
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