9:新開、翻弄される

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9:新開、翻弄される

「鈴木さん!田中くん!」  僕は牽制の意味を込め、敢えて出鱈目な名前を呼んで走った。  蟹江さんと京町くんが立ち止まっている民家の敷地、往来に面した壁を咄嗟に飛び越えるには僕の運動神経が足りなかったからだ。電柱の脇に放置されていたガスストーブの上に飛び乗り塀の上に手をかけた時、庭に押し倒されて口を塞がれている依頼人たちの姿が目に入った。  二人は既に、男に追いつかれていたのだ。 「やめろ!」  叫ぶと、僕に背を向ける形で二人の少女に乱暴を働いていた男が、首から上を振り向かせた。黒のジャンパーに、ベージュのチノパン。京町少年の言った通りだった。しかしこの時、男はサングラスをかけてはいなかった。 「二人から離れろ!今すぐ離れろ!」  僕はなんとか塀の上によじ登ったが、高所恐怖症の為両足ががくがくと震えた。登ったはいいがどうやって降りたらいいか分からない。飛び降りるにはやはり高い。当然ながら三人の内誰かが手を貸してくれるような状況でもない。  敷地内に侵入する意思があることだけは伝わったのだろう。男が依頼人から手を離して立ち上がった。痩身で背が高く、冷たい微笑みを浮かべた美しい顔立ちの男であった。しかしこの時、男の目がどこを見ているのか分からなかった。黒目が限りなく上瞼の下側へ入り込んでいる。 「離れ、うわ!」  体がガクンと傾き、僕は頭から庭へ落ちた。何とか体を捻ったが、それでも右肩に全体重が圧し掛かり、声にならない激痛が走った。僕の名を呼ぶ京町少年の声が聞こえた。  必死に頭を上げると、男が、ジャケットの右ポケットから何かを取り出すのが見えた。男は右手に赤黒い土の塊のような物を握り、そのまましゃがみ込んで蟹江さんのマスクをずらした。 「嫌ぁッ!」  蟹江さんが叫び声を上げた瞬間、男が彼女の口の中にその塊を押し込んだ。僕は立ち上がって突進し、男に体当たりをかました。考える暇もなく右肩から行ったもんだから、僕は気絶する程の痺れに襲われて膝を着いた。 「サイコ!」  京町少年か叫び、 「ヴ、ブエ、ウエエッ!」  蟹江さんが口の中に押し込まれたものを吐き出した。その様子を見て男は甲高い笑い声を上げた。 「もう終わったも同然だぁ」  男はそう言うと、立ち上がった僕の動きに呼応するように飛び上がり、楽々と塀を乗り越えて壁の向こう側へと降りた。 「もうすぐだよ、蟹江彩子」  塀の向こうから、静かに囁く男の声が聞こえた。 「ううう……ッ!」  蟹江さんがカラダを丸め、両耳を塞いだまま大声で叫んだ。慌てて表の往来に回った時には既に、男の姿は跡形もなく消えていた。  救急車を至急手配し、僕も同乗して蟹江さんと京町少年を総合病院へ送った。受付に到着するなり知り合いの医師を呼んでもらい、現場から押収した赤黒い謎の組織片を検査してもらうようこっそりと依頼した。くれぐれも、今運ばれて来た患者二人には結果を教えないように、と念を押して。  僕からコンビニ袋に入った異物を受け取った丸眼鏡の男性医師は、話をする間中ずっと右肩を摩っていた僕の異変に気が付き、 「新開さん、肩、どうかしました?」  そう尋ねた。 「ちょっと、へましちゃって」 「へまって?」 「ちょっと」 「ちょっと? そのご様子で?」 「ええ、まあ、ちょっと」 「どれ」 「痛ッ!」  ほんの少し触られただけでも刃物で刺されたような激痛が走る。「九里先生ぇ」と思わず泣きそうな声が出る。 「あー。外れてますね」  痛いとは思ったが、どうやら右肩を脱臼してしまっているらしい。愕然として何も言えない僕の左側に立って、 「お忙しいでしょうから、僕が今すぐこの場でハメたげましょうか」  九里先生はそう言うと、「専門外ですけど」、ニタリと笑った。  廊下を歩きながら考えた。  検査を受けた蟹江さんには特別身体的な異常は見られなかったという。どちらかと言えば問題視されたのは一緒に来院した京町少年の方で、彼は診察中医者が背を向けた瞬間忽然と姿を消したそうだ。蟹江さんと違い自分の足で診察室へ入った上で、走って逃亡したのだ。そこだけ見れば彼も怪我などは負っていないのだろう。蟹江さんのことが心配になって探し回っているのかと思われたが、京町少年はそのまま行方を眩ませてしまった。  蟹江さんにも目立つ箇所に外傷はない。その為本人が納得するかは分からないが、大事を取って一日程度は入院してもらうべきだろう思っている。九里先生から上がって来た検査報告によると、蟹江さんが口の中に押し込まれた土のような塊はだったそうだ。正体不明ではあるものの、組織構造だけで判断すればそれは人間の肉で間違いないとういう。  僕は今回のケースについて、どこまでの内容を蟹江さんに伝えるべきかで悩んでいた。廊下を歩きながら、九里先生に嵌めてもらった右肩の骨がギシギシと痛むのを感じながら……。  十回以上ノックしたが返事はなかった。相手は若い女性だ。勝手に入るべきじゃないと分かった上で、怒鳴られるのを覚悟で僕は病室の扉を開けた。 「新開です」  入口の側に立ったまま声をかけた。「眠ってますか」  個室を用意してもらった。ベッドの周囲にはパーテーションもなく、窓の方に顔を向けて寝ている蟹江さんの姿が見えていた。声をかけても、彼女がこちらを向く事はなかった。 「京町くんがいなくなったんだ。診察中に消えたそうだよ。ここへ来ているかと思ったんだけど、さっき看護師さんに聞いたら姿を見ていないって……。少し、混乱してる。正直、何から何まで、訳が分からない」  京町少年が診察や治療を拒んで逃げたことに関しては、病院嫌いの僕としては分からなくもない。しかし、友達思いに見えた彼女が蟹江さんにひと言も告げず帰ってしまうのは納得がいかない。それでなくとも、今日目の前で起きた事件について京町少年と話がしたいと思っていた。最初から僕と話をしたがらない蟹江さんよりも、出来れば京町少年の方から事情を確認したかったのだ。 「今日は、このまま一晩休んで明日帰るといい。会計はこちらで済ませたし、担当医は僕の友人だから何も心配はいらない」  入院してくれ、と告げた僕の言葉にも蟹江さんは反応しなかった。 「それと、君は未成年だから、なるべく早い段階で親御さんに連絡を取ってくれ。金銭的な面は問題ないけど、手続き上……ね」  髪の毛が枕を擦る音がして、蟹江さんがこちらを向いた。ヘッドホンは外しているが、やはり黒マスクは着用したままだった。 「あの男の事は、僕の方でも調査してみる。不安だろうけど、明日以降の君の安全に関してもきちんとこちらで対応す……る……どうしたの?」  黙って僕を見つめていた蟹江さんが不意に両目を閉じた。眠ったのかと思ったが、たちまち眉間に深い皺が刻まれたのが見えた。 「はあ」  と強く息を吸い込み、蟹江さんの顔が天井を向いた。そして彼女は掛布団の下から右手を引き抜くと、そのまま黒マスクを外して胸の上に置いた。次に左手を布団から出し、ただ茫然と見ている僕の前で頭髪を握った。 「え」  頭が取れた、と思った。いや、僕がずっと灰色のショートボブだと思っていた蟹江さんの髪の毛は初めからウィッグだったのだ。僕は驚きのあまり唇をパクパクさせた。こういう時、何て言ったらいいのか分からない。  蟹江さんは苦も無く上体を起こしてベッドに座り、ペタンコになっていた髪の毛を右手でわしゃわしゃと解きほぐした。茶髪の、ゆるふわパーマだった。 「どういうことだよ」  呟くを僕を、蟹江さんの大きな目が見つめる。伊達眼鏡こそかけていないが、ウィッグを取ってマスクを外した蟹江さんの素顔は京町少年と瓜二つだった。 「ふ」  ――― 二人は姉妹だったということなのか? ならどうしてそれを隠す必要がある。最初からそうと言えば良かったじゃないか。 「君たちは双子だったのか?」 「ううん、違う」 「違う? じ、じゃあ何なんだ。それにあの時、僕に助けを求めて電話をかけて来たのは本当に京町くんかい? それとも蟹江彩子、君の方だったのか?」 「うん、私」 「なら!」  更に質問を重ねようとした僕に向かって、彼女が左手を差し出した。握手、ではあるまい。自分でも頼りない足取りでベッド脇に歩み寄った僕は、側で見るとまるで見分けがつかない蟹江さんの顔に京町少年を重ね見ながら、 「何だい」  と聞いた。掛布団に覆われた自分の両足を見下ろしたまま、 「けーたい」  と彼女は低い声で答える。僕は周囲に視線を走らせ、 「いや、知らない。どこかに忘れて来たのかい」 「新開さんの」 「僕の? どうして」 「……いいから」  良くはない。良くはないが何となく断り切れない雰囲気だった。僕は自分のスマホを取り出して、変なことしてないでね、と言いかけてやめた。四十前の男が言う台詞じゃないと思った。 「私、未成年じゃないよ」 「……え?」  蟹江さんは僕のスマホを手に持つと、両手で握って何やら高速で操作し始めた。辛うじて蟹江さんであることを分からせるブルーの瞳が、ふるふると震えている。 「もう二十歳になってるから」 「高校生って噓なのか」 「……ごめん」 「いや、別に、いいんだけど」  女の子がたった二歳サバを読んだだけだ、怒るようなことでもない。「京町くんは?」 「……同い年」 「制服着てたよね?」 「あれもうちのブランドが出してる服」 「は……はあぁ」  「はい」  と言って蟹江さんがスマホを突き返す。「帰って」 「はい!?」 「帰って。お願い」 「か、ああ、うん。帰るけど」 「明日、連絡ください」  聞きたいことは山程ある。だが初対面で見た蟹江さんの態度からして、気乗りしないことには頑として応じないだろと分かっていた。 「分かった。部屋の前に警備をつけるけど、構わない?」 「……」 「もちろん女の人だよ」  蟹江さんは真剣な目で考えた後、「うん」と頷いた。  病室を出た僕は、あらかじめ待機してもらっていたチョウジの調査員に頷きかけた。以前柊木さんと一緒にいた姿を見かけたことがあるように思う。初めて見る顔ではなかったが、話をした記憶はなく、名前も分からなかった。 「お疲れさまです、新開です」  こちらから会釈して近寄ると、その女性はかつんと踵を付けて背筋を伸ばし、九十度に頭を下げた。 「高品班から来ました、陣之内萌(じんのうちもえ)です。よろしくお願いします」  あまりにも畏まった態度と冷や汗が出る程の声量に僕は苦笑し、病室の前から移動しつつ話を聞いた。 「高品くんの班なんですね。聞いた話だと陣之内さんも別件で動いてるそうで。申し訳ないです、急な要請になってしまって」 「いえ、現場から一番近かったのが私だったので。逆にすみません、こんな新人に毛が生えた程度の奴が来ちゃって」 「とんでもない」  見た目は確かに、公安職員とは思えない程線の細い女性だった。ただ、髪の毛を真ん中で割り、綺麗に編み込んで後ろに束ねている辺り、見た目に気を使えるだけの心の余裕があるということだ。良いことだと思う。 「中にいるのが僕の依頼人です。警護についてくれるのが陣之内さんだと分かれば、彼女も安心すると思います」 「だと良いんですけど。でも、一晩だけで良いんですか?」 「今は何とも言えませんが、明日にはうちから人を呼べると思います」 「天正堂から?」 「陣之内さんこそ、大変じゃありませんか?」 「……まぁー、それはー、ちょっと……」 「やはりそうですよね、申し訳ないです」 「いえいえ」 「うちでも極力バックアップしますので、この場で少しお話を聞かせてもらえますか」 「助かります本当に。でも新開さん、肩、どうされたんですか?」 「あは、は」  諸々の情報交換を経て、この日は現場を陣之内さんに引き継いだ。僕は今から、九里先生に預けていた謎の肉片を手掛かりにあの男の調査に乗り出すつもりでいる。明日の朝にはまたここへ戻って来る事を考慮すれば、今夜は徹夜になるかもしれない。 「先輩に連絡しとくか」  病院の外に出て、ようやくそこで車がないことを思い出した。「……乗ってくるべきだった」  元居た住宅街に置いて来た自分の車を取りに戻るべく、病院前でタクシーを止めて乗り込んだ。妻に今日は帰れないという旨の連絡を入れようとスマホを取り出した僕は、ホーム画面を開いた途端見慣れないサイトが自動で立ち上がったことに驚いた。 「何だこれ……。は」  蟹江さんだと分かった。彼女は僕のスマホを操作し、検索をかけるなりしてこのブラウザを開いたのだろう。だが、不思議なページだった。一般的な閲覧専用サイトとは違い、表示されている文面の左端に「|」というカーソルが点滅している。 「これは」  僕もパソコンを使って資料作成を行う為、すぐに理解出来た。蟹江さんが立ち上げたのは単なるホームページではない。自分で文章の作成、投稿、管理が可能なSNSアプリだったのだ。しかもカーソルが点滅しているということはアカウントにログイン済みであり、今まさに僕の手の中で更新作業が可能であることを意味している。僕はこの事実を、 「これは私が書いた文章です」  という、蟹江さんからのメッセージだと受け取った。  『| 記事タイトル:理解を越えた生命 』  布団の中で目覚める  右手で体に触れて  感触を確かめる  声を出す  自分の声を確認する  色のない世界で  私は混乱する  右手を這わせると  身に覚えのないぬるぬるとしたものが  股の間に乾ききらずに残ってる  なぜ存在してるのか  その答えを知ってる人間がいるだろうか  運命とは決して目が合わない  自分のいる場所が分からない  目の前にいるのに  あの子の心と目が合わない    しゃべってる言葉は全部が私の記憶  どこにも噓はない  私は私だ  あの時の私も  この時の私も  私だ  私は頭がおかしいらしい  でも確かに存在すると分かってる  この世に確実に存在する  全く別の生命体  ここにいる私  いない筈の私  もうひとつの私  私は私だ  でも私は、どこだ 』
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