10:新開、馬鹿が露呈する

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10:新開、馬鹿が露呈する

 何度も何度も、繰り返し蟹江さんの。この文章は、多感な年頃の少女が書いた自己投影による詩の類ではない。覚悟を決めて僕にこれを見せた蟹江さんの身に起きている、紛れもない真実が書き記されているのだ。彼女の心の声だ。 「……こんなこと、あり得るのか?」  僕の頭に浮かび上がってきた一つの可能性に、内臓が震える思いだった。こういう風に目の前の現実から裏切りを受けたことはただの一度もない。僕は何も感じず、何も疑わず、との出会いをそのままの意味で受け入れていた。だが少なくとも蟹江彩子が生きている現実と、僕の目に映る現実は全くの別物だったのだ。 「いや、待て……待て待て」  同じ顔をもつ二人。  突如姿を消した京町泰人。  マスクを外し、ウィッグを脱いだ蟹江彩子。  僕の前で饒舌に話した京町泰人。  ほとんど僕に声を聞かせてくれなかった蟹江彩子。  同じ顔を持つ二人。  ――― でも確かに存在すると分かってる。この世に確実に存在する。  その通りだ。僕も見たし、それぞれと話をした。蟹江さんの頭がおかしいのなら、僕も等しくおかしい筈だ。  ――― 全く別の生命体。ここにいる私。いない筈の私。もうひとつの私。  あの時彼女らは僕の前に座り、何か言い争うような素振りを見せた。僕はその時別のことを考えていたが、果たして彼女らは本当に、僕の前で一度でも会話していただろうか? どちらかが一方的に話し続けていただけではなかったか?  この段階で考えられる可能性として、僕はあるひとつの現象を思い浮かべていた。だが、 「信じられない。僕は何か思い違いをしているんじゃないか」  もしが僕の想像通りの存在ならば、通説では口を利かないとされている。だがあれは僕の目の前でポテトを食べ、話をし、に堂々と座っていた。もしもなら、その実態は僕の頭の中にあるどんな知識をも飛び越えた超常現象と言わざるを得ない。  僕はスマホのアドレスを操作して、京町少年の携帯電話にかけてみた。十秒が過ぎ、三十秒が過ぎ、やがて一分が経過した頃、 「はい」  と低い声が返って来た。 「新開です」 「……うん」 「どうして君がこの携帯電話を持っている」 「……」 「君は初めから全部分かっていて、僕に接触して来たんだね? 蟹江さん」 「うん」 「理由は?」 「私を助けてほしかったから」 「僕を探し出せたのはどうして?」 「その話はもうしたでしょ」 「君の口から聞きたい」 「……アプリ、読んでないの?」 「読んださ。つまり昨日、京町泰人から聞いた、父親がうちの団体と関係があると言った話も、蟹江彩子さん、君の記憶なんだね?」 「頭がおかしくなりそう」 「あれはいつから君の前に現れてる?」 「どういう意味?」 「ドッペルゲンガーなのか?」 「……それは、どういうもの?」 「いるはずのないもうひとりの自分がいる。そうなんだね?」 「……そうよ」 「今起きてる異変はいつからなんだい」 「はっきりとは覚えてない。でも、半年くらい……かな」 「それまでは何も異変はなかった?」 「……うん」 「京町泰人と君は、その……」 「家族、だよ」 「家族?」  ドッペルゲンガーが、家族だって?  いや待て、そうと決めつけるにはまだ早い。  しかし……。 「どれだけ離れていても、あの子は心の中にずっといる」 「……」  自らの心が作り上げた幻想、という意味だろうか。しかしその場合、事例として最も近いのは自己像幻視、つまり錯覚である。だが自己像幻視の症例上見えるのは当人だけとされ、第三者に認識されることはない。仮に、僕の見た京町泰人が本物のドッペルゲンガーだとしても説明できない謎が多々残されている。それでも僕は、 「信じるよ」  蟹江さんにそう伝えた。まずはここからだ、そう自分に言い聞かせながら。 「うん」  と蟹江さんは答えた。ありがとうとは言わなかったが、彼女の声にはそれまでになかった温もりや優しさが感じられた。 「今の時点で分かる事を教えて欲しい。京町くんは蟹江さんの味方かい?」 「……そうだと思うけど、どうして? 質問の意味が分かんない」 「現れる切っ掛けやスイッチのようなものはある?」 「スイッチ? 何の話?」 「どうして携帯電話を二つ持ってるの?」 「それは……存在証明、というか。自分がこの世にいるっていう」 「だけど」  ――― だけど、そのもう一人の自分だって君自身なのだろう? 「だけど?」 「いや……じゃあ、君が京町泰人じゃないという証拠を示せる?」 「な、何言ってんの?」 「京町泰人が本物で、蟹江彩子が偽物という可能性もあるじゃないか」 「意味わかんない。そもそも、京町泰人なんて人間いないし」 「いない? でも彼女は自分でそう名乗ったじゃないか」 「あれは私が考えた、ま、漫画のキャラクター名、だから」 「何故そんな嘘をつく必要が?」 「新開さんのことよく知らなかったから」 「……」  いちいち辻褄を合わせて来ることに、無意識のため息が口を突いた。「今日君たちに接触したあの男のことは本当に何も知らない?」 「知らない」 「分かった。もういいよ、あとはこちらで何とかする」 「私は?」 「明日迎えに来る」 「……ウィッグ、つけてもいい? マスクも」 「任せるよ」  タクシーから降りて自分の車に乗り換えた。陽が傾き、曇り空にのしかかられた町で、ただでさえ人気のない住宅街に立っていると、ここが世界の最果てなんじゃないかと思えてくる。恐々と民家の屋根を見上げ、七永と残間京が立っていないかを確認する。風が吹き、 「さむ」  僕は上着の襟を立てた。  自宅とは別に仕事用で借りているマンションに到着し、地下駐車場に車を停めてエレベーターに乗り込んだ。すると、僕が乗り込むと同時に人ではない何かが入り込んで来た。姿や影は見えない。ついて来たのか、元々この辺りに漂っていたのかも分からない。しかし僕の目で見えない程度の浮遊霊ならば、放っておいてもまず問題はないだろうと思った。  エレベーター内には僕しかいない。得体の知れない霊体と二人きりというのはさすがに気味の悪さを感じたが、かと言ってどうすることも出来ない。  四階で止まる。  僕の借りている部屋は九階にある。  扉が開き、OL風の女性が「あ」という顔をする。右手の使えない僕は左手で「開」ボタンを押して待っていると、すぐに女性は階下を指さして会釈した。下へ行きたいらしい。僕は会釈し返して「閉」ボタンを押す。ふわりと僕の左頬を撫でて、同乗していた霊体が女性の方へと移動した。 「どうする」  このまま行かせてよいものか。思案した、まさにその時だった。 「……、……」  突如囁くような声が聞こえたかと思うと、僕が左手に持っていたトートバッグが霊体の移動に反応し、波打つように激しく蠢いた。扉は閉まりかけている。OL風の女性が、 「え?」  という顔で僕の手元を見た。 「あ、いや」  左手を引いて身体の後ろへ回した瞬間、途轍もない勢いでバッグがエレベーターの扉にぶつかった。バッグを持っていた僕の左手も引っ張られて扉に激突する。ギリギリのタイミングで扉が閉じた為、女性にはかすりもしなかった。だが見られた可能性は捨て切れない。単なる変人の奇行として受けとってくれれば良いが(良くないが)、見てしまったことによる霊障が彼女に現れないとも限らない。その場合、責任は僕にある。 「この野郎」  トートバッグを開いて見る。中には九里先生から返してもらった例の組織片が入っている。赤黒い土のような塊。大人の握り拳よりも小さなものだが、ありていに言えば人肉である。だがどうやら、僕の読みは当たらずとも遠からずであるらしい。とりあえず、家に持ち帰らなくて良かったとほっと胸を撫で下ろした。  仕事部屋に入るなり、リビングのテレビがひとりでについた。だがそれがトートバッグの所為ではないことは、すぐに分かった。 「おかえりなさい」  テレビの向こうから声が聞こえた。最初は砂嵐だったモニターにやがて色がつき、ゆっくりと女性の横顔が浮かび上がって来る。 「あのー……」 「ええ」  女性の顔がこちらへ向く。 「君さ、僕が怖がりなの分かっててそういうことするんだね」 「怖いですか?」 「ああ、特に今はね」 「もうあなたには怖いものなどないと思っていました」 「何を根拠にそこまで買いかぶれるんだい、幻子(まぼろし)」  テレビモニターに映し出された女性の名は、三神幻子。かつて「天正堂」三神派の看板を掲げていた頃、師である三神三歳のもとで共に暗夜を歩いた戦友であり、類稀なる力を持った霊能者にして、僕の兄弟子だ。 「元気かい?」 「元気ですよ」  僕はソファーに腰を下ろし、足元にトートバッグを置いた。 「それ。私の部屋におかしなものを持ち込むのは止めて下さい」  と幻子は言う。テレビの向こう側にいる彼女の目が、僕の足元を見ている。 「僕の部屋でもあるから」 「そういうことは言ってません。何ですかそれ」 「何だと思う?」  幻子が両目を細めてトートバッグを睨む。 「……呪物?」 「やっぱりそう思うよね」 「あれ、新開さん肩どうしたんですか? 右肩」 「ちょっとね、へましちゃって」  あえて言うが、これはテレビ電話ではない。インターネット通信を使った情報のやり取りでもない。幻子が一方的に電波干渉を行い、無理やりテレビを通して僕を見ているのだ。タイムラグもなく会話が成立しているが、実際僕は何もしていない。 「それより、日本にはいつ帰ってくるの」  と、問う。幻子は今、父である三神三歳、そして夫である台湾人結界師、ツァイ・ジーミンと共に彼の生家で暮らしている。 「今月中には帰ろうと思っていたんですが、やめようかと」 「どうして?」 「新開さんがまた変なものに絡まれているな、と思って」 「あはは。仕方ないよ、仕事だものね、これが」 「……染まり切らないでくださいね」  幻子の、慈愛に満ちたその声と言葉に、僕は無意識に彼女から視線を逸らした。 「どういう意味だい?」 「私は、新開さんならうまくやって行けると思います」 「……何を?」 「天正堂。階位第三」 「その話」 「でも」 「……」 「私は……もう、なんていうか、引いちゃうくらい怖がりで、わーわーわーわー叫んでた昔の新開さんも好きですよ」 「あはは!」 「実際あなたは上手くやって行けるんだと思います。でも、上手く立ち回ろうなんてしないでください」 「君の言葉は素直に受け止めるよ」 「別に、未来を視て言ってるわけじゃありません」 「分かってるよ」 「いつでも言ってください。いつでも駆けつけますから」 「そういうわけにはいかないよ」 「新開さん」 「……」  情けない、と口の中だけで呟いた。本当はそんな風に思ってはいけないのだけれど、だが本音はそうだった。情けない、いつまでたっても、僕は。 「誰かになんか言われた?」 「……」 「信夫とか」 「……いえ」 「そう」 「土井代表から七永の話を聞きました」 「そっちかー……」 「正直」 「うん」 「終わったー……。そう思いました」 「僕もだよ」  溜息しか出ない。ソファに背を預け、身体を沈み込ませてこのままどこかへ消えてしまいたいような気さえする。 「ただ、新開さん」 「何だい?」 「今の私、超強いですよ」 「つ」  笑いが込み上げてくる。「何だよそれー……。あ、そうだ。丁度いいよ幻子、そんな君に相談したいことがあったんだ」  そして僕は、今自分が置かれた状況を説明すると共に、蟹江彩子の身に起きている超常現象の謎を解明するべく、希代の霊能者に次々と質問を投げかけていった。幻子は常に冷静で、時に腹立たしい程常識的な答えを述べつつも、僕の抱えた疑問を一緒に受け持つことを快く了承してくれた。 「まず最初にひとつ」  と幻子は言う。 「うん」 「新開さんて相変わらず若い女の子に弱いですよね」 「……え!?」 「良いですか、大前提なんですけど、蟹江さんが噓つきじゃないと信じた理由は何ですか?」 「……」 「ホラ、相手の言葉をすぐ鵜呑みにするところも変わってない」 「面目ない」 「彼女らが双子じゃないという根拠は?」 「違うと本人が否定した。逆に双子だとしたら何故それを隠すんだよ。別々の格好をして、他人の振りをする理由が分からないよ。病院でウィッグを外して素顔を晒せるなら、最初からそうしなかったのは何故だい?」 「知りません。裏付けを取っていない以上、双子かもしれませんね?」 「実在する人間なら、そうかもしれないね」 「新開さんらしい言い方。じゃあ、ここはあなたの顔を立てて、京町泰人などという人間は存在しない、という仮定で話を進めます」 「はい」 「バイロケーションの可能性は?」 「……」 「ちょっと、もう」  バイロケーションとはドッペルゲンガーを能動的に出現させる力の事を指す。幻子はつまり、蟹江さんが自分の意思で京町泰人を生み出しているのではないか、と疑っているのだ。確かに、今の所バイロケーションを否定出来る根拠はない。しかし、 「最初からそれは疑っていない」  と僕は答えた。 「何故?」 「それこそ蟹江さんが噓をついてしまったらそこで終わりだからだよ。それにもしバイロケーションなら、初めから僕を呼ぶ理由がない」 「あなたを呼んだのは謎の男の存在が理由では?」 「……それは、確かにそうだけど」 「はあ」  呆れたような溜息を吐き出しつつ、幻子は言う。「では、新開さん的にはその可能性が極めて低いと判断されたわけですね?」 「そもそも、僕の知る限りでは君だけさ。遠見(とおみ)の力を持つ君だけが、リモートビューイングを行いながら対象者の側に生霊を出現させる力を持ってる。蟹江さんに君と同じ力があるとは思えないよ。これはもう……感覚だ」 「でも無意識なら?」 「それならもうバイロケーションじゃない、やはりドッペルゲンガーだ」  だがドッペルゲンガーはフライドポテトを食べたりなどしないし、他人と饒舌に会話を楽しむこともない。それはバイロケーションも同じだが、どちらにせよひと目で生きた人間と区別がつかない時点で前例にない。 「死者を肉眼で捉えることにかけては右に出るものなし。新開水留ですら京町泰人の正体には気が付けなかった……となれば、それはこの世ならざる者とは違う何か」  ……生霊よりも濃い、何か。  幻子は声を潜め、そう続けた。  高い霊性を持った人物の生霊であれば、他人に触れることが可能なのだそうだ。だが蟹江さんが独白で匂わせたような、本人が気付かぬうちに男性と肉体関係を持つことなど絶対にあり得ない、と幻子は言う。 「もし蟹江さんが超高位の霊性を持った生霊を出現させているとしても、男性と交配する間中生身の肉体と変わらない質感を保持するなど不可能です。ましてや自分の身体にその痕跡が残るなど矛盾も甚だしい。以上の事から私はやはり、蟹江彩子がどこかの段階で噓をついていると判断します。仮に京町泰人がドッペルゲンガーだとしても、彼女らには他にも何か秘密があるはずです」
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