12:訪ねて来る女

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12:訪ねて来る女

 高品春樹の三年後輩にあたる北城省吾が担当する現場は、同じく集合住宅の一室だった。とは言っても件の垂水団地からは車で一時間近く離れた場所にあって、この日北城くんと合流出来たのもすでに夕暮れが近い午後五時だった。 「お疲れさまです」 「お疲れさま」  エントランスにて挨拶を交わす。若く体格のいい北城くんからは、高品くん程の精神的な疲労は感じられなかった。が、彼の顔を見た瞬間先日訪れた八巻家が思い出され、同時に黒井七永と残間京の居並ぶ光景が甦って来るから、どちらかと言えば僕の方こそ怯んでしまう。 「顔色が優れませんね、新開さん」 「君の上司にまんまと言いくるめられてへとへとさ。……ここもまたデカいなぁ」  目指す現場はサンシャインパレスという名のマンション、その807号室である。むろんエレベーターで階上に向かうわけだが、建物の真ん中が吹き抜けになっている為、玄関エントランスから最上階まで視界が開けている。見上げると、首が痛い。 「高品先輩の現場から、直ですか?」 「うん」 「すみません、なんか……」 「別に北城くんから担当を引き継ぐつもりで来たんじゃないよ?」 「分かってますよ、それはもちろん。でも高品先輩の現場も団地でしたよね、確か」 「そう、垂水団地。ここは何階建て?」 「二十階ですね」 「首いた」 「いや、新開さん、首より肩ですよ。肩どうしたんですか」 「……聞かないでやってぇ」  僕は率先して廊下を歩いた。もちろんこの現場を訪れたのは初めてだが、ここへ来るまでに垂水団地で住友周さんに会ったからだろう、霊的なものに反応する索敵感度が鋭敏になっていた。北城くんに案内されなくとも、自分がどこへ向かえばいいのかを肌で感じ取っていた。 「話がしたい。途中まで階段使おうか」  提案すると、 「分かりました、自分、先歩きますね」  北城くんなりに年上の僕を気遣ってくれたようだ。前だろうが後ろだろうが、彼がどちらを歩いた所で僕の体力残量には関係ないのだけれど、何となく気持ちが嬉しい。廊下を突き当りまで行ってエレベーター横の扉から階段の踊り場へ出た。 「さむ。……それで、依頼人なんだけど」 「はい」  上着の懐から手帳を取り出し、北城くんは書き留めた情報を読み上げていった。「名前は矢沢誠二(やざわせいじ)、男性、二十四歳、フリーターですね。ここへ越して来たのは大学卒業後で、異変が起こり始めたのはひと月程前だそうですね。事象としては、夜中に……女が訪ねて来る、と」  最初に相談を受けたのは地元の警察署だったそうだ。最寄りの交番から派遣された警官は、通報通り矢沢誠二さん宅の前で呼び出しボタンを連打している女を目撃したという。背が高く、ボサボサの長い髪が特徴的な女だったそうだ。その後、声をかけると女は走って逃げた。その様が、おもちゃの電源を入れた時のような急激な始動を想起させ、人間離れした挙動と逃走速度に思わず警官は悲鳴を上げたそうだ。 「情けないですよねえ。だってその場で取り押さえていれば、そこで終わってた可能性もあるわけなんでねえ」  北城くんは言うが、僕はそうは思わなかった。 「いや、怖いよ、普通に考えて。夜中に女の人が知人でもなんでもない人ん家のピンポン押してるんだよ? 誰だって近付きたくないよ」 「でも単なる酔っ払いが間違えて押してただけかもしれませんよねえ」 「その一回こっきりならね。でも違うんだろう?」 「ええ……まあ、結果的にはそうですね」 「この現場に入ってから、北城くんはその女の人を実際に見たの?」  問うと、北城くんは黙った。階段を上る革靴の音がやたらと甲高く反響している。 「見た……部類に入るんでしょうかねえ」  前を歩きながら首を傾げる彼の背中に、 「どういう意味」  と聞いてみた。 「依頼人の部屋は廊下の突き当りに近い位置なんですね。エレベーターからも階段からも遠くて、玄関で息を潜めて待ち構えてると、向こうから歩いて来る足音が聞こえてくるわけなんですね」 「成程」 「依頼人がその足音にひどく怯えてまして、足音が聞こえ始めた瞬間、来た、あの女だ、とぶるぶる震えちゃいまして、ね、まあ僕も身構えるじゃないですかそんなの、ね?」 「うん」 「それで、ついに足音が部屋の前まで来たっていうタイミングで、依頼人、僕のすぐ後ろにいたんですけどね、手に持ってた缶ビールを床に落っことしたんですよね」 「ああぁ」 「っすよねえ。その瞬間僕も『あ』て声出ちゃって。したら足音が物凄いスピードで遠ざかって行ってしまって」 「……」 「ドアスコープ覗いても何も映ってませんし、扉開けて外出たんですけどね、全く見えずでした」 「見てないんじゃないか」 「ううう、追いかけようとしたんですよ、でも依頼人がひとりにしないでくれって、泣いて」 「そりゃそうだよ」  結局僕たちは五階まで階段で上り、そこからエレベーターを使った。当マンションエレベーターのかごは二台あって、殆ど待ち時間なく乗り込むことが出来た。 「直感でいい。北城くんはその女が、矢沢さんのストーカーか何かだと思うかい? つまり、人かそうでないか、を聞いてるわけなんだけど」 「分かりますよ言われなくても……んーとですねえ」  右肩が疼いた。  昨日、仕事部屋を借りているマンションのエレベーターで体験した出来事が思い出され、何となく嫌な余韻が戻って来た。デジャヴではないが、また何かが起きるのではないかという、漠然とした不安。 「人、ですかねえ」  と北城くんは答えた。「逃げてるわけなんでねえ、実際、その女も。もしそれが霊体なら、別に警官に声かけられたって逃げる理由にはなりませんし、自分がひと声発したくらいで姿を消すのも変ですからね」 「確かに」  一理ある。だが、決め手としては薄い。「じゃあ、チョウジにはどういった内容で事案が回って来たの? 地元警察が警戒を強化するとか、検問かけるとかで対応出来なかったのかい?」 「むろん、それをやった上ですね。でも逆にそのせいもあるんですね。というのもあんまり依頼人が大騒ぎするもんで、地域一帯に検問敷いて、怪しい女の出没がないかを数日かけて取り締まったんです。ところが、その検問の真っ最中に、矢沢さん家に女が出た」 「うわ」  依頼人は大パニック、マンション下で警戒に当たっていた警官たちは真っ青になって「おかしい」「そんなわけはない」と口々に言い訳した。矢沢誠二さん本人を問い詰めることはしなかったが、地元警察は本当に女が現れたのか、矢沢さんの証言そのものを疑った。そこで廊下に設置していた防犯カメラを確認した所、エレベーターの扉が開いてかごから出てくる背の高い女の姿がはっきりと映し出されたという。当時一階エントランスの警備員室にて監視中だった警官の話では、その時間、住人も含めて誰一人エレベーターには乗り込んでいないとのことだった。 「なのでまあ実際には、完全なチョウジ預かりってことでもないんですね。まだ時間的にあれですけど、午後八時以降には警邏が巡回に来ますから協同で……ええ」 「よく分かったよ」  そして僕たちは矢沢誠二さんの部屋である、807号室に到着した。呼び出しボタンを押そうと右手を挙げた途端、勢いよく扉が開いた。 「いた!」  僕は慌てて飛び退いたが、身体の前に出していた左手の中指を強か扉にぶつけてしまった。部屋の中から若い男が顔を出す。 「ベルを押さないでくれって言ったでしょ!」  すみません、と北城くんが頭を下げた。僕は聞いてないぞ。そう思いながらも、突き指した左手を抑えながら一緒になって頭を下げた。      吹き抜けの構造と階層を見上げた時から薄々気がついてはいたが、サンシャインパレスは高級という名に相応しい高層マンションだった。建物の玄関はもちろんオートロック。矢沢さんの許可なくエレベーターに乗り込み部屋の前までやって来るというのなら、もはやその女は当該マンションの住人なんじゃないかと思えてならない。もちろんその可能性については警察が調査済だろうし、だからこそ警戒網をすり抜けて現れた女に対し「そんなわけない」と叫んだのだ。  矢沢さんは、年齢よりも若い印象を受ける今時の青年だった。髪の毛を茶色く染め、首から金色のネックレスをぶら下げていた。僕が部屋を訪れたのは平日の夕刻だったが、彼は既に赤ワインの入ったグラスを手に持っていた。失礼な言い方だが、何故この若さとフリーターという職業で、こんな高級マンションに住めているのだろう。八階とは言え、彼ひとりで何とかなるレベルの家賃ではないだろうに……それが、僕が矢沢さんに初めて会った時の印象だった。 「適当に座ってください。……すんません、手、平気っすか。氷持ってきましょうか」 「ああ、いえ、大丈夫です、お気になさらず……」  通されたリビングもやはり広かった。高級家具やトレーニングマシンまで置かれている為がらんとした印象はないが、それでも開放感のある空間と天井の高さが貧乏暇なしを地で行く僕の目を釘付けにした。北城くんに肘で小突かれ、我に返る。 「それで、なんか進展あったんすか」  矢沢さんの問いに、 「いやあ」  と北城くんは後頭部を掻いた。「まあ、その意味合いあって、一度こちらの方に現場を見ていただきたいと思いましてね」  矢沢さんの目が再び僕を見る。下瞼には、かなり分厚い隈が出来ていた。 「あんたは?」 「申し遅れました、新開水留と申します。しがない拝み屋でございます」  両手を体側に下ろして一礼する。 「拝み屋? 何それ」 「矢沢さんの置かれた状況を多角的に調べてみよう、ということすね」  北城くんの説明に矢沢さんは首を捻る。「……タカ?」 「可能性の話ですよ」  と僕は言った。声を張って、広い部屋全体に響き渡るように。「矢沢さんの被害が狂人のストーカー行為によるものならば、この北城くんを始め日本の優秀な警察機構が必ず犯人を捕まえてくれるでしょう。だが物事には必ず表と裏がある。今回、矢沢さんはその女に全く御心辺りがない、そうですね?」 「あ……ああ、はい」 「もちろん通り魔的な、お互いに因果関係のないストーカー犯罪がないわけではない。しかし見方を変えると、全く別の事象が浮かび上がってくる。表と、裏です」 「裏って……何ですか?」 「あるいはその女が、です」  矢沢さんの手から赤ワインのグラスが落ちた。  大抵の場合、ここから依頼人の猛抗議が始まる。初めから霊障被害を訴えて来る依頼人は別として、自分や家族を悩ませる被害の原因に全く心当たりがない場合、人は他人から霊的な要因を指摘されると怒る。怖いからだ。よもや自分の身に超自然的な事象、いわゆる心霊現象が起きていることを認めたくないからである。だが、矢沢さんの態度は違った。 「やっぱり……」 「やっぱり、とは?」 「だって」  俯き加減に視線を下げる矢沢さんに、北城くんはおろおろと狼狽えた。高そうな絨毯にワインがどんどん染み込んで行く。矢沢さんはその事に気がついてすらいない様子で、だって、と言葉を続けた。 「普通おかしいっしょ。夜中にさあ、ここオートゥル、オートロ、オートロックっすよ。毎晩毎晩人ん家のベル鳴らしてドアガチャやってさぁ、警察呼んでも全然掴まてくんないし、おかしいっしょ……やっぱあれ、あれやっぱ人間じゃないんすよ、だから誰も捕まえらんないんすよね!? 俺、俺俺、やっぱ俺、あれあんなの、俺」  パァン。  直立したまま柏手を打ち、室内に音を響かせた。……が、思いの外音は部屋の四隅まで到達しなかった。淀んだ空気が室内に漂っている証拠である。それでも、矢沢さんを我に返すことくらいは出来た。 「な……あ……え?」 「落ち着きましょう矢沢さん。ひとまず、絨毯を拭きませんか?」 「へ? あ、やべえ! 叱られる! やべえ!」  矢沢さんは慌てて洗面所へ行き、バスタオルを何枚も抱えて戻って来た。僕と北城くんも手伝って、ワインの沁みた絨毯をとんとんと叩きながら拭いた。 「叱られる、というのは、どなたに?」  問うと、四つん這いになって染みと格闘しながら、 「……親父です」  と矢沢さんは答えた。 「お父様」 「分かってると思いますけど、ここ、親父の家なんすよ。俺、住ませてもらってるだけなんで」 「ご家族ですよね。一緒にお住まいではないんですか?」 「いや、親父の家ここだけじゃないすから、今は俺ひとりっす。お袋は出て行きました」 「そうでしたか。大変でしたね」  言うなり、矢沢さんの目からぼたぼたと涙が落ちた。ああ、また、と言って北城くんが濡れた絨毯を拭く。 「俺、どうなっちゃうんですか」 「矢沢さん」  心細かったに違いない。見た目はいかにも今時の若者だ。だが夕方の早い段階からワインを飲んでいるのだって、不安を紛らわせる手段がそれしか思いつかなかったからだろう。ひとりで住むには広すぎる部屋で、毎夜現れる不気味な女に恐怖し、眠れぬ夜に耐えていたのだ。 「俺、なんかヤバイことになってんすかねえ。俺、死ぬんすかねえ」  人は本来、霊的な被害をここまですんなりとは受け止められないものだ。暮らしの平安を脅かす対象が例え目には見えない物であっても、容易く超事象を受け止められる程人間の常識は脆くない。だが、矢沢さんは崩れかけていた。恐怖と不安が、科学的な常識の壁を壊してしまっているのだ。彼は今、魂が囚われている状態にある。 「答えを急いではいけません。大丈夫、力を合わせて、平和な日常を取り戻しましょう」  僕の言葉に、矢沢さんは絨毯の上で丸くなって泣いた。
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