16:開けると死ぬ箱 2

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16:開けると死ぬ箱 2

 夜中の二時半である。それでも西田家は全員が起きて僕の到着を待っていた。ただし、件の母親、西田怜菜(にしだれな)さん(35)の姿はない。  一階、洋風リビング、陣之内さんと僕の前に並んでソファに座っているのは、怜菜さんの御主人で武夫(たけお)さん(35)、武夫さんの実母である三吉(みよし)さん(64)、そして武夫さんと怜菜さんの子で、長男 武市(ぶいち)くん(6)である。勘が鋭く、箱にひどく怯えていると言われていたのはどうやらこの武市くんらしかった。今現在、彼に異変は見られない。あどけない顔をした普通の男の子だ。 「眠くないかい? ごめんね、こんな時間にお邪魔して。いつでもお休みしてくれていいからね」  声をかけると、武市くんはまん丸のほっぺを赤らめて武夫さんの腕に抱きついた。まだ六歳だというから、幼児が起きているには厳しい時間のはずである。当然のごとく、まつ毛の長い彼の瞳はもう半分以上が閉じていた。 「一度この子のことも見ていただきたかったので同席させましたが、外させてもらってよろしいでしょうか」  疲れたご様子がありありと窺える声で、武夫さんがそう提案する。もちろん僕もその方がいいだろうと判断した。武夫さんの目配せで三吉さんが頷き、武市くんを連れて別室へと移動した。 「おやすみ」  と手を振ると、 「おやすみぃ」  と小さな声で武市くんは答えてくれた。 「大まかな話はこちらの陣之内さんから聞きました。例の箱というのは、今どちらに……?」  問うと、 「妻の怜菜が抱えて自室にこもっている状態です」  テーブルの上を睨みつけながら、武夫さんはそう答えた。「母親があんなですから、子どもの面倒やら家のことやらの為にわざわざ私の母に来てもらって、何とか凌いでいる状況です。お恥ずかしい限りです」 「いえ、お気になさらないで下さい」  答える僕の隣で静かに座っていた陣之内さんの手が、太腿の上できゅっと握り拳に変わるのが目の端に映った。 「せっかく来ていただいたのにご挨拶も出来ず……」 「武夫さん、でしたね」  と、僕は彼の言葉を遮った。 「はい」 「武夫さんに是非ともご理解いただきたいのは、武市くんのお母様、怜菜さんは今現在、計り知れない恐怖と戦っておられるということです。奥様を卑下なさることだけは、おやめになってください」  言うと、武夫さんは顔を曇らせ、 「どうしてあなたにそんなことが分かるんですか」  と返した。見る間に頬と言わず顔全体が赤くなり、彼が怒っているのは明らかだった。母親が母親として機能しなくなり、武夫さんの負担は目に見えて増えた。昼間外で働き、夜には夜で部屋から出て来ない妻に苛立ちながら怯える子どもの面倒を見ている。そこから来る疲労と不満が、自分に同情せよと必死に訴えかけていた。まして僕はたった今彼らに出会ったばかりで、通された居間のソファに腰を下ろしてまだ十分と経っていないのだ。何が分かると武夫さんが憤慨するのは当たり前の話だった。しかし、これでいいと思った。溜め込んだっていいことはない。吐き出させるのだ。 「覚えがあるからです」  と僕は答えた。 「覚え?」 「いきなり自分の話をするのは恐縮ですが、僕には生まれた時から母親がいませんでした。父も、仕事で忙しくしていたのでほとんど家にはおらず、あまり一緒に遊んだりした記憶はありません」 「……それが?」 「今は、僕にも妻と子がおります。この年になって思い出されるのは、あの頃自分がどれだけ寂しくて辛かったかということよりも、母を亡くしてそれでも腐らず、必死に働いてくれた父の頑張りの方です」  武夫さんが唇を噛んだ。 「父は僕に嫌味を言いませんでした。弱音を吐きませんでした。今思えばかなり距離感のある親子だったなあとは思うのですが、でも、色んな家があってもいいんじゃないかって、そんな風に思えるようになったのは、苦しい時代の記憶よりも、苦境に逆らい僕を育てた父の背中を遠くに見ていた記憶の方が強いからです。今は、武市くんも寂しいかもしれない。武夫さんも、さぞお辛いでしょう。しかし武市くんのお母様は、怜菜さんは、戦っておられる。御存知とは思いますが、怜菜さんは本当はあの箱を何とかしてこの家から捨て去りたかったはずです。陣之内さんからもそう聞いています。交番に持ち込み、警官立会いの下ゴミ収集車に乗せたと。ですが」 「そ、そうですよ!」   突如として武夫さんが立ち上がる。「それなのに怜菜は今になって後生大事にあの箱を抱えて家に持ち込んだばかりか、部屋に閉じこもって子どもの面倒も見ないでずっと風呂にも入らな……!」 「武夫さん落ち着いて」 「何なんださっきから偉そうに! あんたなんかにうちの家の何が分かるんですか!」 「分かりますよ。だって」    ……あの箱から御家族を守っているのは怜菜さんですから。 「は」  唖然とする武夫さんを見つめる僕の服の袖を、新開さん、名を呼びながら陣之内さんが引いた。気付いていた。気付いていたが、取り乱す武夫さんをそうさせた手前、放置出来なかったのだ。 「分かっています」  振り返ると、僕たちのいるリビングから出てすぐの廊下に武市くんが立っていた。だがこちらを向いているわけではない。武市くんは閉ざされた部屋の扉の前に立ち、見える筈のない室内をじっと見ている。おそらくその部屋にいるのは、怜菜さんだ。 「まずいな」  僕が立ち上がろうとした、まさにその時だった。 「あなたァッ!」  部屋の中から女性の絶叫が上がる。「あなたァッ! 駄目! 武市を近づけないでェッ!」  僕よりも早く陣之内さんが飛び出した。廊下に出て両手で武市くんを抱き上げると、無言で暴れる小さな体を抱えてリビングに戻って来た。廊下の奥から三吉さんが駆けて来る。 ――― ごめんなさい、お手洗いに行った隙に。 「い、いた! 痛い!」  陣之内さんの腕の中で武市くんは尚も暴れ続けた。彼の手や足が陣之内さんの顔や腰、腿などに当たる。それでも彼女は武市くんを離さなかった。 「ぶ、武市、どうしたんだ! 武市おい!」  武夫さんが名前を呼んでも、武市くんの表情に変化はなかった。目は開いているが完全に白目を剥いている。それなのに、眠っているかのごとく彼の表情は静かなままで、肉体だけが自分を抑え込む力に全力で歯向かっていた。 「新開さん!」 「すまない陣之内さん、ここは君に任せるよ」 「ええッ!? 痛い!」 「僕は怜菜さんの所へ行ってくる」 「だ、だってまだ何も分かんない状態なのに危険ですよ! 痛いって武市くん!」  代わります、と言って武夫さんと三吉さんが手を伸ばす。暴れ続ける幼児を大人三人がかりで押さえつける格好である。確かに、陣之内さんの言う通りまだ確実性のある情報を得られたとは言えない。僕はまだ例の箱を見てすらいないのだ。だが、現実は予測された事態よりも遥に悪かった。躊躇う余裕などない。 「何とかしてみるよ」 「何とかってどうやって! し、新開さん!」  陣之内さんが叫んだ時には既に、僕は怜菜さんのいる部屋のドアノブに手をかけていた。 「新開水留と申します。拝み屋です。今なら武市くんは側にいません。僕を入れてください」  ガチャリという解錠の音を聞き、僕はチラリとリビングを見た。むちゃくちゃに手足を動かす武市くんに覆いかぶさる武夫さんと三吉さんの側で、陣之内さんは大きく見開いた目で僕を見つめていた。  室内は真っ暗だった。後ろ手ですぐにドアを閉めた為、ほとんど何も見えなかった。どのくらいの広さの部屋なのか、怜菜さんがどこにいるのかも分からなかった。この部屋で何度か飲み食いしたであろう食べ物の匂いがする他、不快な匂いなどは特に感じない。だがとにかく暗い室内の雰囲気もあって、空気の質量が明らかに部屋の外とは違っていると思った。絡みつくような闇の中で、僕は自分の左右の手を見ようと視線を下げた。しかし。  ――― この距離でも見えないのか……。  顔を上げると、部屋の奥に薄ぼんやりと光る何かがあった。色は赤とグレーの中間色で、輪郭が闇に溶けている為形状は判然としない。ただ、もしもあれが例の箱だというなら思っていたよりも随分と大きい。  ゴク、と唾を飲み込み、 「怜菜さん、そこにいますか」  と声をかけた。 「……います。扉の正面、壁際にいます」  震える声で怜菜さんが答えた。ぼんやりと光るソレの位置と同じである。 「目の前に座りますね。そのままで大丈夫です」 「あの……あの……」 「大丈夫です、そのまま」 「あの……私はあの」 「よくぞ今まで、おひとりで耐えて下さいました。あとは僕が全て引き受けます。どうかご安心なさってください」 「う、ううう……ぐふう」  ありがとうございます、そう言いながら泣き出した怜菜さんの感情が落ち着くのを待って、僕は切り出した。 「まだはっきりとは見えないのですが、そちらの箱は僕が想像していたよりもずっと大きいようです。30×30はありそうだ。丁度怜菜さんが膝の上に置いて、両手で胸の前に抱え込む、こんな感じでしょうか」  格好を真似て言うも、むろん怜菜さんには見えないだろう。しかし、 「そうです」  怜菜さんはそう答えて、続ける。「縦にもう少し長いかもしれません」 「成程。袋などには入っておらず、手や腕は箱そのものに触れていますか?」 「はい」 「それは木で出来ていますね?」 「はい」 「タッセルのような柔らかい装飾が側面についていませんか?」 「あ、ありません」 「白箱だけ」 「……え?」 「何色でしたか」 「しろ、くはなかったと思います。はっきり覚えていません」 「ははぁ」 「あの、こ、これって一体」 「形状的には骨箱だと思われます。骨壺の入っている桐の箱です。本来は袋状のカバーに入っていますが、剥き出しのようですね。だから、んですね」 「でも、中には!」 「ええ、ええ、言わなくて結構ですよ、大丈夫です」 「は、はい」  骨壺など入っていなかったのだ。  怜菜さんが箱をぎゅっと抱きしめるのが分かった。彼女の怯えが空気を泳いで伝わって来る。よく、正気を保っていられたものだと感心する。身に覚えのある僕でさえ鳥肌が治まらない。それ程の恐怖をずっと胸に抱きしめたまま、怜菜さんは真っ暗な部屋に己を縛り続けているのだ。  段々と暗がりに目が慣れて来た。さすがに色までは分からないが、確かに少し縦に長い、四角い箱のようである。推測通り、見た目は骨箱のようだった。 「怜菜さん」 「はい」 「今日は、僕がこの箱を預かって帰ります」 「で、でも!」 「僕の方で、何とかこの家に戻って来ないよう箱に仕掛けを施してみます。ただ、今すぐにこれをどうこうするには時間が足りません。もしも僕の仕掛けを打ち破ってこの箱がお宅に戻って来るようなことがあっても、必ずまた僕がやって来ますから心配しないで下さい。最後まで責任を取ります。今はただ、僕を信用していだけませんか」 「でも、それだとあなたが」 「僕は平気です」 「でも、箱の中身は」 「……」 「……」 「?」  交番に持ち込んだ時、怜菜さんは何度捨てても戻って来るこの箱を何とかして手元から遠ざけたい思いに強く支配されていた。だからこそ絶望と恐怖に取り乱し、警官に箱を投げつけたのだ。だがその時からだった。怜菜さんはあれ程嫌っていた箱を胸に抱き、決して手放そうとはしなくなった。それは何かが解決したからではない。今でも怜菜さんは箱を恐れている。だがどうしても、箱を手放すことが出来ない理由があるのだ。 「箱を、こちらへ」  そう言って手を伸ばすと、怜菜さんの腕の中で箱が光った。それほど強い光を放ったわけではなかったが、箱の中心部に赤い光が膨らむのを見て、 「ひ」  と怜菜さんが声を上擦らせた。はあ、という溜息が僕の口を突いて出た。あまりこういう方法は好きではないのだが、他にやれることが思いつかなかった。 「失礼します」  僕は自分の右手、人さし指を軽く噛んで、じわりじわりとなるべくゆっくり皮膚を裂いた。もちろんとんでもなく痛い。そして血も出る。だが僕は滲んだその血を指先に垂らし、怜菜さんの抱えた箱の側面に押し当てた。 「血判を押しました。この効力が続く間はこの箱は僕のものです」 「え」 「中のものもそう認識するはずです」 「でも!」 「大丈夫。箱の中身は今おそらく、怜菜さんが見たものとは変化している筈です」  言うや否や、怜菜さんは腕を解いて箱の蓋を開けようとした。僕は慌ててその手を取り、いけません、と静かに諫めた。 「それでは」  僕は改めて怜菜さんに問うた。「あの時、怜菜さんが交番で見たものは何でしたか? 投げつけた箱の蓋が開き、中身が見えたはずです。何を見ましたか?」  怜菜さんは息を呑んで押し黙り、震える瞳でじっと僕を見つめた。 「……ぶ」  怜菜さんは答えた。  絶命する直前、警官の足元に落ちた箱の蓋が開いて、中身が僅かに転げ出た。それはついさっき僕に向かっておやすみと手を振ってくれた、西田武市くんの頭部であったという。
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