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17:見えない殺人者 1
「お疲れのご様子ですね、さっきから溜息ばかり」
言われ、ひやりとして背筋を伸ばした。痛い所を突かれ怒りも何もないが、ひと回りも年下に指摘されて居心地が悪く情けない。すみません、と素直に謝ると、
「いえいえ、迷惑をおかけしてるのはこちらの方だという自覚、ありますので」
と、逆に頭を下げられてしまった。
若いなりにしっかりしている……と思う。それと同時にやはり、しかしなぁ、とも思ってしまう。人を見かけで判断してはいけないと重々承知の上で言わせてもらえば、彼女の第一印象はやはり「若い、若すぎる」に尽きる。信夫が僕に零した、
「近藤さんや高品なんかはまあ良いとして、正直北城や陣之内、華なんかの現場は怖くて放っておけません。そりゃ、そこいらの警察官よりはよっぽど適正あるんでしょうが、何せまだ若いもんで」
という言葉の意味がよく理解出来た。
この夜僕が訪れた現場は、とある住宅街の人気のない往来。時刻は午後十一時半。今の所人通りは皆無である。時間が遅い為か帰宅する車も通らず、夜の冷え込みと明滅する街灯の明かりに心まで寒さを感じ始めていた。
――― まだ十月だってのに、今日はやけに冷えるな。
何となくじっとしていられず、手足をブラブラ振って温度を上げる。溜息をついている自覚などなかったが、疲れは確かに身体を重くしていた。
「パンさんは……」
誰もいない往来を見つめながら話しかけると、
「華です」
と彼女は即答した。
「……華さんは」
「華ちゃん、もしくは華と呼び捨てしてください」
これである。
「無理だよ」
こういう部分にモロにジェネレーションギャップを感じてしまう。自分の部下でも何でもない、昨日今日会ったような若い女性にそんな砕けた呼び方は出来ない。だが真顔でそれを要求する彼女の口調には、僕を揶揄ってやろうなどという意地悪さも感じられず、却ってそれが理解不能だった。まだ揶揄われる方が分かり易いというのに。
困惑する僕に、
「室長からも言われてますから」
と彼女は言う。
「信夫に、何を?」
「新開に気に入られて損はないぞ、お前も早く可愛がってもらえって」
「噓だろあいつ何なんだよ。いや、それきっと冗談だから!」
「ほら、ね、室長にそんな風に言える人他に居ませんもんね。近藤さんはあれですけど。やっぱり新開さん、凄い人なんですね」
「凄くないよ。どんな風に聞いてるのか知らないけど、僕は根本的に君たち調査員とは違うもの」
「どんな風にですか?」
「捜査権がない」
「あはは、まあ、それは、まあまあ」
「それに、根底に警察人としてのプライドや信念みたいなものもないしね、信夫には敵わないよ」
「うーん……」
「納得いかない?」
「うーん、何と言うか、その言葉を素直に受け取ることは出来ませんねぇ。それに、別々の職業を比べてどっちがどうって、そういう話あんまり意味がない気もします」
「あはは。うん、確かにそうかもしれないね」
「室長もそれは分かってるはずで、それでも認めているということは、きっと自分にはないものを新開さんが持ってるんだと思うんですよ」
「むず痒いな、信夫とは決して仲良くやって来たわけじゃないのに」
「それもだから、凄いですよね。犬猿の仲って言われてたのに、内心ではお互いを認め合ってるって」
「むず痒いよ。恥ずかしい」
「職業柄というのもあるんですけど、きっと私たちって、新開さんが思ってるより新開さんの情報を持ってるんですよねえ」
「……怖い言い方するなぁ」
「そういう仕事なので。でも、それでもあいつに気に入られて来いって室長が言うわけなんで。近藤先輩や室長補佐とも仲いいじゃないですか。そんなの、もう、ねえ?」
彼女は言いつつ、僕の前に回って視界を塞ぎ、
「ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いしまーす。ニコ」
ニコ、と自分で言って笑顔を斜めに傾けた。
パン・華。台湾人の父と日本人の母の元に生まれ、生後は四歳から日本にて生活しているという。現在二十四歳。陣之内萌よりも二つ若い、チョウジ最年少調査員である。数字の上では立派な成人女性だが、本人を目の前にすると「こんな子がもう現場に出てるのか」という驚きを禁じ得ない。大学を卒業してすぐ警察職員の真似事をしていた僕が言えた義理ではないが、当時僕を引率していたのはあの坂東さんだ。だが華ちゃんは既に一人で現場に出ている。深刻な人手不足と聞いてはいるけれど、他所の職場に対していらぬ老婆心さえ働いてしまう。
「華さんは」
「華ちゃん」
「華、ちゃん」
「はい、なんでしょう」
「今回の事件に関してどこまで考察を進めているのかな?」
「……はあ。考察」
見た目は本当に可愛らしい女の子だ。明るい茶色の髪を(アッシュブラウンというそうだ)センターで綺麗に分け、乱れないように黒い大き目のカチューシャで押さえている。陣之内さんもうそうだったが、この華ちゃんもまた身だしなみに気を使える心の余裕が見て取れる。精神状態の健やかさが表れているものの、反面、やはりどこか頼りなさもあった。陣之内さんは言葉遣いや挙動から、知り合った頃の柊木さんを思わせる落ち着きが感じられる。だが華ちゃんからはどちらかと言えば、僕の抱える事案の依頼人である蟹江彩子に近い印象を受けた。いや、蟹江さんではなく京町泰人の方だろう。タイトなスーツを着ていなければ、遊んでないで早く帰りなさい……思わずそう言ってしまいそうになる。
「不思議な事件だーって、思います」
華ちゃんは腕を組み、コツコツと靴の踵を鳴らしながら目の前を行ったり来たりする。「見えない殺人者、私はそう名付けているんです、この事件に」
「……」
「どうですかこのネーミングセンス」
「分かり易くていいと思うけど陰惨な事件にあんまり名前とかつけない方がいいんじゃない」
「室長がそういうの好きなんですよ」
「好き!? 今好きって言った!?」
「知ってます? 室長が担当してる事件」
「あの、保育士が何度も自殺しては戻ってくるっていう」
「そうです。室長自分の事件にも名前つけてるんですよ。『保育士ループスーサイド』って。なんか、自分のヤマって感じがするだろ、って言うんですよ。何となく、言われてみればそんな気もするし、責任を背負い込むんだっていう考え方は、室長らしくていいなあって」
「華ちゃんは信夫を尊敬してるんだね」
言うと、正しく花が咲いたような笑顔で、
「はい! 大リスペクトしてます!」
華ちゃんは真っ白い息を吐き出しながらそう言った。
「はッ!?」
僕の目が見開き、僕の目を見た華ちゃんの目が見開いた。
――― 息が白いだって? 真冬でもないのに!?
「新開さん!」
正面から華ちゃんに抱き着かれ、僕は背中から道路に倒れ込んだ。あわや後頭部を強打する程の勢いに、僕と華ちゃんは額を強かぶつけ合った。だが咄嗟の衝撃に目を閉じてしまうその直前、僕の目の前を何かが高速で通り過ぎるのが見えた。仰向けに押し倒された僕の視線は夜空を向いていた。つまり、倒れ込んだ僕たちのすぐ上を何かが通過したのである。
「何だ?」
放心する僕の上ですぐに身体を起こし、
「新開さんも早く」
華ちゃんは険しい顔で往来に目を凝らした。慌てて僕が立ち上がると、
「あれ」
彼女は往来の前方を指さして呟いた。「あれ、何でしょうか」
「あれが噂の正体か」
腕時計を見る。「午後十一時四十四分。……時間通りだね」
おかしな噂が立っている、という。
地名は、ここでは仮にG町と呼ぶことにする。
このG町住宅街にある往来で、夜更けになると姿の見えない何者かに追いかけられるのだそうだ。会社終りのサラリーマンやOLたちが主な情報源で、基本的には歩いて帰宅する途中、背後から迫る足音を聞いたり気配を感じ取ったりするらしい。共通しているのは姿形が一切見えないことと、時間、そして場所である。
まず場所に関して言えば、かなり限定的だった。この時僕と華ちゃんが待機していた往来 ――― 住宅街を通る道幅五メートル程のあり触れた道路だが、直線距離にして僅か百メートル弱の区画だけでしか遭遇情報はないそうだ。建ち並ぶ家々で換算するなら六軒分しかない。この短い距離にだけ、姿の見えない通り魔が現れるという。
そう、通り魔なのである。実際に怪我人も出ていて、つい先日は人が亡くなったばかりだ。華ちゃんがこの事件に『見えない殺人者』と名付けたのはその為である。うつ伏せに倒れて死んでいた被害者の腕時計は、おそらく倒れた衝撃で壊れて文字盤の針が停止していた。その針の指し示していた時刻が、午後十一時四十四分だったというわけである。
G町住宅街は縦横に走る道路によって区分けされているが、道自体は遭遇情報のある百メートルよりも遥に長い。片側は区画の終わり、バス通りに面して家が並んでいる為突き当りのようになっているが、もう片側は夜ともなれば先が見えないくらい遠くまで続いている。どちらの方向から通り魔がやって来るかは、相手の姿が見えない以上誰も確たる情報を持っていなかった。ただし、その通り魔に接触を試みるならばこの時間、この路地で待っていれば向こうから現れることは間違いないのである。
相手が本物の透明人間でもない限り、その正体は地縛霊である可能性が高い。しかも、人を死に追いやる程強い霊障を放つ化け物級の霊体だ。現場の様子を見てくれと頼まれたのはいいが、その現場を任されていたのが服装によっては高校生でも通用してしまうパン・華ただ一人であったことが、僕の溜息の多さにもつながっていた。所が、
「ありがとう華ちゃん、僕はどうやら君に命を救われたようだ」
彼女に迷惑をかけたのは僕の方だった。
「い、いえ。それより新開さん、あれって何なんでしょう?」
「さあて、何かな」
見える範囲に人はいない。
それは道路に出来た血溜まりのようだった。
そいつは、突き当りの路地から来て僕たちを飛び越え、遥彼方まで伸びている路地の先へと通り過ぎた。が、そのまま走り去ることなく三十メートル程前方で留まっている。いや……走って来たかどうかも分からない。僕の目でも、そこに霊体がいるようには見えなかった。
「慎重に行こう、まだ何かが終わったという気はしない」
そう、僕が声をかけた時だった。
「はあ」
耳元で吐息が聞こえたかと思うと、「無理」という言葉と共に華ちゃんが両膝をついた。
「どうした?」
右手で僕の腰辺りを掴み、何とか倒れ伏せることには耐えた。だが、見下ろした華ちゃんの顔は真っ青だった。
「ど……」
手を伸ばすと指先が濡れた。華ちゃんの背中がぐっしょりと濡れていた。
「血?」
僕の視線が路上に出現した血溜まりに吸い寄せられる。「まさか」
ぐぐぐ、と華ちゃんの身体が傾いだ。
言うまでもなく、僕を庇って何某かの攻撃を受けたのだ。華ちゃんは防寒着を着ていなかった。ジャケットの背中が縦に裂け、夥しい量の血で真っ黒く染まっていた。
目を凝らすと路上に出来た血溜まりが微かに震えて波打っている。まるでそれ自身が意志を持っているかのようにも見えた。
――― あの血はきっと、華ちゃんの血だ!
僕は考えた。今この現象を起こせるものとは何だ。僕のアンテナを掻い潜って接近した霊体が刃物で切りつけた、とでもいうのだろうか。華ちゃんだけがそれに気が付き、僕を押し倒した? そして彼女は背中を深く斬り裂かれてしまった……?
「そんな馬鹿なこと」
僕はすぐに考えるのを止めた。今僕に出来ることは考えることじゃない。今こそ、奴の出現する条件が限定的であるいう有利点を突くべきだった。僕は素早くしゃがみ込んで華ちゃんを背中におぶさり、両足に力を込めた。膂力にも走力にも全く自信はない。だが僕たちは限定区域の丁度真ん中辺りにいる。となればこの区域を抜けるまでに必要な距離は最長で五十メートルだ。死ぬ気で走れば、何とかなる……!
「揺れるよ」
声をかけ、路上の血溜まりを振り返った。今にも飛び掛かってきそうなくらい、血の表面が揺れている。
「ううううッ!」
走った。
いや、走ったと聞いて誰もが想像するような疾走感は皆無だったに違いない。とにかく華ちゃんを落とさないこと、そして振り返らないことだけを自分に言い聞かせた。
「落とすな、走れ、振り向くな、走れ」
祈るように繰り返し唱えながら走った。
途轍もなく長い五十メートルだった。
すぐに息が上がり、あっという間に苦しくなって、腕が痺れた。
思うように腿が上がらず、がに股で走った。
途中、既に霊障に追いつかれているんじゃないかと思った。
お姫様だっこじゃなく背中におぶったせいで、実はもう華ちゃんは僕の後ろで息絶えているんじゃないかと想像した。生理現象による涙と鼻水が流れ出た瞬間、僕は蹴躓いてこけた。
華ちゃんを離すまいと前のめりに地面に突っ込んだおかげで胸と腹を強打した。その勢いで、華ちゃんの身体が僕の背中を飛び越えてアスファルトに転がるのが見えた。
「華ちゃん……はッ!?」
うつ伏せのまま振り向くと、僕の足先ほんの数センチの所で赤黒い蜘蛛のような物が威嚇するように手足を伸ばしていた。実際には蜘蛛ではない。アメーバ状の血であり、それは見えない壁に阻まれるようにして空気中に張り付いている。その様が、手足を広げた蜘蛛のように見えていた。
「た、助かったのか……?」
僕は胸の鈍痛を堪えて立ち上がり、華ちゃんの両脇に手を入れてさらに蜘蛛から遠ざけた。
「は」
すると蜘蛛はべちょりと地面に落ち、そのままアスファルトに染み込んで跡形もなく消えた。
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