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1:家
その家では夜毎、午前二時になるとひとりでに玄関の扉が開くのだそうだ。むろん鍵はかかっているし、建付けの悪い引違い戸が家全体の傾斜によってズレてしまうといったアクロバティックなトリックもない。だが、施錠されている筈の開き戸が、いきなり数センチ外側へ開く。家主は怯え、警察に相談した後やがてチョウジの方から僕あてに打診があった。犯罪の影は見受けられず、防犯カメラや第三者の監視下でもやはり戸は開くというから、一度現場へ赴き心霊現象の可能性がないかだけでも確認してほしいとのことだった。僕は渋々オーケーし、件の家へ向かった。すると事前に聞いていた住所の同番地に足を踏み入れた途端、喉の奥がじりじりと焼けるように痺れた。僕は門扉の前に立ってその家を見上げ、こう呟いた。
「嫌な予感しかしない」
平成三十年(2018年)十月、都内。午後九時。
「最も可能性が高いのは、イタズラ」
僕が言うと、相手は怒る所か溜息混じりに頷いて、
「ですよねぇ」
困った様子で顔をくしゃりと歪めた。
長い話になる。まずは自己紹介から始めよう。僕の名前は新開水留。自分で言うのもおこがましいが、由緒ある拝み屋集団「天正堂」の階位第三、つまり現場責任者を任された霊能力者だ。大学を卒業して以来、人に胸を張って言える肩書は今の所これしか持っていない。若い時には警察の手伝いをしていた事もあったけれど、自慢できる程の功績を残したわけではないから多くは語るまい。
向かった先は都内某所の喫茶店、「合図」。昼間はカフェ、夜はバーとして営業している老舗のアンティークカフェである。今回呼び出しに応じてこの店を指定した理由は、僕の知り合いの知り合いが以前この店のオーナーをしていた経緯があり、偶然にも別件で近くを訪れていた故の懐かしさ、である。
僕に連絡を寄越した人物の名は北城省吾、三十二歳。僕より六つ年下の公安職員である。北城くんの肩書は「広域超事象諜報課」通称チョウジの調査員で、彼は我が国で唯一心霊現象絡みの事件を専門に扱うエリートだ。いかつい風貌で同僚からはよくマル暴へ行けと揶揄われるらしいが、接してみると実に腰が低く優しい人柄である。
「自分も十中八九そうだろうなとは思います」
と北城くんは言う。「最近この手のイタズラが横行しておりまして、所謂なんですか、ドッキリですね、ドッキリ大成功をあれです、スマホやなんかで撮影して動画投稿サイトにアップする、そんな遊びが流行ってるそうなんですね」
「うん、でもそれは昔からあるよ」
「ああ、まあ、そうですね」
時代とともに媒体が変化していくだけだと思う。手軽に撮影できる機材がスマホになったおかげでなんとなく新しい流行に思えるかもしれないが、ホームビデオ片手に廃墟を探索し、仕込んでいおいた幽霊役の人間をほんの少し映り込ませて騒ぎ立てる作り物が大昔から存在する。実際本物の霊能者が現場に行けば霊の仕業かなんて見なくても分かるが、ないものを立証するには相当骨が折れる。
「だから結局はこっちの言い分ではなく相手の言い分をどう崩すかに終始するはめになるから、イタズラは本当に厄介なんだよ」
言うと、そうなんですがね……と北城くんは首を傾げた。
「こっちもですね、考え得る限り証拠を押さえようとあれこれ試してはみたんですね。ですがやっぱりそのう、不思議は不思議のままそこにある、といった感じでして」
専門家である彼がそう言うからには、ただ相手の証言を鵜呑みにしているわけではないのだろう。
「考え得る、と言うと?」
「ええ、まず録画と録音ですね、これは家主の許可を得たものとは別に、隠しカメラと盗聴器を設置しました。あと赤外線探知と温度計、盛り塩と水」
「盛り塩?」
「……あー、えと、新開さん的にはあんまり信用されていない感じですかね、盛り塩」
「いや信用というか、もし本気で効果を期待するのであれば、あれ魔除なんで、もし効いちゃうと霊体が寄って来なくなるよね」
「はい」
「え?」
「家主の意向ですね」
「はー……あ、すいません、続けてください」
隠しカメラの映像には、怪しいものは何も映ってはいなかったそうだ。盗聴器の方に僅かながらノイズが入ったのと、気温が2度下がった。それ以外はオールクリアで、赤外線には何も触れず、盛り塩にも水質にも変化は見られなかった。しかし、
「それでも、扉は開いたんですねえ」
秋口の深夜だ。この際気温が2度下がった事も正常範囲だと判断するなら、北城くんの言う不思議とは盗聴器に入ったノイズと、衆人環視の下ひとりでに扉が開いたという二点だけになる。
「ほぼ毎晩、という話だったね?」
改めて問うと、北城くんはコーヒーを飲みながら小さく頷いた。
「非常に困ったなー……と」
「それで、僕を呼んだ理由としてはチョウジが」
「いやいや」
北城くんはカップをソーサーに戻し、反対の手を忙しなく振った。「そんな、あれですよ、頭ごなしに心霊現象だーなんて思ってるわけじゃないですけどね、でも結局の所扉が開いちゃうわけですから、まあなんと言いますか……ねえ?」
「僕がこういう事を言うのはどうかと思うけど、山田室長や曽我部さんが現場に行けば一発じゃない?」
「……」
「いるかいないか、出るか出ないかの話に白黒つけるなら」
「……」
北城くんは苦虫を噛み潰したような顔で、俯いた。
北城くんが所属している公安部署チョウジには、元来その身に霊力を宿した調査員たちが在籍している。平たく言えば霊感持ちで、そういった人物が現場に赴けば、カメラや盗聴器と言った記録媒体に頼らずとも肌で霊体の存在を感じ取ることが出来る。今年に入って室長に抜擢された山田信夫や、わけあってチョウジ預かりとなっている曽我部青南などの高位霊能者であれば、難なく噂の真相を看破できるだろう。内心僕は、北城くんが上司である山田信夫ではなく僕の元へこの事案を持って来たこと自体、変だと感じていた。
「出払っちゃってて」
「……はい?」
「皆別件で出払っちゃってて」
「そんなことある!?」
「そうなんですよ」
「全員!?」
「ええ」
「そんなことある!?」
「それはでもー……」
新開さんにも、ちょっとした責任があると思うんですよねえ。そう言われて目を丸くする僕に、北城くんは声を潜めて裏事情を聞かせてくれた。
事の起こりは、今年の春前に出た内示にあるという。先程も述べた通り、これまでチョウジの室長を務めていた柊木夜行が退職し、後任には山田信夫が就いた。信夫は公安職員として十五年近い経験を積んだ中堅調査員で、部署を率いるに申し分ない優秀な人材と言える。ただ、チョウジ自体が警察機構内部においても秘匿とされている為、万年人手不足に悩まされている。信夫の前に部署を統率していた柊木夜行も僕と同い年の今年三十八歳、信夫は一つ下の三十七歳だ。ベテランと呼ぶにはまだ若いが、何せ下が育たない。警察人として優秀であることも重要だが、何より適性が求められる職務だ。霊感のあるなしもそうだが、心霊現象に対する耐性がなければ現場に入る事もままならない。事務処理ひとつとっても、証拠品の管理だけでも霊障を喰らう可能性のある非常に危険な仕事なだけに、誰にでも務まる仕事ではないのだ。
その点、前室長・柊木夜行は抜群の適性を誇っていた。人柄もさることながら、血筋と言う点でもおそらく日本一の血統書を生まれながらにして持っていた。そんな彼女が突如退社を決意し、こともあろうに僕が現場の指揮を任されている拝み屋集団「天正堂」へ身を移したのが、この春の出来事だ。
「ねえ?」
と言い寄る北城くんの顔は少々妬まし気だ。それだけ、柊木さんの抜けた穴は大きいのだ。その上、ただでさえ少ない人材が今は別件で手一杯だという。だから、ね……と北城くんはそう言いたいらしい。僕は思わず額を抑え、
「いや、でも」
と小さな抵抗を示した。「事情は察するけどね、いきなり僕へ話を持って来るのはどうなんだろう。これって、チョウジの事案をそのままこちらへ引き継ぎたいって話だよね」
「いやいやいやいや」
「北城くんさ、山田室長はこの事知ってるの?」
「はい。室長が新開さんとこ持ってけって」
「信夫が?」
「新開水留に解決できない超事象案件なんてないからって」
「う……ッ」
噓だと叫びそうになり、なんとか両手をぶるぶると握りしめて堪えた。昔から信夫とは仲が悪かった。犬猿の仲と言っていい。大学卒業後、当時チョウジを率いていたベテラン職員・坂東美千流の肝煎りで現場入りした僕は、拝み屋とチョウジ、二足の草鞋を履いた状態で日本全国の霊障案件に向きあう日々を送っていた。信夫にはそれが面白くなかった。当然である。僕は何の資格も持たないただの若造で、それなのにエリート集団である公安職員に混じって、時には鮮血飛び散る事件現場にのこのこと顔を出していたのだ。坂東さんに考えがあってのことだと頭では分かっていても、拝み屋としての顔も持っていた僕を快く受け入れる理由がチョウジにはなかった。むろん、職場の人たちは皆大人だったから、露骨な嫌がらせを受けたりなどしなかった。だが山田信夫だけは別である。ことあるごとに僕に絡んで来ては、
「蝙蝠野郎」
という不名誉なあだ名で呼んだ。そんな男が、都合よく僕の名前を使って部下を寄越したのだ。浮ついたお世辞をそのまま受け止めることなど出来はしない。裏があるとまでは言わないが、二つ返事で受ける気にはなれなかった。
「だけど」
と北城くんは言う。
「……だけど?」
「一杯一杯なのは、分かっていただきたいですね」
「北城くん」
「すみません、新開さんにも責任があるって言ったのは噓です。でもあれなんですよ、坂東さんが引退されて、柊木前室長が新開さんの下についちゃって、そりゃあ、あの曽我部家の秘蔵っ子が……ああ、こんな言い方はしちゃいけないですね、でも力のある霊能者が訳ありとはいえ現場入りしてくれたりとか、色んな人の移動がある中で、山田室長も結構張り切って陣頭指揮取ってはいるんですが、やっぱりどこか辛そうなんですよね」
「辛い、とは?」
「優秀な人間が皆、天正堂に集まっちゃったから」
「それは」
知らないよ、と言いたいところだが、気持ちは十分理解出来る。
「山田室長と新開さんの関係も自分は色々と聞いてるんで、新開さんがあまり乗り気にならないだろうことも分かってはいるんですけどねえ、でもねえ」
「何があったの?」
「え?」
「いや、僕てっきりチョウジが手一杯だってのは噓だと思ったから。でも北城くんの顔見てたら本当なんだろうなって分かったよ。被害者が本当に霊障に苦しんでるんなら僕に断る理由はない。信夫のことはこの際置いといて、北城くんが望むならこの件をうちで引き継いでもいい。だけど僕はそれよりも、あのチョウジが手一杯で皆出払ってるって、そっちの方が異常だと思うね。わけを聞かせてよ」
「ありがとうございます」
北城くんは頭を下げると、懐から黒革の手帖を取り出した。実はですねえ……。
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