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19:ねがいごと
朝五時に起床し、濃いめのブラックコーヒーにて覚醒を促す。
妻は既に起きていて、朝食の準備に取り掛かっている。この仕事を始めてからというもの、夕ご飯を一緒に食べるという習慣を作れた試しがない。むろん一度もないワケではないが、仕事の依頼が舞い込む度に家を空けがちになり、同じ時間に食卓を囲むという幸せな時間を習慣化することが出来なかった。
幸いと言っていいのか分からないが、僕の仕事は暇になったことがない。そのおかげもあってか、代わりに朝食が豪華になっていった。平日は娘の成留も学校がある為割と早めに起きてくる。その結果、出勤通学前のひと時がわが家で最も大切な団欒の時間になったのだ。
妻は昔から料理が得意である。僕は若い頃はほとんど一人暮らしに近い生活だった為に外食が多かった。自然と濃い味付けのものばかりを食べるようなり、見兼ねた妻がちょくちょく手料理をご馳走してくれていた。それも結婚前の話である。学生の頃から才色兼備を地で行く高嶺の花で、社交性も高い妻が何故僕のような陰気な男に良くしてくれていたのか、自分では全く理解出来なかった。だがある時思ったのは、それが妻にとってはごく当たり前の行為だったのだ、ということである。
僕は自分にばかり良くしてくれていると思い上がり、学生時代の数少ない知人たちにもそんな風に揶揄われたものだが、真相はそうではない。僕にとって特別だった妻の優しさは、彼女にしてみれば特別でもなんでもない、当たり前の慈しみだったのだ。見方を変えれば、辺見希璃として生きて来た彼女の持ち前の性格と気立ての良さが、こんな僕にまで発揮されていたのだから並大抵の事ではない。思い返してみればずっと彼女は誰にでも優しかったし、等しく平等に接していた。僕が妻に本当の意味で惚れ込んだのは、そのことに気が付いてからのことである。
「おはよう新開くん」
「おはようございます、先輩」
「昨日ワイドショーで見たんだけどね」
「ええ」
「妻が思う旦那の腹の立つ所第六位がね、気が付くと何もしないで台所にぼーっと立ってる所なんだって」
「ええっ」
僕は咄嗟に妻がこしらえた朝食の皿に手を伸ばした。
「でも妻が思う旦那の好きな所第三位がね、自分をちゃんと見てくれてる時、なんだって。君はちゃんと自分の妻を見てるかい?」
「す、すみません。見てるつもりなんですが」
「ああ、知っているとも」
向日葵のような笑顔で僕の側を通り抜ける妻の後ろ姿を振り返った僕の目に、
「朝からなにイチャついてんの?」
腰に両手を添えて憤慨する娘の姿が映った。
「おはよう、成留」
娘は十一歳になった。小学五年生ともなれば言うことはほとんど大人と変わらない。ただでさえ言語能力に関しては幼い頃から成長速度がスバ抜けていた。色んな角度から雑多な情報が飛び込んでくる現代において、娘の思考や意識はすでに僕の年齢を飛び越えてしまったのではないかとたまに怖くなる。まだ当分義務教育の終わらない年頃だというのに、最近の悩み事は友達と好きなアイドルの話が話が出来ないこと、であるという。娘の音楽的な嗜好はかなり偏っていて、若干十一歳にして好きな音楽ジャンルはデスメタルなんだそうだ。
「朝からこんなに食べれないって!」
食卓についてまずは娘が第一声を上げる。毎朝ではないにしろ、僕が家から出勤する日はかなりの高確率で妻が料理の腕を奮ってくれる。食べきれなかった料理はタッパに詰めて僕が車に持ち込み、移動の合間にパクついている。
「成留、運動会終わった?」
問うと、卵焼きを頬張りながら、
「んにゃ、末だもん」
との返事。小学校と保育園の行事日程は違うだろうが、F区第5保育園の運動会もこれから、という可能性は十分にありえる。柊木さんからはその後、「教団教祖失踪事件」についての報告はない。
「見にこれそう?」
「瞬間的に立ち寄るくらいなら行けるかな。都内に居ればね」
「無理しなくていいけどね」
「何やるの?」
「ダンスと、徒競走と、綱引き、だっけな」
「どれが一番自信あるの?」
「ないよねー、ないない。でもまあ、徒競走かな。ダンスはあんまし見られたくないよね、お父さんには」
「あはは、じゃあなるべく時間を合わせて見に行くようにするよ」
「あ」
そうだ、と成留は声のトーンを落として箸を置いた。「ちょっと、お父さんに聞きたいことがあったんだ」
黙って僕たちの会話を楽しんでいた妻と目が合う。妻は僅かに頭を振って、成留を見やった。
「学校でさ、ちょっとした問題になってて」
「うん」
「こっくりさんて、あるじゃない?」
「うん」
「あれって、やばいんだよね?」
「うーん」
僕は唸りながら言葉を探した。
成留には、僕の仕事がどういった種類のものであるのか、長い時間をかけて説明した。僕がよく家を空ける理由や時には傷ついて帰って来ること、また状況によっては敢えて家に帰るのを避ける場合もあって、それらの背景に潜む事実について少しでも理解を深めて欲しかったからだ。小学生の彼女にそこまで求めるのは酷だと知りながら、空白の四年間を持つ僕たち家族の間に、どうしてもごまかしや噓を介入させたくなかったのだ。だから成留は、僕が霊能者で、拝み屋であることをもう知っている。そして自分の母親が人とは違う力を持っており、僕たちの間に生まれた成留自身にも不思議な力が宿っていることも。
「本気でやばいって、学校でも禁止されるかもしれないんだって」
と成留は言う。
「禁止? どうして?」
「倒れちゃう子がいるんだって」
「どうして?」
「なんだっけ」
成留の顔が妻へと向かう。
「集団ヒステリーだってさ」
と妻が答える。
「それそれ、それなんだって、やばくない? お父さんもやっぱやばいって思う?」
「うーん」
僕はさらに大きく唸って、焼き魚と野菜炒めと明太子とご飯を頬張った。「考え方による、としか」
「なんてえ?」
娘に笑われ、僕は味噌汁を飲んだ。
「まず、成留は本当にこっくりさんを信じてる?」
聞くと、成留は真顔で首を横に振った。
「信じてないんだ?」
「よく分かんない」
「まあ、そうだろうね。でも説としては昔から色々言われていてね、オカルト説、筋肉疲労説、自己暗示説、イタズラ説、だけどどれも決定的な確証は得られないんだ。複合的なパターンだってあるだろうしね」
「ふくごうてきって?」
「イタズラを仕掛ける人がわざと指を動かすのと、同時に本気で信じてる人が暗示にかかって動かし合うっていうパターンだよ。この場合、例えばコインなんかを指で押さえているとそのコインがずーっと迷走し続ける」
「迷走?」
「ずっと動き回ってる」
「ふーん」
「信じてる人にとっては本物だろうし、信じてない人にとっては単なる遊びだ。ヒステリーを起こして倒れちゃう子なんかは信じてる側にいるんだと思うけど、問題なのはこっくりさんがやばいかやばくないかじゃなくて、その結果体調を崩すことが問題なんだよ」
「そっかあ」
「でも、懐かしいね、お父さんが子どもの頃にも流行ってたよ。やっぱりこういうオカルト文化はぐるぐると巡るものなんだね」
「そうなんだ、お父さんたちは昔、どんなお願い事してたの?」
「お?」
焼き魚を解す箸の動きが自然と止まった。「……お願い?」
「成留たちはこっくりさんをしながら、何かお願いことをしてるの?」
と妻が尋ねた。妻は僕よりもひとつ年上である。世代的にはこっくりさんに対する認識は僕と同じなわけで、当然今の成留の質問には疑念が沸く。
「え、うん。それがだって、こっくりさんでしょ?」
と成留は目を丸くする。
「違うよ」
と妻が首を横に振る。「こっくりさんは占いだもの。何かを質問して、こっくりさんに答えてもらうの。例えば、好きな人と付き合えますか、とか、そんな風に」
妻の答えを聞いた成留の表情がさっと曇った。もちろん、父親の前で男女間の話題を振られたから、なんて理由ではない。おそらく、成留は自分の知るコックリさんと僕たちの認識が食い違っていることに怯えているのだ。
「学校では、違うのかい?」
問うと、成留はこう答えた。
「こっくりさんに、願いことをすると叶うんだって。イエスとかノーとかって返事があって、イエスにコインが動くと、会えるんだって」
「会えるって誰に」
……本当の自分。
「ほ」
ぞっとした。
小学五年生の口からそんな抽象的な表現を聞くとは思いもしなかった。だがそれ以上に現代版こっくりさんがもたらす結果が恐ろしかった。本当の自分に出会えるとはどういう意味だろう。もし願い事をしてイエスという答えを貰った場合、そう願った人物の前に何が現れるのか。考えるだけで恐ろしい。
ピーンポーン。
玄関のチャイムが鳴って、僕の携帯電話が振動を始めた。
誰、と成留に問われ、知らない人、と僕は答えた。
とりあえず、お腹いっぱい朝食を食べ終えるまでは信夫を外で待たせることにした。それくらいしたって今の僕に罰は当たらないだろう。
「六回?」
「はい」
「本当に?」
「はあ」
信夫の担当する事案において、その看護師は既に六回も自殺を図り、そしてその度に戻って来ているという。F区第5保育園に勤務する保育士で、名を木虎祥子さんという。今現在ベテランの副担任とともに年中組の保育にあたっているが、信夫曰くかなり精神的に病んでいる状態なのだそうだ。
信夫は言う。
「さすがに子供たちの前ではそんなことはないらしいんですが、同僚への聞き込みでは気が付くと死にたいと漏らしてるって。周りへ悪影響もあるから上司からは休めって言われてるんですが、本人にそのつもりはないようです。ちょっと、人の車ん中でいい匂いさせるの止めてくれません?」
「君も食べるかい、朝ごはんの残り物だけど」
「え、いいんですか」
「食べれる時に食べとかないとね」
「いただきます」
「卵焼きは全部食べちゃだめだよ」
「何ケチ臭いこと言ってんだ」
「前前前前!」
信夫の運転する車で木虎さんの勤務する保育園へと向かった。木虎さんは先日も首吊り自殺を図ったばかりで、今日が何度目かの復帰の日だという。
「実際どういうカラクリなのさ。そもそもよくクビにならないね、その人」
「……」
「いやシャレを言ったつもりはないよ。でもさ、そうそう自殺騒動起こすような人にそのまま園児を任せたりするかな。一度死んで戻って来た時、園はどんな反応だったんだろう」
「そりゃあ皆腰抜かす程の驚きようだったそうですよ。でも一回だけなんです、死んで墓場まで行ったのは。そん時は医者の手違いだったで押し通したそうです、実際生きてぴんぴんしてるわけなんで。あとは全部、体や精神的な不調で欠席扱いにしてもらってるそうです」
「そうなんだ。……でも」
「周りはよく思ってませんよ、もちろん。保育士の無断欠席は周囲にとってもかなり負担が大きい。だけどまあ時代もあるんでしょうが、そう簡単に首は切れないようですね。保育士なんて人手不足の代名詞でしょ。いくら休みがちとは言っても本人に辞める気がない上に、一方的に首を切ろうもんなら……何かされるんじゃないかって」
信夫の言った最後のひと言が理由の全てだろう、と感じた。実際に会って話をしていない為、木虎さんの人格をどうのこうのと言いたくはないが、病んだ人間の機嫌を損ねるのは誰だって普通に怖いし、避けたいと思うのが自然である。同僚の保育士たちも、相当のストレスを感じているに違いない。
「死んでから戻って来るまでの日数に決まりはあるのかい?」
問うと、信夫はハンドルを握りながら片手で器用に手帳を開いた。
「首吊りで三日、飛び降りで五日、練炭だと半日で戻ってきます。肉体の損傷度合いによるんでしょうね」
「即復活しないのもなんだか変な話だね。いや、人は普通死んだら戻って来ない物だけど、僕たちの場合は文乃さんや残間京の存在を知ってしまっているからね」
「そこですよ。私もまずそこを疑いました、黒井一族なんじゃないのかって」
「その口振りからすると違うんだね?」
「まず、西荻文乃さんは除外します。彼女には会って話をしましたが、噓をついているようには見えなかった。後は黒井七永、秋月六花、残間京、そいでもって新開水留、あなたです」
「……うん」
「七永の事は正直分かりません。ただ、木虎祥子は今年で二十六歳です。二十六年前と言えばまだ、私たちの周りでも奴の関与する事件は起きていないとされています。実際の所は分かりませんが、火のない所に煙も立ってない、そんなの辿り様がありませんよ。それに、本当のことを言えばチョウジはまだ、残間京が本当に七永の娘なのかを疑ってるくらいですから」
「……知ってるよ」
「年齢的なことを言えば秋月六花も怪しい。が、あの方を疑う事は出来ません。少なくともチョウジにいて坂東さんにしごかれた連中なら、六花姉さんに嫌疑をかけるイコール死を意味します」
「大袈裟だな!」
「じゃあ疑えますか新開くんなら? 姉さんに聞けます? 昔娘産んで捨てましたかって聞けるんですか?」
「聞けるわけないだろ!」
「そのビビり具合が私たちの共通の答えですよ。新開くんはもう年齢的に無理なんで、こうなって来ると黒井の血を疑うこと自体に躊躇いを感じてしまいます。他にもほら、うちで預かってる曽我部家の秘蔵っ子、あれだって見ようによっちゃあ……何すか、マジな顔して」
「本当に、同じ人物なのか?」
聞き取れるようにはっきりと発音し、尋ねた。
すると信夫は視線を前に戻し、
「どういう意味ですか」
と真顔で呟いた。
――― まさかドッペルゲンガーじゃないだろうな。
僕はその馬鹿げた質問を飲み込み、「いや」と答えて頭を振った。
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