21:保育士ループスーサイド 2

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21:保育士ループスーサイド 2

「いわゆる鍵っ子だったんです、子どもの頃」  信夫は言う。「両親が共働きで、保育園も夕方まで延長保育。迎えに来てもらうのはいっつも最後、乳児の頃から年長まで五年間いましたから、意外と今でもその頃の記憶がしっかりと残ってて。その後小学校上がってからもいっつも一人だったんですけど、保育園の頃の事の方が覚えてるくらいで」  僕は助手席のドアを開けてシートに腰かけた。 「色々と吸収する年代だもんね、僕も覚えがあるよ」 「ですよね、別に珍しい事じゃあないんで。でね、私、実はなんですよ」 「ここって……第5?」 「ええ。ここの卒園生です」 「へえ」 「変わってないすね、全く」 「そうなんだ」 「私ね、年中だか年長だかだと思うんですが、そん時の担任の先生が初恋の相手なんですよ」 「あはは」 「……」 「あ、ごめん」 「え? いや、怒ってるわけじゃないすよ。何て言うか、今にして思えばですけど、その時自分を……支えたっていうと大袈裟ですけど、寂しかった私を包み込んでくれてたものって大きかったんだなぁって思うんですよ。当時は下手すると母親よりも一緒にいる時間が長かったんじゃないかって思いますし、こんな言い方すると両親に悪いですが、少なくともここにいた間はこの保育園に、文字通り育ててもらったようなもんじゃないかなって」 「……いい先生に巡り合えたんだね」 「そうっすね。忘れもしません、ナカニシユキ先生です。若くて、背がスラっと高くてね、綺麗で、スタイル抜群の先生でした」 「子どもの頃から面食いだったわけだ、信夫は」 「最初は単純にそうでしたね。でも、今でも思い出すんですけど、延長保育の時間て担任が交代になるんですよ。でもナカニシ先生は延長の時間、たまに私がいた教室に顔を出して様子を見に来てくれてました。別に私だけを見に来たわけじゃないのは分かってる、でもそれが凄く嬉しくて。んで、最後母親が迎えに来るんですけど、その時も笑顔で延長の先生と一緒にさよならの挨拶をしてくれるんです。……甘えさせてもらってたなって、よく分かんないすけど、オレンジ色の明かりの中に浮かび上がるナカニシ先生の笑顔を、今でも思い出すんです」 「……へえ」 「何すかへえって」 「別に」 「似てるんですよね。ナカニシ先生と、木虎先生が」 「そっか……」 「動機が不純なんであれですけど、何とかしてやりたいって思いは強いっすね。あの頃の恩返し、じゃないですけど」 「別に不純じゃないと思うよ」  言うと、信夫は運転席側に立って運動場を向いたまま乾いた笑い声を上げた。 「白々しいかい?」 「どうなんでしょうかねえ」 「誰かを助けたいと思って動くんだから、それでいいじゃないか。それ以上何が必要なんだよ」 「……」  しかし信夫は答えず、身体をくの字に曲げてガラス越しに僕の顔を覗き込んだ。「新開くん、私ね、あんたのそういう物わかりの良い所が昔っから大嫌いだった」 「はあ!?」  思わず立ち上がって信夫を睨みつける。「い、今言うことかいそれ!?」 「いつなら言って良いんですか?」 「何なんだよ君って奴は!」 「そう声を荒げるもんじゃありませんよ、ほらあ、先生方が心配そうにこっちを見てるじゃないですか」 「い、や」  信夫は僕の言い訳など聞かずにフェンスの方へと歩み寄って行く。 「すみませーん、怪しいものではありませんので、どうぞお構いなくー」  まるで運動場へ近づく口実が欲しくて僕を利用したみたいだった。……いや、実際そうなのかもしれない。僕たちから最も近い場所で、走り回る園児たちの様子を見守っていた保育士がひとり、 「あのー」  信夫に声をかけて来た。「さっきからそこで何をされてるんですか? そこ、職員専用の駐車場なんで、園に用事がないのなら車を停めないでもらえませんか。それでなくともこのご時世、怖いことも多いですから」  怖いこと、というのは不審者だろう。意を決して注意して来たというわけだ。当然と言えば当然の結果である。 「そうですよねえ」  と信夫は笑顔で頷く。「あのう、失礼ですけど、今でもナカニシ先生はこちらにお勤めだったりしますか?」 「え?」  信夫に声をかけてきたのは三十代くらいの女性保育士だった。一瞬視線を彷徨わせ、ナカニシ、と口の中で復唱する。 「もし今でもいらっしゃるなら、もう五十代にはなっているかと思うのですが」  さらに信夫が言うと、 「ああ、じゃあ、その年代の先生でナカニシという名前の人はいませんね」  保育士はそう答えた。 「そうですか、ならいいんです。失礼しました」  信夫は丁寧に頭を下げてフェンスの側から離れた。ついに僕たちは居場所を失ってしまった。正午まではまだ時間がある。一旦この場を離れてまた戻って来るしかないだろう、そう諦めかけた時だった。運動場を走り回る園児たちの中から、 「あ、木虎センセー!」  という歓声に近い声が上がった。  勢い良く信夫が振り返った。僕も慌てて車から離れて視線を追う。  丁度、別のクラスの児童たちを率いた女性保育士が通用口から出て来る所だった。確かに背が高い。園児たちと手を繋ぎ、視線を下げている為顔はよく見えない。髪型はポニーテール、服装はスウェットとジャージパンツ、誤解を恐れずに言えば他の保育士たちと何ら区別が付けられない。 「彼女がそうかい?」  問うと信夫は頷き、 「間違いないっす」 「見た所元気そうではあるね、確かに」  僕にはとても、彼女が自殺を図るようにも図ったようにも見えなかった。だが、 「いや」  信夫はそうじゃなかった。  段取り的には、昼休みに木虎先生の手が空く瞬間を狙って接触を図るつもりでいた。だが信夫は何を思ったのか無造作に先生へ向かって歩き始めた。周りにはもちろん園児たちが大勢いる。 「お、おい」  何と声をかけるつもりなんだ。木虎先生は確かに信夫の依頼人だが、その内容はかなりデリケートである。今ここでたくさんの目がある前で話を聞くのは、通常ならば憚られる場面の筈だった。 「信夫!」 「新開くんまずい」 「え?」  突然信夫が走り出した。 「信夫!」  園児たちが運動場へと駆け込んで行く。最後尾で子供たちを見守っていた筈の木虎先生はその時、まるでゼンマイが切れてしまったかのように足を止め、視線はあらぬ方向を見ていた。 「先生!」  人目も気にせず信夫が叫んだ。だが木虎先生は聞こえたはずの信夫の声を無視し、突如踵を返して園内に駆け戻った。得も言われぬ悪寒が僕の背中を舐め上げた。 「嘘だ、嘘だろ今なのか!?」  全く分からなかった。慌てて僕も信夫の後を追う。下駄箱の並んだ玄関ホールには誰もいなかった。木虎先生もいない。信夫は靴を脱いで廊下を奥へ向かって走る。途中行き過ぎて、二階へと上がる階段に手をかけて急停止したかと思うとそのままダダダと駆け登っていく。 「先生!」  叫ぶ信夫。当然二階にも保育ルームが並んでいる。向こうにしてみれば不審者が二人侵入して叫んでいるのと同じ状態である。すぐに誰かが悲鳴をあげ、園児たちの泣き声に変わった。恐怖心と不安が建物内を物凄い速さで波及していく。このままでは非常にまずい。 「信夫待て!」 「屋上へ登るにはどこから行くんだ!?」  廊下に出て来た保育士に信夫が尋ねた。いつもの笑顔と愛想の良さはとっくにどこかへ消えている。 「何ですかあなたたちは!」 「いいから教えてくれ!どこから上に登るんだ!」 「お、教えられません!」  気丈にもそう胸を張る保育士に顔を近づけ、 「園内で人が死んでもいいのか!」  と信夫は声を荒げた。そのあまりの気迫に押されてか、別の職員が廊下の奥を指さした。この先のフリールームからベランダに出れば屋根に登れる梯子が……。  最後まで聞かずに信夫は走った。すみません、と何度も頭を下げつつ僕も追う。廊下の突き当りには各保育ルームとは違った作りの部屋があって、その部屋の奥からベランダに出られた。ベランダへ出る為の窓は解錠されて少しだけ開いており、ほぼ間違いなく木虎先生がここを通ったものと思われた。ベランダには、タオルやシーツ類が天日干しにされていて発見し辛いものの、端に屋上へと登る点検用の梯子が備え付けられていた。信夫はひと目見るなり側にあった室外機を蹴って高く飛び、梯子を手で掴むとグンと体を引き付け、腕の力だけで梯子を登った。 「こ、ここを登るの!?」  僕には信夫のような運動神経はない。ましてや先日右肩を痛めたばかりだ。というか、女性である木虎先生が、信夫がやってみせたような身軽さでこの梯子を登って屋上へ出たというのだろうか? 「新開くんは来なくていい、下で待ってろ!」  そう言い残して信夫は屋上、つまり屋根の上へあっという間に到達した。「木虎先生!」  事情を呑み込めない保育士数人が後から追い付いて来た。 「ここ以外に屋根へ上がる方法はありませんか」  僕が問うと、体育ホールのバックヤードから天井裏に登る為の仕掛け梯子がある、と保育士のひとりが教えてくれた。その場所へ案内してください、と僕がお願いしたその時だった。 「危ないッ!」  と保育士が叫んだ。  振り返った瞬間、屋根の上から落ちて来た黒い影が目の前を通過するのが見えた。木虎先生だった。そしてそのすぐ後ろから、右手を伸ばした信夫が追いかけるように飛び降りたのが見えた。 「信夫ォッ!」  僕が名を呼んだ時には、真っ逆さまに落ちたふたりの身体がコンクリート敷きのピロティに激突する所だった。ぎりぎり、信夫の身体が木虎先生の身体よりも下になったように見えた。だが大人二人の肉体が固く冷たい地面に落下した生々しい衝撃音とその光景は、その場に居合わせた保育士や園児たちの呼吸を一斉に止めた。ビタリと音がしなくなり、刹那の後に凄まじい数の絶叫が湧き起こった。  僕はへなへなとしゃがみ込んだ保育士たちの身体を掻き分けて走った。とんでもないことになってしまった……信夫と木虎先生の安否は分からないが、どちらにせよ二人がF区第5保育園に与えた衝撃は計り知れない。偶然にも木虎先生が飛び降りる瞬間を目撃してしまった児童には、下手すると一生消えない傷を心に植え付けた可能性もある。    僕が玄関ホール前のピロティに辿り着いた時、信夫と木虎先生は少し離れて仰向けに倒れていた。ゆっくりと寝返りを打つように信夫の左腕や左足が動いていた。しかし明らかに彼の右腕は折れ曲がり、右足に至っては目を逸らしたくなるような惨たらしい角度で痙攣をおこしていた。側に倒れている木虎先生は動かない。丁度、彼女の頭部の右側に血だまりが出来始めていた。 「どいて!」  建物の中からベテランの女性保育士が走り出て来て、信夫と木虎先生に大きなシーツをかけた。園児たちの目に触れさせまいとする配慮だった。僕は急いで119番通報して救急車を手配した。  信夫の傍らに膝を着き、彼の耳の側に唇を寄せた。 「何故だ」  と聞いた。後になって、心無い質問だったと悔やんだ。だが思ったのだ。信夫は木虎先生が何度死んでも戻って来ることを知っていた。ならばどうして、一緒になって屋上から飛んだのか。二階建ての屋根と言っても打ち所が悪ければ即死する。実際信夫の右腕も右膝も壊れてしまった。 「先生は」  信夫は喘ぐような声で木虎先生の安否を問うた。「どうなった」  起き上がろうとしているらしく、肩や左膝がググと持ち上がる。 「頭を打ったようだ、でも」 「先生を死なせないでくれ」  力を振り絞ってそう言った後、信夫はまるで糸が切れたように意識を失った。 「のぶ……ッ!」  だが、残念ながら救急隊の到着を待たずして木虎先生は息を引き取った。僕は制止する保育士らの手を振りほどいてシーツを少しだけずらし、木虎先生に人工呼吸と心臓マッサージを施し続けた。それが信夫へのせめてもの礼儀だと思った。だが無駄だと分かってもいた。木虎先生はこの時、早くも完全に死人の顔をしていた。 「こんな状態からどうやって戻るっていうんだ」  言葉には出すことの出来ない思いが、ぐるぐると脳内を回転する。死を寄せ付けない不滅の肉体を持つ西荻文乃や、黒井七永のそれとはまるで様子が違う。木虎祥子は誰がどう見ても完全に死んでいる。それでも彼女は蘇るのか? 本当に? どうやって? 「全く意味が分からない。何がどうなってるんだ」  死なない人間ならば僕も見たことがある。どれだけ深手を負っても、死よりも速いスピードで治癒出来る人間を知っている。だが、完全に死んだ状態から生き返る人間が、あの黒井一族以外に存在するなど僕にはどうしても信じられなかった。 「信夫。君の依頼人は一体何者なんだ……?」
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