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25:出処不明の呪 1
大鎌大河は満面の笑みを浮かべて歩き去った。
お付きの男は慌てて後を追い、残された僕たちはしかし、結局用心棒が雇われた理由や相鉄さんの失踪に関する確かな情報などは手に入れることが出来なかった。だが、収穫はあった。
「すみませんでした、新開さん」
柊木さんがわざわざ腰を折って僕に頭を下げた。
「何の何の、僕は何も」
「すみません、役者が違いました」
「確かに一筋縄ではいかない男でしたね」
「いえ、新開さんと私の話ですよ。最初からあなたにあの男の相手を任せるべきでした」
「やめて下さいよ」
実際の所、大河と話をした印象だけを見れば、僕はあの男にそこまで嫌な気配を感じなかった。確かに秘密を隠し持ってはいるし、僕や柊木さんを一段高い場所から見下ろしている節はある。だがそれでも嫌悪感を抱く程ではなかった。相鉄さんの失踪に関しては心を傷めていると感じたし、息子である大河が父親を屠って教団教主の座を手に入れた、といった俗物的な背景も見えてはこなかった。情報としてではなく、この目で見て話をした感覚を信じるならば、あの男は灰色に近い白だ。
「勝手な仮説を言葉にしてもいいですか」
と柊木さんは言う。
「どうぞ」
「私、変なこと言いますね」
「ふふ、どうぞ」
「大鎌相鉄……本当に生きてるかもしれません」
「僕もそう思います」
ああああ、と柊木さんが声を上げた。大声ではなかったが、いかにもストレス爆発、といった声色だった。
「地元住民から得た証言の裏取りが甘かったのかもしれません。住民はこの辺りで相鉄を目撃している、でもそれは……幽霊のように見えただけの生身の相鉄だったのかもしれませんね」
兎谷虹鱒が霊魂を釣れなかったのだから、少なくとも相鉄氏はここで死んでいないのだ。となると、やはり生きていると考えるのが現実的ではある。
「でもその場合、疑問が二つ出て来ます」
と僕は応じてみせた。「どうして相鉄さんは失踪したのか。あるいは失踪騒動その物が真っ赤な噓だったならば、何故教団は地域住民に噓の情報を流しているのか……」
カラーチラシを撒くだけ撒いて、その他の積極的な捜索活動を一切行っていない教団に怪しさを感じていただけに、この推察はやたらと現実味を帯びて来る。僕たちは黙ったまま一季小神殿を見上げ、最奥の間にてひたすら神示と向かい合っている相鉄氏の鬼気迫る姿を想像し……震えた。
北城くんから送られてスマホの映像を確認できたのは、大鎌大河と別れた直後だった。電話を切ってからすでに一時間近く経過している。柊木さんと共に映像を再生した僕は、
「……」
それを見た瞬間愕然とし、何も言えずに息をすることも忘れた。北城くんの言った言葉は本当だった。矢沢さん宅に現れた女には、この僕も見覚えがあった。
「え、これって」
思わず、だろう。柊木さんが僕の手からスマホを取り上げて顔を近づけた。北城くんの撮った映像は酷く昏く不鮮明で、屋外の日の光の下ではさらに見辛かったのだ。
天正堂だとかチョウジだとかそんな属性は一切関係なく、その女のことを覚えている人間はたくさん存在するはずである。この町と言わず、東京中に、いや、日本中に。
「どういうことですか新開さん、この映像、北城から送られて来たんですよね」
「……ええ」
「北城が担当してる『訪ねて来る女』って、この女なんですか!?」
「……そのようです」
柊木さんは僕にスマホを突き返し、両手で額を抑えた。その場で歩き回り、情報を整理しようと必死である。だが僕はそれさえも出来なかった。体が硬直し、身動きできなかった。
矢沢誠二さん宅に現れる女は、元『NIGHT GARDENER』のボーカルと同じ顔をしていた。つまりは、あの、黒井七永である。
事は一刻を争った。
陣之内さんから連絡を貰った時、僕は柊木さんと共に北城くんが受け持つ矢沢誠二さんのマンション、サンシャインパレスを目指す道中にあった。だが、行き先を変更せざるを得ない事態が起きた。
「新開さん! 箱が! 箱が戻って来ました! 武市くんが!」
「今すぐ行きます!」
可能性はあった。
西田家から持ち帰った例の箱、「開けたら死ぬ」と言われた桐製の骨箱は、僕が自分の所有物であるいう血判を押した状態で保管していた。場所は僕が借りている仕事部屋の一室で、鍵のかかる部屋にお手製の呪具と一緒に管理していたのだ。だが怜菜さんにも伝えた通り、血判の効力が弱まれば、箱は自動的に本来の持ち主のもとへと帰ってしまう。僕が西田家を訪れた時、箱の持ち主は武市くんだった。怜菜さんはその「開けたら死ぬ箱」を息子から遠ざけるべく、二十四時間体制で抱え持っていたのである。だが、
「一週間持たないのか」
と思った。効力の消滅が早すぎる。想像以上に強い箱の呪力に眩暈がした。自慢じゃないが、新開水留の血判を押した状態で僕の管理下から消えるということは、ほとんど意志を持った人間の行動に近いと言える。無機物にも気の通う性質は備わっていて、僕の生命エネルギーを通すことで所有者の印を刻み込んでいたのだ。生きている人間相手にはもちろん、「君は僕のものだ」などという一方的な命令は通用しない。だが相手は単なる木で出来た箱なのだ。そこで僕は念には念を入れ、箱の側には僕が長年愛用している呪具である「豆大福」を置いて来た。敵の霊力に反応してどこまでも伸び、捕縛を可能とする髪の毛を持った愛玩人形である。豆大福の性能は相手の霊性によって無制限に高まり、例え敵が大人の男であっても問答無用で抑え込むことが出来る程の力を有している。それでも、箱は西田家に戻ったのだ。
西田家の玄関を開けて飛び込んだ時、廊下に落ちている箱の蓋が目に入った。
「箱が、開いてる」
昼日中だというのに西田家は昏かった。家中のカーテンを閉め切り、一切の照明が灯っていないから余計と陰鬱な空気が充満していた。僕は木の蓋を拾い上げてリビングに駆け込んだ。
「武市くん!」
リビングの中央で怜菜さんが骨箱に覆い被さっていた。本来の位置から大きく移動したソファーの側で、怜菜さんの義母である三吉さんが力なく突っ立っている。意識はあるようだが床に向けられたその目には生命力をまるで感じなかった。
「新開さん助けて!」
怜菜さんが叫ぶ。彼女は蹲って腹の下に骨箱を抱え込んでいたが、蓋の開いた部分から黒い髪の毛のようなものが覗けて見えていた。怜菜さんは今、箱の中身が出てこないようにと必死に押さえ込んでいるのだ。
「し、しんか……ッ、ぐぅ!」
その傍らでは、陣之内さんが床に倒れた武市くんを羽交い絞めにしていた。武市くんは血走った両目をひん剥きながら腕を伸ばし、じりじりと、怜菜さんが覆いかぶさる箱の方へと近付きつつあった。女性とは言え大人である陣之内さんが歯を食いしばって捕縛していても、6歳の幼児である武市くんを止めることは出来なかった。
パパンッ!
僕と柊木さんはほぼ同時に柏手を打った。
腰を落とし、意識を集中させる。
「柊木さんは武市くんを」
「男の子ですね、了解しました」
柊木さんは即答し、
「萌。手を離して」
とかつての部下にそう言った。
「ひ、柊木室長、でも!」
「萌、早く」
汗の浮かんだ顔面を蒼白にして、陣之内さんは両手両足の力をほんの僅かに緩めた。「うわ!」
ずるずると蛇のような動きで武市くんは床を這った。素早い動きで、怜菜さんが押さえ込む骨箱へと彼の腕が伸びる。
「いやッ!」
怜菜さんが目を閉じた瞬間、柊木さんが素早く二回手を打ち鳴らす。
「控えよッ!」
ビタ、と武市くんの動きが止まった。が、彼の目がぎろりと柊木さんを睨んだ。
「控えよ、生きて異なる者」
武市くんの右腕がぶるぶると震えながら骨箱へと伸びる。
「定めし蠢く者よ聞け、そして控えよ!」
柊木さんが声に力を込める。と同時に僕は怜菜さんの側へ寄り、彼女の身体の下に骨箱の蓋を差し込んだ。
「きいいいい!」
武市くんが甲高い声を放つ。陣之内さんが耳を塞ぎ、柊木さんの右鼻腔から血が垂れた。武市くんの左手が伸びて怜菜さんの顔面を襲う。
「新開さん!」
柊木さんが叫ぶ。僕は咄嗟に身体を回転させて、武市くんと怜菜さんの間を背中で遮った。武市くんの幼くも鋭い指先が、僕の脇腹に近い腰の辺りを掴んだ。凄まじい力で握られ、武市くんの爪が肉に喰い込んだ。
その瞬間、母が出た。
その場に小さな霊穴が開き、僕と武市くんは音もなく落ちた。
「ぶ……」
突如開いた暗黒の虚空へと吸い込まれた僕の耳に、ほんの僅かな合間、子どもの名を呼ぶ怜菜さんの悲痛な叫び声が聞こえた。
だが僕は、彼女の悲鳴が途切れる前にリビングの天井から降りて来た。床から落下し、天井から降って来たのだ。僕はもといた場所にどすんと着地し、小脇に抱えた武市くんの身体をそっと床に横たえた。一瞬の出来事に、怜菜さんも陣之内さんも言葉が出ない。柊木さんだけがハンカチで鼻血を抑えつつ膝を折り、
「箱を、こちらに」
と冷静な口調で怜菜さんに向かって手を伸ばした。
僕は柊木さんから受け取った骨箱を蓋で閉じ、再び指先を噛んで箱の側面全てに血判を押した。武市くんはそのまま眠りに落ち、三吉さんは陣之内さんに声を掛けられて我に返った。滝のように汗を流す怜菜さんを支えてゆっくりとソファに座らせ、僕は彼女の前に正座して両手を床に付いた。
「遅くなってしまいました。申し訳ありませんでした」
僕の右側に骨箱を置いた。武市くんには、僕の背後に座った柊木さんと陣之内さんがついている。三吉さんには怜菜さんの隣に腰かけてもらい、皆の心が僅かにでも落ち着いた頃合いを見計らって、話を切り出した。
「先日こちらへお邪魔させてもらった日の翌日、陣之内さんにお願いして、西田家が越して来る前にこの家に住んでいたという住民を探し出し、確認してもらいました。怜菜さん、本来は武夫さんにもお伺いしたいことでもあるのですが、この木箱は、この家の屋根裏で見つかった……というお話で間違いありませんか?」
問うと、怜菜さんの視線が持ち上がり、ゆっくりと僕に焦点を合わせた。
「……はい。その通りです」
三吉さんを見やると、私も息子からそう聞いています、と言って頷いた。
「そうですか」
僕は答え、箱を見つめた。「僕も陣之内さんから同じように聞いてはいたのですが、本当にこれが前の住人の忘れ物なのか気になって確認を取ってもらいました。ですが、やはりと言いますか、前にこの家に住んでいらした方は、箱など知らない……と」
噓です、と怜菜さんが叫んだ。
「噓をついてるんです! その人!」
「……では」
僕は箱から怜菜さんへと視線を移した。「この家で箱を見つけた経緯を教えてもらってもよろしいですか」
「それは……イタチが」
「イタチが」
「ここへ越して来てすぐ、天井裏からドドドドって何かが走り回る音が聞こえて。鼠かと思ったんです。その内、壁の向こう側からも音がするようになって、主人と相談して駆除業者に来て貰ったんです。箱は、その時見つかりました」
「それはどなたが?」
「業者の方が、天井裏に物を置かない方がいいですよって言って。身に覚えなんてありませんでしたから、降ろして下さいと頼みました」
「出て来たのが、この骨箱であると」
「はい」
うーん、と僕はわざとらしく唸って見せた。怜菜さんと三吉さんの顔が曇り、お互いを見つめ合った。彼女たちの証言に曖昧な点はない。だが、僕の聞いた報告とは食い違っていた。
「近くに公園のような広場がありますね。林も」
言うと、怜菜さんは黙って頷いた。
「確かに鼠やイタチなどが出ると、ここいらの家々から苦情が続出しているみたいなんですよ。前の住人がそう仰っていたそうです」
え、と怜菜さんたちが怪訝な表情を浮かべる。
「前の住人も同じ理由で駆除業者を呼んでるんですよ。ですが、その時は木の箱など出てこなかったそうです」
「だから!その人が噓を言ってるんです!」
「いえ」
激昂する怜菜さんに、僕は静かに頭を振った。「前の住人はこの辺りに被害が多い事を知った上で、業者を呼んでイタチを追い出した後、わざわざ工務店に頼んで、天井裏にゴキブリ一匹入れないようにリフォームまで施工したんだそうです。その際木箱があったのか、なかったのか、陣之内さんには駆除業者にも工務店にも確認を取ってもらいました」
「そんな……」
「なかったそうです」
三吉さんが両手で顔を覆った。
「本当にご存知ないんですね?」
問うと、怜菜さんと三吉さんは揃って首を縦に振った。
ことの異常さに、ようやく二人は気が付いた様子だった。
開けたら人が死ぬ箱、その凶悪な存在と捨てても戻って来る特性、そして箱の中に入っている武市くんの頭、これらの奇怪さに彼女たちは一番重要な部分を見失っていた。
何故その箱が西田家の天井裏から出て来たのか。
僕たちはまずそれを知る必要があったのだ。
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