2:影

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2:影

 問題のお宅は八巻(はちまき)家と言って、都内の閑静な住宅地にひっそりと佇んでいた。八巻さんは、家主である真治さん(67)、奥様の靖子さん(62)、長女の桃花さん(34)の三人家族である。一番初めに家の異変に気がついたのは長女の桃花さんだという。以下は、僕が北城くんから聞いた桃花さんの証言だ。 「私はコンピューター関連の仕事をしていて、顧客相手とのやりとりによっては、ごくたまにですが遅い時間まで社に残ることがあるんです。その日は日付が変わった頃に会社を出て、翌日が休みだったこともあり同僚と外で食事して、お酒を飲んで、家に帰ったのが二時頃でした。古い家なので色んな場所にガタが来ていて、家の前の門扉も、迂闊に開けるとかなり金属質な音が響き渡るんで、その時もこっそり庭に入りました。そして、鞄から鍵を出してそっと鍵穴に差し込もうとした瞬間、扉が手前にスッと、開いたんです」  桃花さんが深夜二時という遅い時間に外から帰って来たのは、この日が初めてだったそうだ。通常の帰宅時間は遅くとも十一時頃で、さすがに日付が変わる程の残業は月に一度あるかないかだという。 「びっくりはしましたけど、築年数も経ってますし、偶然だと思いました。開いたのはほんの数センチですし、気圧の変化とか、家が傾いてるとか、何かそんなことだろうと」  その日は鍵をしっかりと閉めたのを確認して家に入った。だが、翌々日、たまたま朝方早起きして玄関前を通った所、扉がほんの僅かに開いているのが目に入った。家族の誰かが庭に出たのだろうかと外を見るも、誰もいない。昨晩は仕事が早く終わったので、桃花さんは自分で家の鍵を開けて中に入り、しっかりと施錠したのを覚えていた。扉が開いたのはそれ以降のはずで、父か母が閉め忘れたのだろうと思った。 「朝になって扉が開いてるのって単純に不用心じゃないですか。なんで、父と母に閉め忘れに注意するよう言ったんです。でも、俺じゃない私じゃないの一点張りで」  そこから、桃花さんは毎朝玄関の扉が開いていないかを確認するようになった。すると開いていることもあれば、ちゃんと閉じて施錠されていることもあるそうで、ますます意味が分からなくなったという。 「家の中に泥棒がいて、誰かこの三人以外に住んでるんじゃないかって思うと怖くて怖くて、警察に相談して、その後北城さんにも来ていただいて」  桃花さんたちは北城くんがチョウジであることを知らず、単にオカルト分野に詳しい刑事として認識しているそうだ。北城くんは僕に説明した通りの仕掛けを施して現場検証を行ったが、やはり毎夜深夜二時になると扉は開いてしまうのだという。  だが、と思う。  北城くんの検証に不備がないものと仮定し、実際に扉がひとりでに開いてしまうとしても、ただそれだけで心霊現象だと判断するには決め手が欠けていると思った。要は、人の手で全く同じ現象を起こせる以上、イタズラではないという確証を得るには至らず、また同様に、霊体の介在を確認していない以上、心霊現象ですとは言えないのが八巻家の現状だった。  十月某日、午後五時 ―――  これまでも依頼人の自宅を訪問することは何度となく経験してきた。そんな僕が八巻家のある番地に足を踏み入れた時に感じた感覚は、アウト。夕暮れ時、肌寒さを実感し始める十月という季節を抜きにしても当該宅の周辺は圧倒的に昏かった。寒かった。そして寂しかった。立地だけを見れば、霊障被害などなければ賑やかな土地のはずである。繁華街の中心部まで徒歩十五分圏内で、裏路地を使えば目抜き通りまで十分かからない。お洒落な街としても有名で、昔ながらの住宅地とは言っても地方の田舎町とは基礎的な人口がまるで違う。それなのに、八巻家へと向かう間中僕が抱いていた印象は、 「ここは極地か?」  だった。人里離れた海沿いの突端をひとりで歩いているような、そんな心細さに泣きそうにもなってくる。加えて、喉の奥がじりじりと焼けるように痺れ始めた。 「確定だな」  と思わず呟いた。木造二階建て、庭付きとは言ってもそこまで大きな家ではない。石作りの門扉にある表札で八巻の名を確認し、見上げる。 「……嫌な予感しかしない」  この時点で僕はすでに、何某かの心霊現象が八巻家に危害を加えていると確信していた。だが、話はそう簡単に進まなかった。ご家族への挨拶を済ませ、桃花さんから改めて事情を聞き終えた僕は、家人同伴のもとで家の中全部を見て回った。所がその場でふと気づいたのだ。 「何も感じない……」  もちろん声には出さなかった。心配そうに僕の後をついて来る八巻家の面々を前に早急な答えなど口にしたくない。だがこの時、少なくとも肌で霊体の存在を感じることが出来なかったのは間違いない。あるいはこの場に存在しなくても、毎晩決まった時間に出現する霊体の話が本当なのであれば、僕が何も感じない事などあり得ない筈だった。口で説明したって理解は得られないかもしれないが、僕は死者の姿を肉眼ではっきりと捉えることが出来る。彼らが生きていた時と何ら遜色ない解像度で。例えこの場に居なくとも、あの世から舞い戻って来た霊体の残滓、気配を感じ取ることに関して、僕は相当の自信を持っていた。 「どうでしたか」  と問われ、 「まだ、今は何とも」  としか答えられない事が悔しかった。慢心ではない。それは……いや、慢心なのかもしれない。僕はこの事件を簡単な事件だと思い込んでいた節がある。僕ならばきっと……という、それはやはり驕りなのだろう。 「どうでしょう。僕も北城くんと同じように、今晩ここの玄関前にスタンバってみてもよろしいでしょうか」  僕の提案に八巻家の面々は些か困惑気味に、それはかまいませんが、と顔を見合わせた。彼らにしてみれば何を今さら悠長な、といった所だろう。頭ごなしに怪奇現象を否定しなかった刑事が、専門家との触れ込みで僕を寄越したのだ。八巻家の期待は大きかったに違いない。だからこそ、僕は適当な対応で彼らを裏切りたくはなかった。  その晩、現場を見たくないという理由で真治さんと靖子さんは席を外された。玄関前には僕と桃花さん二人が残り、一切の明かりを消した状態で上り框に並んで座り、扉を監視した。 「準備されないんですか」  と心配そうな顔で桃花さんが聞いた。すでに時刻は深夜一時四十五分になっていた。 「準備というのは、カメラや盛塩のことですか? それなら、しませんね。北城くんから既にデータを貰いましたので」 「はあ……」  不服そうに吐息をつき、桃花さんは施錠済の玄関戸をじっと見据えた。やがて我慢が出来なくなった様子で、 「でも、ここで座ってただ見ているだけで何か分かるんですか?」  と改めて聞いてきた。 「桃花さんは、何が原因で扉が開くものとお考えですか?」 「え?」 「あ、ごめんなさい、いきなり下のお名前で呼ぶなんて失礼でしたね」 「いえ、それは構いませんけど、どういう意味ですか?」 「幽霊が扉を開ける。あるいは家の中に入って来るって、そんな風にお考えなのではありませんか?」 「……」  桃花さんの頬に緊張が走る。改めて言われると怖い、そういう表情に見えた。 「北城くんから貰ったデータを調査した限りだと、確かに扉が勝手に開くように見えました。でも、残念ながらそれだけなんです、分かるのは」 「確かに、幽霊なんか映ってませんでしたね」 「撮影機器に、幽霊が人の姿で映るなんてことはごくまれにしか起こりません。何か映るとしても不自然な発光物やノイズ程度で、一見してそれと分かる証拠を掴むのは難しいものなんです」 「北城さんもそう仰ってました」 「ただ、考えられる可能性というものはいくつもありません。施錠されている扉がひとりでに開くわけですから、構造上何かしらの力が働いている事は間違いない。それが科学的なことなのか、非科学的なことなのか。科学的な検証については北城くんが既に実施済みなので、今日僕はもうひとつの、非科学的な検証を行ってみたいと思います。ですので、何も準備はいらないんです」 「盛り塩や水質の変化も科学的な検証なんですか?」 「もちろん、数値として可視化できるものはどんなに突拍子もないことだって科学です」 「なるほど」 「この場合でいう非科学的というのは……」 「それこそお化けが飛び出してくるとか?」 「シ」 「え?」  ――― 。  僕の囁く声に、桃花さんの身体がバシンと硬直する。  時計を見やると、深夜一時五十五分だ。  まだあと五分もある。  何だ。  家の中を調べた時には何も感じなかったはずなのに、今はこの八巻家に向かって近づいて来る何者かの気配をはっきりと感じる。  どこからだ?  玄関からか?  例え夕方には存在しなかったものでも、僕ならばその残滓を見逃さない自信がある。それは今でも断言できる。あの時は何も気配を感じさせなかった筈のものが、今まさにこの場所目掛けて近付いて来る。もしこれが夜毎八巻家の玄関戸を開く者であるとするなら、何の余韻も残さず消えてなくなるなんてことがあるだろうか? あるとするならそれはどんな場合だ? どんな相手だ? 何故僕は気が付かなかった? 「考えろ。考えろ」 「し、新開さん」  最初からおかしな話だった。八巻家の住所を訪れる直前、同番地内に足を踏み入れただけで僕は喉に痺れを感じていた。霊障の残滓を感知していた筈なのに、家に入った途端それが消えた。これではまるで……  ト  玄関に並んで座る僕たちの背後、家の奥へと続く廊下に微かな物音が聞こえた。例えるなら階段の手すりから飛んだ猫が着地したような小さな音だ。だがこの家で動物は飼われていないし、この時僕は全くもって想像もしていなかった異変に気が付いていた。  音は ――― いやその気配は、この家の真上からやって来たのだ。まるで天空から舞い降りて来た何かが、屋根や二階部分を貫通して真っすぐに僕たちの背後に降り立った、そんな風に。 「新開さん?」  桃花さんは震える声で僕を呼ぶ。 「目を閉じてください見てはいけません」 「ヒッ」  は、小さな足音を立てながら僕たちのいる玄関前まで歩いて来ると、そのまま土間に下りて淀みのない動きで解錠し、内側から扉を開けた。  午前二時、。  突然家の外からやって来た何かが、廊下を歩いて土間に下り、鍵を開けて扉を開けたのだ。その様子をじっと見ていた僕の身体と心は、目の前で起きた拍子抜けする程馬鹿々々しい現実を受け入れることが出来なかった。 「そんな……」  目の前に、色の白い一人の少女が立っている。長い髪、黒いタンクトップのワンピース。右手で八巻家の玄関扉のノブを掴み、白いスニーカーを履いた左足の踵が浮いている。僕が腰を浮かして立ち上がる素振りを見せれば、脱兎のごとく逃げ出してしまうにちが ――― 「ずっと君を探していたような気がするよ」  懐かしい記憶に眩暈を起こした僕の意識は、現実とは違った光景を見つめてぐらぐらと揺れていた。真夜中の廃墟。長い廊下。僕は大学時代の友人の妹を探してその場所に侵入した。そこで僕は目にしたものは。 「ずっと会いたかった。でも正直に言うと僕は今でも、君に対する恐怖心を克服出来ずにいる……」  桃花さんは動かない。  少女が振り返り、艶やかな髪の毛が遠慮がちに踊る。 「あんたも気を付けなよ……」  少女の声を聞いた途端、僕の両目から涙が溢れた。いつまでも封印出来なかったあの日の記憶が、まるで昨日の出来事のように呼び覚まされる。  ……隙を見せるとぱくっと食べられちゃうんだから。あ、信じてないって顔してる。いいよ、自分の目で見ておいで。きっとその頃あたしはもう、死んじゃってるかもしれないけどね。    少女はイタズラな笑みを浮かべて僕を見ていた。血のように赤い少女の唇は、涙で歪んだ僕の世界に向けてこう言い放った。 「ここには、本物の悪魔がいるから」  
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