28:血文字

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28:血文字

「近藤さんはこちらにおいでですかー!」  古井家の玄関先で声が上がり、出ると、相手は双蛇村交番勤務の槌岡巡査部長だった。眼鏡をかけた血色の良い男性で、六十代とのことだがまだまだお若く見えた。少なくとも近藤さんより十個も年上、といった風には見えなかった。 「ああ、近藤さん、良かった、今度はすぐに見つかった」 「人を根無し草みたいに言いなさんな。かつての上司が来てるんだ、印象が悪くなるじゃないか」 「いっつもフラフラしとるでしょーが」 「調査だよ調査、昨日もそう言ったじゃないか」  誰とでもすぐに言い合いが始まるのは、近藤さんらしさの表れでもある。だが今は、そんな懐かしさに浸っている暇さえなかった。 「小泉家でおかしなものがめっかったんだ」  と槌岡巡査部長は言う。「芳治さんが町の病院へ行ってる間に皆で家ん中の掃除をしていたんだが、風が出て来たもんで、戸板をずらして閉めた途端、皆してひっくり返ったんだわ」  信じられないことに、殺人事件のあった現場を村人たちが協力して掃除した、と言ったのだ。ベテランの警察官がだ。だが更に驚くべき証言が鎚岡巡査部長の口から飛び出した。  普段昼日中は格納されている雨戸を、今日になって引っ張り出したのだという。昨日は事件後の慌ただしさでそれどころではなく、今に至るまで全く気が付かなかった、とのことだった。 「何を見つけたんだ」  近藤さんが問うと、 「古い木で出来た雨戸なんだがね」  槌岡巡査部長は額の汗を拭いながら言う。「上から下まで、真っ赤な血で文字が書かれとった」 「何だって!?」  近藤さんの声がひっくり返る。「何と書かれてたんだ!」 「意味は分からん。だがカタカナで、こう書いてあったんだ」  ――― オダブツナンマイダ 「オ?」  眉根を寄せる近藤さんの背後で、ペタン、と古井さんが尻もちを着いた。        夜になり、飯綱瑞兆さんが村に戻って来た。諸々の挨拶を済ませ、僕たちは再び古井家の居間で食卓を囲んだ。  あれから僕と柊木さん、そして近藤さんと槌岡巡査部長は四人で小泉芳治さんのお宅へ向かい、実際に戸板に書かれていた血文字をこの目で確認した。確かに、縦横180センチ×100センチ程の大きな雨戸一面に、おそらく鳩子さんの血で書かれたであろう赤い文字が残されていた。 「オダブツナンマイダ」  それが鳩子さんを殺した犯人のメッセージか否か、僕たちには恐怖以外の何ものにも思えずただ息を呑むばかりだった。 「オダブツとは御陀仏、そのまま死を意味します」  と、沈黙を破って切り出したのは飯綱さんである。現場を目の当たりにして意気消沈してしまった僕たちの代わりに、事態を整理してくれようとしたのだろう。あるいは、沈鬱な空気に耐え兼ねたのかもしれなかった。 「ナンマイダは……」  言いかけた飯綱さんの言葉の先を、 「南無阿弥陀仏」  と柊木さんが続けた。 「そうです。阿弥陀様を拠り所にします、という意味になります」  飯綱さんが改めてそう説明した程度の知識は、僕も近藤さんも心得ていた。だが問題なのは、小泉鳩子さん殺害現場に血文字で書き殴られていたことの、その意味である。 「死んで無量(の光明=阿弥陀)に帰依します、ときたか」  近藤さんの呟きに全員が口を閉じた。僕たちが小泉家であの血文字を見てショックを受けた理由は、何もその猟奇的な行いや見た目のインパクトのせいだけではなかったのだ。おおよその人間は、血飛沫舞う現場に残された血文字を見れば犯人からの声明文、もしくは自己顕示だと思うだろう。だがその言葉の意味を理解してみれば、あるいは鳩子さん自身の遺書ではないかとも受け取れるのだ。鳩子さんは一度死んで蘇ったとされている。ならば、オダブツナンマイダが本人の望む意志だったのではないかと考えてしまうのも、当然無理からぬ話だった。むろん、殺され方が尋常ではない上、血文字も犯人による目眩ましと捉えることも出来るわけで、推論を口にするのも容易ではなかった。 「新開さんたちは、今日は、どうして?」  だからこの時の飯綱さんの問いは、個人的には有難かった。僕がこの村を訪れた理由は彼女にある。しかしこの場で正直に打ち明けて良いものか、先程の古井さんの反応を思い返し、何と無しに迷いが生じてしまっていた。 「新開さん、あまり時間が」  と、柊木さんが小声で僕の背中を押した。 「……そうですね」  頷き、踏み止まっていた一歩を前に進めようと決めた。「実は……」  僕は一般人である古井さんが同席する中、西田家で起きた不可解な現象について、飯綱さん、そして近藤さんに話して聞かせた。借命箱と勝手に名付けた新井原地区の人蔵家の箱を例に出し、類似性と相違点を挙げながら西田家の箱についての疑問と考察を述べて行った。  何故、骨箱が西田家に現れたのか。どこからやって来たのか。何故、捨てても戻って来るのか。その理由が武市くんにあるなら、骨箱が僕の見立て通り彼の所有物となってしまったのは何故なのか。そして骨箱が武市くんの所有物である間、箱の中に彼の頭が入っていることの意味は何か。何故箱が開くと、無関係な人間までもが死んでしまうのか。  僕はそこに、単なる考察以上の専門的な知識の補填が欲しかった。そこを飯綱瑞兆さんに埋めて欲しくてこの村を訪れたのだ。  柊木さんは、飯綱さんがまだ十代であると知って驚いたが、僕はこの若き渡し守の少女に惹かれていた。未来や可能性を感じるの人物であると思うのだ。霊性や人間的な経験値で言えば、まだ飯綱さんは柊木さんの足元にも及ばないのかもしれない。だが何となく、これは僕の直感だが、目には見えない場所から、また角度から、僕が何よりも欲している答えを差し出してくれるような、そんな意外性を期待してしまうのだ。ただし……飯綱さんが出会った頃の幻子と似ているからではないかと指摘されてしまうと、それを否定出来るだけの根拠は今の所思い浮かばないのだけれど。 「というわけで、何かこの件に関してお二人の知識と経験を拝借出来たらば、と思いまして」  言うと、近藤さんは腕組みしたまま「うーん」と唸った。  飯綱さんは視線を食卓の上に定めてじっと考え込んでいる様子。  古井さんは当初我関せずという顔でお茶を啜っていたが、途中からその視線が僕から動かなくなったのが気になっていた。 「何かご不明な点でも?」  問うと、 「へえ」  古井さんはもじもじと体を揺すって、「あのー、その箱を持っていたお宅の名前は、何と仰るんです?」  そう聞いて来た。 「すみません古井さん、名前はお教え出来ません」  先程と同じ答えを返すと、 「何故だい?」  と近藤さんが古井さんに尋ねた。「どうしてそんなに持ち主が気になる?」  すると、 「いやぁ、そりゃあだって」  答えようとした古井さんよりも早く、 「それはやはり大事なことですよ」  と飯綱さんが答えた。  わけを問うと、 「おそらくそれは……ちょっと、お借りして良いですか」  と言って飯綱さんが僕に両手を差し出した。骨箱を貸してくれ、と言っているのだ。 「すみません、それも出来ません」  断ると、 「では、新開さんがその骨箱を持って、顔よりも少し高い位置に掲げてもらえますか」  と、飯綱さんは自分も同じ格好を取りながら提案した。僕はそれでも躊躇った。僕の手にあるこの西田家の箱は、はっきり言って強力な呪物である。どんな影響が出るかも分からぬ内から、一般市民である古井さんの目に触れさせることに抵抗があったのだ。 「大丈夫ですよ」  と飯綱さんは微笑んだ。「私と古井さんの考えていることが同じなら、その箱を見るだけなら特別な霊障を喰らうことはありませんから」 「これが何なのか分かるんですか?」  驚いて問うと、 「それを、確認したいのです」  と飯綱さんは答えた。僕は意を決し、自分の背後に置いていた骨箱を左手で滑らせ、右手で膝の上に持ち上げた。丁度右隣りに座っていた柊木さんと僕の間を通る形になり、彼女の緊張が一瞬ぐっと高まったのが感じられた。 「頭上にというと、こんな具合ですか」  指定された通り頭よりも高い位置に骨箱を掲げた。  桐製の木箱である。  遺骨を納める骨壺が入った、木の箱だ。  飯綱さんと古井さんは揃って頭を下げ、下から骨箱の底面を覗き込んだ。 「ほりゃ!」  と古井さんが指さして声を上げた。「ある!」 「ええ。新開さん、そのままもう少し上にあげて、確認してみて下さい。あなたから見て丁度右下辺りに、黒っぽい汚れのようなものが見えますね?」 「はい。これは?」 「傷や掠れで見辛いですが、それは絡み合う双頭の蛇です。双蛇村の村印です」  おいおいおい、と近藤さんが驚きの声を上げた。無理もない。僕が東京の西田家から持って来た骨箱に、双蛇村の印が描かれているというのだ。つまりこの箱はそもそも双蛇村から出たものである。理由は定かではないが、この村から出たものが西田家に出現した、という事実が今この場で判明したわけだ。  僕は骨箱を再度膝の上に置いて、ひと呼吸置いた。 「萌の報告よりも早く答えが出ましたね」  と、柊木さんが言った。 「も、萌? 陣之内がどうかしたのか」  近藤さんの問いに僕は頷いて答える。 「可能性の話です。先程少しお話した新井原地区の人蔵家、その地下深くに眠るあの箱の話を、僕はこの骨箱が出現した家でも披露しました。その時ふと思ったんです。この箱がもし単なる呪詛の塊ではなく、人の意志がこもった呪物であるならば、その存在意義とは何なのか……と」 「それで?」 「人蔵家の箱は、人間の命を肉体とは別の場所に切り離して保護する……そういった意味合いの秘術だったわけです。そしてこの骨箱には、箱の所有者である人物の頭部が入っていました。この点だけを見ればなんとなく新井原地区と似ている……だけど僕は思ったんです、もう一つ、似ているものがあるな」 「何だ」  近藤さんはピンと来ない様子で眉間に皺を刻み、僕ではなくその場にいる全員の顔を見渡した。「何と似てるんだ?」 「……棺」  そう答えたのは、飯綱さんだった。僕は嬉しくなって、 「そうです」  と、思わず弾みかけた声を抑えつつ言った。「僕はまだ実際に見たわけではありませんが、この双蛇村では野辺送りを行った後、亡くなった人間が戻って来る。僕はこの骨箱に入っていた、箱の所有者の頭部を思い浮かべながらある可能性について考えたんです。もしかしたらこの箱の中身は、既に亡くなっている人物の遺体の一部なんじゃないか……と」  はあ、と近藤さんは勢いよく空気を吸い込んだ。 「じゃ、じゃあお前、新開お前、陣之内が担当してる案件の依頼者ってのがお前、この村出身の人間だって、新開お前そう言いたいのか!?」 「落ち着いて下さい近藤さん」  柊木さんがやんわりと諫める。 「だってお前、それじゃあお前……!」 「何度も言いますが、可能性の話です」  僕はなるべく冷静な振りをして話し続けた。「だから僕はこの村を訪れる前、陣之内さんに調査をお願いしたんです。彼女の依頼人一家が東京出身か否か、もし違うのであれば父方と母方、双方どこから来た人間たちなのか、そして……箱の所有者の身に、何か途轍もない不幸が起きていなかったか。それを調べてもらうようにと」  だが本当は冷静ではなかった。僕の持っているこの箱が、本当に双蛇村所縁の棺であり、野辺送りに使用された木箱であったなら、この中に入っていた小さな頭部の持ち主である西田武市くんは、すでに一度この世を去っていることになる。深夜二時、六歳児が起きているには酷な時間に訪問したこの僕に、あどけない笑顔を見せてくれた武市くんが本当は土葬村出身の動く死体であるだなんて、本当ならば僕が誰よりも否定したい可能性だった。真実が暴かれようとしている今、冷静でいられるわけがなかったのだ。 「飯綱瑞兆さん、でしたね」  と柊木さんが声をかけた。 「はい」 「ひとつお伺いしたいのですが、もし、仮にこの村に伝わっている正しい野辺送りの手順が分かってさえいれば、この土地でなくとも死者は戻ってきますか?」 「東京で、という意味ですか?」 「あるいは他所の土地という可能性もあります。新開さんが明かさぬ以上私の口から詳しいことは言えませんが、この箱の持ち主はまだ子どもです。母親が他所で子を産み、何かが起き、両親のどちらかが儀式を執り行ったということも考えられます」 「無理ですね」  と飯綱さんは即答した。「いえ、理論上は可能です。ただ」 「ただ?」 「足りないものが多すぎるんです」 「何ですか?」 「環境です」 「どういう意味でしょう」 「土壌というんでしょうか。まずこの村と山が内包する霊力を多分に必要とします。そもそも、儀式で人が甦るという事実が不変の方程式なら、霊力を持たない人間でも再現可能でないと破綻します」 「確かに」 「そういう意味では、東京でも北海道も、同じ儀式で同じ結果が出せる筈なんです。ただし、必要なのは儀式だけではないんです。これは、渡し守である飯綱一族だから言えることですが、人の死は単なる消失ではなく魂の移動です、そこにはやはり、エネルギーが必要なんです」 「そのエネルギーを補うのが、この双蛇村の土地、環境であると」 「そう思います。だから古井さんは、何度も名前を尋ねたんだと思いますよ。だって、もし新開さんの持って来たこの箱が双蛇村の棺なら、絶対この村で野辺送りが行われた筈なんです。だったら、古井さんが知らない人である筈がない……」  飯綱さんの隣で、古井さんが深く頷いた。僕はそれでも西田家の名前を言う気はなかったが、もはやそういう問題ではなくなっていた。ただ、ただ、ひたすらに嫌な予感がしていた。  
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