30:彼女らが見たもの 2

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30:彼女らが見たもの 2

 住友周さんはこの時も、背筋を伸ばして椅子に座ったまま窓の外を見ていた。初めて会った時と何も様子は違わない。ただ、彼女から発せられる空気が丸く、優しくなっていた。実の母親が泣いて喜ぶ程久し振りに放った言葉が、 「駄目」  という後ろ向きなフレーズであるにも関わらず、周さんの横顔はリラックスして見えたのだ。高品くんから受けた報告も、概ね僕と同じ意見だった。話をしてくれることはないけれど、日に日に緊張感が溶けていくのを肌で感じられるようになった、という。ただし、周さんの置かれた状況には一切の変化は見られない。口を閉じ、誰からの言葉にも反応せず、ただ座って窓の外を向いているだけである。 「こんにちは、新開水留です」  周さんの隣に膝を折って座った。「この度は、余計な心労を煩わせてしまい申し訳ありませんでした。周さんも嫌ですよね。とっかえひっかえ違う人間がやって来て、やれ何があった、どうすればいいんだなどとしつこく話を聞いてくる。分かってはいるんですが……何分万年人手不足でして」  打ち明ける間、高品くんは部屋の入り口に立って僕たちの様子を見守っていた。側に綾子さんはいないが、隣の部屋で聞き耳を立てている可能性は大いにあるだろう。 「先日までこちらにお邪魔していた山賀ですが。何か粗相をしでかしませんでしたか?」  敢えて質問をぶつけてみた。 「……」  答えないことは分かっていたが、ただ一人で話し続けていても埒が明かないと思った。 「煙草臭くなかったですか。あと、少々ガサツな一面もある人ですから、居心地悪くされなかったか心配していました」  もちろん本心ではない。周さんの反発心を誘うつもりだったのだ。 「……」 「山賀も、ここにこうして座って、周さんと一緒に窓の外を眺めていたそうですね。何を見たのかなぁ。……実は、高品から聞いているかもしれませんが、ここ数日山賀と連絡がつきません」 「……」  周さんの左顎に力が入った。 「仕事を放り出すような人間ではありませんが、何せ理由が分からず困っています。おそらく、この部屋であなたと並んで外を眺めていたのが最後です。お母さんはその日、外は晴れていた、と仰っていました」  周さんの左目が僕を見た。 「もしかして、その日、周さんと山賀はこの部屋からのではありませんか?」 「……」 「今週は一度大雨がありましたね。風が強かったり、どうにもすっきりしない曇り空が続いて、綺麗に晴れ上がったのは昨日くらいのものですよね。そうそう、昨日は娘の運動会だったんで助かりました。なので、晴れていた、というお母さんの証言にはもしかしたら記憶違いもあるんじゃないかなあと思いまして。出来れば周さんの方からも、何か情報をいただけると非常に助かるわけなんです。人間、普通に考えて、過ぎ去った日の天気なんてきっちり覚えてる方が稀ですから」 「……」 「どこ行ったのかなぁ、山賀さん」 「……」 「はあ……困りました」  ――― り。 「……」  繰り返しはしなかった。聞き返すこともしなかった。周さんは眼球だけで僕を見つめて、ぎこちなく唇を動かした。殆ど声は聞こえなかったが、あらかじめ彼女の口元を注視していたおかげで見逃さずに済んだ。 「くもり」  周さんは僕に、そう教えてくれたのだ。  僕は畳に両手をつき、無言で深々と頭を下げた。  山賀鉄庵が最後にこの部屋に訪れた日は、曇りだった。しかし綾子さんは「晴れていた」、と言ったのだ。  まだ、何が分かったということもない。綾子さんの証言が一部覆されたに過ぎない。表面的に分かりづらいだけで、少なくとも周さんには僕に対する敵意はないし、山賀さんに対しても同じだった。全てをその口から語ることは出来ないが、それでも僕に協力してくれた。ただ一つ疑問なのは、高品くんからの情報に狂いがなければ、周さんが「駄目」と発したのは山賀さんがいなくなった後のことだ。この部屋で並んで窓の外を見つめながら、山賀さんと一緒に発した言葉ではない。その事が、ここへ来てとても重要な意味を持っていると思えた。 「何を見たんだ、何が駄目なんだ」  そう問い詰めたい衝動に駆られた。顔を上げると、すでに周さんは視線を窓の外に戻していた。まだ少女らしいあどけなさを残した顎のラインにも白い頬にも、どこにも緊張感は見られなかった。何なら、場違いな程優しい微笑が浮かんでいるようも見える。 「……」  その瞬間、閃いた。  まさか、と思った。 「周さん」 「……」 「僕は思い違いをしていますか?」 「……」 「周さんと山賀はこの部屋から何かを見たわけじゃない」 「……」 「山賀はあなたに何かを言い残し、そして去っていったのではありませんか?」  もしそうなら辻褄が合うと思った。山賀鉄庵は初め、自らの意志で現場を離れた。その際、周さんに何かのメッセージを残したのではないか。だから、垂水団地26棟を支配していた淀んだ空気が緩和されたのではあるまいか。 「山賀は占い師です。彼女はあなたの未来を視た、違いますか?」 「……」 「山賀はあなたにそれを伝えた」  周さんは答えなかった。 「や……」  言いかけて、バシ、と自分の口を押えた。もし僕の予想通りなら、周さんの雰囲気が柔らかく変化したことへの理由にはなるだろう。だが、山賀さんが連絡を断っているという点に関して言えば楽観視できない。もしかしたら山賀さんは、すぐにでもこの部屋に戻って来るつもりだったかもしれないのだ。例えば、 「少しばかりこの家を離れるよ。なぁに心配いらない、あなたの将来は明るいよ周さん。今からちょっくら行って、あなたを苦しめる問題を取り除いて来ようじゃないか。ここで座って待っててくれ、帰ってきたらその時は、下の路地から手でも振って見せよう」  そう言ってこの部屋を出たのかもしれない。僕たちが思う以上に周さんと山賀さんは打ち解けており、その結果周さんの強張った雰囲気が解きほぐされたのだとしたら?  だが仮にそうだとしても、今もって居場所の分からない山賀鉄庵の安否については別問題だ。 「やはり山賀さんの失踪は只事じゃない」  僕は言いかけた自分の口を塞いで立ち上がった。「周さん、今日はありがとうございました。必ずまた来ます」  帰り際、僕は高品くんに、垂水団地から決して離れないようにと釘を刺した。チョウジの他の職員たちの現場には、天正堂から早急に人を送る、だから高品くんは絶対に周さんから目を離してはいけない……。 「何か分かったんなら教えてください!」  高品くんは僕の腕を掴んで聞いた。かなり強い力だった。 「まだはっきりとしたことは言えない」  僕はそう答えた。「でも感じるんだ。住友周さんにとって一番厄介な問題は、彼女が話さないことなんかじゃない」 「じゃあ……?」 「おそらくなんだ。そんな気がする」 「何ですかそれ。やめて下さいよ、新開さんのそういうのって絶対当たる奴じゃないですか!」  そうならないことを祈るよ、そう言って微笑みかけると、高品くんは肩を落として泣きそうな顔で空を仰いだ。  蟹江彩子が襲撃された、との報告を受けて現場に急行した。場所は蟹江さんの自宅マンションの真ん前。その日も彼女は部屋にこもり、自身が手掛けるアパレルブランドの新作発表に向けて、一日中デザイン作成に没頭していたそうだ。  動きがあったのは午後八時、蟹江さんが自宅マンション前の自販機に飲み物を買いに下りて来た時だった。僕や信夫がいない間、蟹江彩子の警護に当たっていたのは、上杉奉禅(うえすぎほうぜん)という名の四十代の男性である。天正堂に属する身であるが、少しばかり特殊な経歴を持っている為、基本的には蟹江さんの前に直接姿を現すことがない。そのことは蟹江さんも知っており、所用でマンションを離れる時には専用ダイヤルへ電話をかけて事前にやりとりを交わしていた。ただ、この日は自宅マンション前の路上に設置された自販機まで下りただけで、上杉さんはそのことを知らされていなかった。  上杉さんはプロだ。例え事前通知がなくとも、マンションから出て来る人物があれば気がつかないわけがない。実際この時も上杉さんは、突然オートロックの自動ドアを開けて出て来た蟹江さんの姿に驚きながらも、決して目を離していたわけではなかった。ただし、上杉さんが張り込んでいた場所は、マンション前の道路を挟んだ向かい側にある空き家の二階だった。気が付いた時にはすでに、自販機前に立って飲み物を買う蟹江さんに近寄る不審な影がすぐそこまで迫っていたという。  上杉さんは二階の窓を開けて飛び降りた。物音に驚き蟹江さんが驚いて振り返った時には、影は彼女の真後ろに立っていたそうだ。 「伏せろォッ!」  二階の窓から家の前の路地に着地し、上杉さんは叫んだ。  蟹江さんがその通りに動いたかどうかは確認出来なかった。だが上杉さんは叫ぶと同時に飛翔し、自販機前に立っていた真黒い影に突進した。バゴンと激しい音がして、右肘を掻い潜るようにして尻もちをついている蟹江さんが目に入った。  影は消えていた。だが、気配は残っていたという。上杉さんは蟹江さんの腕を掴んで立たせ、ほとんど引き摺りながらマンションエントランスへと戻った。 「中にいろ」  言われた声でようやく、蟹江さんは突然現れた男が上杉奉禅だと分かった様子だった。 「い、一体何が………」  蟹江さんはそこで言葉を切った。彼女はおそらくこの時、上杉さんが左足を引き摺って歩いていることに気付いたのだ。  上杉奉禅は、かつて請負殺人を生業とする団体に属していた、元殺し屋である。任務中無関係な人間を助けた時に受けた傷が元で左足の感覚を失い、流れ流れて天正堂へと辿り着いた異色の経歴の持ち主である。その為、天正堂内では要人警護を任務の主軸としながら、これまでほとんど人前に姿を曝すことがなかった。実質的に片足、というだけで敵方の目には好機と映る。無益な行動を招かぬ為にも、上杉さんはあえて依頼人から距離を取るのだという。  僕が駆けつけるまで、上杉さんは自身が凹ませた自販機の前で仁王立ちしていた。影の気配は僕が到着するギリギリまで現場に留まっていたが、上杉さんが放つ殺気に気圧されたのか、それ以上近付いてはこなかったそうだ。  だが、おかしな話も聞いた。 「新開。相手はこの世の物ではないかもしれんぞ。いくら離れて見ていたとは言え、俺のいた場所から依頼人のいた自販機まではその気になれば二秒かからない。だが俺は敵を捕捉し損ねた。タイミングは申し分なかったが、首を落としたと思った瞬間、消えたんだ」  蟹江彩子が僕の目の前で謎の男に襲われてから、既に一週間以上が経過している。退院後、チョウジ監視の下自宅マンションにこもり切りだったこともあり、この間再び襲撃を受けることはなかった。それは信夫が負傷し、警護役が上杉さんになってからも同じことだった。 「何故このタイミングなんだ」  そう思った。「上杉さん、相手の姿を見ましたか」 「身長は、そうだな、蟹江彩子と同じくらいだった。細身で、全身黒ずくめだった」 「顔は見ましたか」 「見ていない。背後から襲い掛かった」 「突如目の前から消えたんですか」 「そうだ」  そして気配だけがその場に漂い続けていた。  ――― どっちだ。  導き出される答えは二つある。  謎の男の再来か、もしくは京町泰人……つまり蟹江彩子のドッペルゲンガーだ。  僕はマンションエントランスの隅で震えて蹲る蟹江さんの側にしゃがみ込んだ。 「蟹江さん。君の後ろに立った者の顔を見ましたか?」  声をかけた時、彼女がいつも着用しているマスクがずれて、鼻先が覗いていた。ウィッグは付けておらず、黒のニット帽を目深に被っていた。だが、相変わらず瞳はブルーだった。 「新開さん」 「蟹……え」  彼女の変り果てた姿に、僕は我が目を疑った。  確かに、僕が蟹江さんの素顔をまともに見たのは二回しかない。初めて出会ったファーストフードチェーンで、彼女がマスクを外した時。そして入院先のベッドで、マスクとウィッグを外し、京町泰人と同じ顔を見せてくれた時。そのどちらも一週間前だ。だがたった一週間で、人間の顔はここまで変わるものだろうか。 「どうして」  皺の多い顔だった。水分がない。瞼の皮が重たげに垂れ、目尻も下がっていた。そしてマスクをしていても分かる程に、蟹江さんは痩せこけていた。 「この間はごめんなさい」  と彼女は言う。「どうしても急ぎの仕事があって、せっかく部屋まで来てもらったのに、会えなくて」 「そ、そんなこといい、そんなことどうでもいいよ! どうしたんだ、何があったんだ! どうしてこんな……」 「私」 「蟹江さん」 「どうしても、仕上げておきたいデザインがあったの。スーツ。初めてスーツをデザインしたんだ」 「いつからだ? いつから体に異変が起きてたんだ!?」 「……退院した日から」 「そんな!夜中にファミレスで会った時には変わった様子なんかなかったじゃないか! 元気そうだったじゃないか!」  蟹江さんは辛そうに溜息を吐き出し、壁に背を預けた。 「……はぁ。疲れた」 「病院へ戻ろう、絶対に何とかするから!」 「スーツ」 「え!? 今は仕事の話なんか……ッ」 「新開さんの為に描いたの」 「……ええ?」 「スーツ、デザインしたの。それ、着て」 「どうして。どうして僕なんかのために」 「顔の見えない誰かの為じゃなくて、私の服を着てくれる人の顔を想像しながら描いてみたかった、それだけ」 「でも、でも」 「新開さん。ありがとう」 「僕はまだ礼を言われるようなことは何もしていない!」 「ううん、ありがとう。アイス美味しかった」 「奢ったのは信夫だ!」 「それでも」 「蟹江さん」 「信じてくれて嬉しかった。あとのこと、よろしくお願いします」 「何だよあとのことって、おい、やめてくれよ、上杉さん! 上杉さんッ!」  僕はこの時もまだエントランス前で陣取っていた上杉奉禅を呼び寄せ、救急車を大至急手配してもらった。だが、救急救命士が担架を持って駆け込んで来た時には既に、蟹江彩子さんは僕の腕の中で帰らぬ人となっていた。  K病院の九里先生から聞いた話によれば、蟹江さんの死因は、 「」  そう判断されたという。
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