32:現る 2

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32:現る 2

 青南さんについてはもう少し説明が必要かもしれない。  霊能者・曽我部青南(そがべせいなん)の血筋は、ある特殊な力をもった一族として僕らの業界ではかなり有名な家系である。なにせ曽我部家は、寿命や事故によって命の終わりを迎えても魂が自然消滅しない、恐らくこの日本でも唯一と言っていい恐るべき霊能力一家なのだ。  かつて日本には、不死者である黒井姉妹を頂点とした大霊能力家系、黒井一族が存在していた。血筋を受け継いだ子孫たち(秋月六花、残間京、新開水留)が現在も生き残ってはいるものの、黒井を名乗る家は七永一人を除いて絶えたものとされている。だが曽我部家は、その黒井一族からどこかの段階で派生して生き延びた分派ではないか、というのが僕たちの認識だった。  今から約二十年前、曽我部家で亡くなった実夫という男性の魂が、成仏出来ずに家の中に閉じ込められてしまうという痛ましい事件が起きた。実夫さんの魂は、生前の記憶と強い未練からくる思念によって現世へと干渉し始め、やがてこの世へ舞い戻って来ようとしていた。そんな曽我部家において、悪霊と化した実夫さんの魂を冥府に押し留め続けたのが何を隠そう、曽我部与一・青南兄妹だった。たった二人の幼き霊能者が、十五年近い歳月、悪霊と戦い続けたという恐るべき事実がある。髪の毛は白く変色し、やがて二人は近所でも有名な吸血兄妹として後ろ指をさされるまでに至った。今はそれぞれが別の生き方を選んではいるものの、彼らがいなければ、実夫さんはもっと早くに現実世界に亀裂を生じさせたことだろう。  だが最も評価されるべきなのは、兄妹の持つ霊能者としての力やその器ではない、と僕は思うのだ。何故なら彼らは、誰に頼まれるでもなく自らの意志で曽我部の家に引きこもり、実夫さんが戻って来ようとする超常的な力を阻み続けていたのである。この自己犠牲とも呼ぶべき気高さを無視してはいけない。 「自分に出来ることがあったら言ってくれ」  北城くんは青南さんの隣に胡坐をかいて座り、少しずつ近付いて来るという、尋ねて来る女の襲来に備えた。 「別に、今のところは何もありませんわ」  青南さんは答え、ちらりと背後に視線を向けた。玄関扉の前で陣取る二人の後ろでは、空のグラス片手に矢沢誠二さんが右往左往していたそうだ。BGMは止めてくれた。だが却って、忙しなく歩き回る矢沢さんの足音が煩わしく聞こえた。北城くんは迷った。青南さんを仕事に専念させるべく矢沢さんを注意すべきか、今にも文句の一つでも言いそうな青南さんを止める役に回るべきか。しかし、 「はあ」  青南さんは小さく溜息をついただけで、何も言わずに玄関扉へと向き直った。北城くんが意外に思っていると、 「それで、私は何をすればよろしいのかしら」  と青南さんは首を傾げたそうだ。 「な、何って?」 「そもそも例の女とやらは何をしにこの家にやってくるとお思いですの?」 「いや、それはまだ分からないよ。ただ」  北城くんは声を潜める。「矢沢さんの証言では夜中にこの扉のドアノブをガチャガチャやるそうだし、入って来ようとしてるのは間違いないよねえ」 「それで賊はその後、どうするつもりなのかしら?」 「どうって」 「明確な殺意でもあるのかしら?」 「そんなこと、とっ捕まえてみないことには何とも言えないよね」 「なら北城さんがこの扉の前に走り出て行って、賊の女を捕まえてくださるのかしら?」  青南さんが問うと、二人の背後で「ひあ」と矢沢さんが悲鳴を上げた。部屋の前まで女がやって来る光景を想像し、怯えたと思われる。 「それとも」  と青南さんは続けた。「この家に近付けないようにするのが私の使命ということでよろしいのかしら」 「……」  北城くんは矢沢さんの怯えようを目で追いながら、青南さんの言葉の意味を理解して頷いた。青南さんは先程から、少しも怒ってなどいなかったのだ。どちらかと言えば、被害者である矢沢さんの気落ちに寄り添う形で仕事を進めようとしている。北城くんは感心した。だが、疑問だった。 「そんなこと出来るの?」  青南さんの目がギラリと光った。 「もうやってますから」  こわ、と北城くんは震えあがった。  だが、その時だった。 「……」  何かに気付いた様子で、青南さんが右下を向いた、という。彼女の目は廊下を見てるわけではなかった。おそらくその視線の先に、例の尋ねてくる女がいるのだ。 「……どうかしたかい」  北城くんが問うと、 「新開さんに連絡を」  青南さんはそう答えたそうだ。 「む、え、いや、今は無理だよ。何で?」 「恐ろしい。尋ねて来る女とやらが何者なのか分かりませんが、この状態からでも上がって来ようとしています」  青南さんは言い、やや辛そうにゆっくりと瞼を閉じ、首を回した。  ツー、と青南さんの右側の鼻腔から血が垂れた。 「せ……ッ!」 「大きい声を出さないでくださいませ。ああ……厄介だ、厄介だ」 「どうしたんだ、君程の人が」 「押し留めてはおりますわ。今も、おそらく四階から五階へ続く階段の途中で足踏みをさせています。ただ、何でしょうか、あれ」 「何って」 「もし、北城さんが仰ったように人ではないなら、異常に高い霊性を保ったままこの世に顕現した至上の化け物とでも言いましょうか。抑え込んでもゆっくりゆっくり上がって来ますものねえ」  やめてくれ、何とかしてくれ、二人の背後で矢沢さんが叫ぶ。 「君でもどうにもならないのか」  上擦りそうになる声を低く潰して、北城くんは問うた。 「そんなことを言っているのではありませんわ。あら、私としたことがハンカチを忘れてしまいました」 「自分のを使ってくれ」  急いで差し出した北城くんの手の横に、ほぼ同時に差し出された矢沢さんの持つハンドタオルが並んでいた。青南さんはハンドタオルを使って鼻血を拭い、 「ですから、新開さんに連絡をと、さっきからそう言っているではありませんか」  と北城くんへ再度告げた。 「だから何故だ」  北城くんが聞いた瞬間、 「アアアアン!」  青南さんが腹の底から声を出した。青南さんの細い体の内側から尋常ではない量の霊力が膨らみ、側にいた北城くんの身体を壁際まで押しやった。 「……人でないならそれでよし」  青南さんは言う。「だがあれがもしも人ならば、相手の受ける影響も不快感程度ではすみませんわ。この家に近付けるなと仰るならそういたしましょう。可能です。ですが早い所新開さんの判断を仰いだ方がよろしくてよ。このままでは私、あの女の肉体を押し潰してしまいますわ」 「おし……」  この段階で急遽連絡を貰った僕は、正直、どう答えたものか悩んだ。  最も優先されるべきは矢沢誠二さんの安全と、彼の望む解決へと導くことだ。だが捉えようとすれば逃げてしまう女にまともな交渉が通じる筈もなく、力で足止めすることも出来ないのであれば選択肢は限りなく少ない。そして相手が単なるストーカー以上の危険性と異常性を持ち合わせていることは、改めて言うべくもない。  警察が毎夜、周辺地域の警戒に当たっている。目当ての矢沢さん宅にも調査員がいる。それが分かっていても、女はやって来るのだ。二度と矢沢誠二さんに近付かないでくれ、そう言葉で要求したところで女が受け入れる可能性はゼロに等しい。目的も分からず、話が通じず、それでも頑なに恐ろしい執念深さで距離を詰めて来る。全く意味が分からない。だが分からないからこそ、北城くんと青南さんはその意味を見い出せと僕に答えを迫ったのだ。だがこの時の僕は、他人の仕事に口出しすることに激しい嫌悪感を抱いていた。依頼人を死に至らしめた僕に何を言う資格もあるわけがないと、自分の全てに自信を失っていたからだ。 「もし相手が人ならば、殺してしまうわけにはいきません」  警察官である北城くんは当然のこととしてそう言う。「それに曽我部の話では、この世ならざる者が相手だという可能性は、正直五分五分だそうです。どうしましょう新開さん。自分たちはどうすれば」  北城くんの問いに対し、僕は考えに考えた。信夫に聞いてくれ。僕に答えを求めないでくれ。そうも思った。だが歯を食い縛って弱音を飲み込み、そして小さな声でこう答えた。 「……何とか矢沢さんを連れて撤退してくれ。その部屋を守ろうとすればするほど危険は高まるばかりだろう。まずは女の目的を知るべきだ。矢沢さんが部屋にいなくても女が現れるというなら、理由は他にある」  北城くんは即座に行動し、矢沢さんを連れてサンシャインパレスを離れた。しかし青南さんは自ら、 「残りますわ」  と言い、今でもひとりであの部屋の廊下にいる。  僕がドッペルゲンガー事件の調査を続けている間、チョウジの面々もそれぞれが各現場で目の前の事件に全力で向き合う日々が続いた。  僕は唯一残された手掛かりである萎びた肉片を元に、呪術を用いて謎の男の正体を突き止めようとしていた。九里先生の検査結果では正体不明の人肉とされたが、仕事用に借りているマンションのエレベーターで浮遊霊に反応したことといい、幻子が呪物と見抜いたことといい、かなり強力な呪詛を孕んでいるのは間違いなかった。人は、共食いをしたからといって絶命したりなどしない。理由は他にあるはずだった。現在はその効力を失ったように萎れてしまったが、蟹江彩子を死に至らしめたことで「呪いが成った」のなら、この肉片に何らかの情報=呪いの残滓が残されている可能性はかなり高いと言えた。  予定時刻にエントランスからの呼び出し音が鳴り、出ると、約束していた人物が部屋の前に立っているのがインターホンのモニター上に映し出された。 「どうぞ。部屋の鍵は開いてます」  やがて玄関の扉が開き、廊下に出た僕の顔を見てその人物は軽く右手を挙げた。 「すみません急に呼び出して」 「かまわん」  僕が招いたのは兎谷虹鱒だった。オーバーサイズのヤッケをポンチョのように被り、右手には竿を持っている。頭には目深にサファリハットを被っているためほとんど表情は読めないが、少なくとも僕の依頼人が死んだことは知っているはずだった。しかし彼の態度も口調もいつも通りで、憐れみや同情は感じられなかった。 「これ、持って入っていいか」  右手の竿を掲げて言う。 「どうぞどうぞ、もちろんです」 「柊木の現場に戻らにゃならん、手短にすませるぞ」 「……現場というと?」  兎谷さんが担当した大鎌崇宣教の一季小神殿(いっきしょうしんでん)には、失踪中である相鉄氏の魂は現れなかったはずだ。兎谷さんはその結果、相鉄さんが亡くなった場所がここではないか、あるいはそもそも死んでいない、との答えを出して趣味の釣りに向かったはずだった。 「めぼしい所を全部回ってるんだ」  こともなげに兎谷さんは言う。「柊木がアタリをつけてな、そこを全部回って、の選択肢にチェックを入れて回ってるんだ。今ん所、全部外れ。死んでないことを証明して回ってるようなもんだ」 「は、はあ」 「その間釣りも出来ないんだ。だから早いところここを済ませて柊木の現場に戻りたい」 「わ、わかりました」  釣りに戻るというのは趣味の釣りじゃなく、仕事の釣りの方だった。意外だった。兎谷虹鱒が天正堂における序列(階位)を持っていないのは、彼自身の仕事に対する熱心さが足りないからだと聞いていた。誰もが認める唯一無二の霊力を用いて、本来ならあらゆる霊障現場に融通の利く人材の筈が、兎谷さんにとってはすべてに優先される事柄が趣味の釣りであったのだから致し方ない、と。だが今はその趣味を断ってまで、大鎌相鉄氏の魂を探し歩いているのだという。何度も言うが、意外である。そういうことが出来る人だとは、正直思っていなかったのだ。 「そいでその、例の……」  そこまで言った兎谷さんの身体が唐突に背後を振り返った。 「はい……何ですか?」 「……いや」  いきなりではあったが、動きとしてはゆっくりとしていた。顔だけ振り向かせるのではなく、姿勢はそのまま体全体が後ろを向いた。自立式のフィギュアを手でくるりと回転させたような不自然な動きだった。 「新開よ」 「はい」 「お前つい最近この部屋に人をあげたか?」 「……いえ」  怖い、と思った。 「本当に? 嫁さんが掃除に来てるとか?」 「いえ、この部屋には入れません。今日みたいに影響力の強い物を持ち込んだりもしますから、家族は近寄らせません」 「そうか」 「何ですか、怖いこと言わないでくださいよ。泥棒に侵入されたとでも言うんですか?」 「……いや」  兎谷さんは僕の方へ向き直り、ならいいんだ、と言って唇に微かな笑みを浮かべた、ように見えた。 「それで、電話で言ってた肉ってのは何だ。どういう話だ?」 「ああ、ええ」  僕は兎谷さんを書斎に招き入れ、クーラーボックスを開けて中身を見せた。謎の男が蟹江彩子の口にねじ込んだ、人肉の欠片である。 「こんなものからでも、この肉体の持ち主が死んでいればその魂を辿れたりはしませんか」 「……」  ラップに包まれた肉片を手にとり、兎谷さんは黙った。相変わらず表情に変化はない。だがサファリハットの広いツバの下から覗く目は息を呑む程真剣そのものだった。 「ここで死んだわけじゃないんだな?」 「そうです。現場でない以上魂を釣り上げられないことは百も承知です。ですが僕の抱える案件で、証拠、ヒント、切っ掛けになり得るのはこれしかありません」 「……本当に人の肉らしいな。電話で聞いた時は嘘だと思ってたが、こうして触ってるだけで分かる」 「知人の医師に検査をお願いしました。間違いないと思います」 「生きてるかもしれないのか? この肉片の持ち主」 「どうでしょう。今は拳半分もない小さな塊ですが、最初に見た時はもっと大きかったんです。それこそ大人の握り拳大のサイズでしたから、そんな大きな組織を人体から取り去って無事でいられるとも思えませんが」 「盲腸かもしれないじゃないか」 「い、や……」  そうかもしれない。だが普通そんな発想は思い浮かばないだろう。偶然虫垂炎になって盲腸を切除した後、そいつを女の口に捻じ込む人間がこの世に存在した、とでもいうのだろうか? いや、そんなことを言い出したら他人の口に人肉を捻じ込む輩が存在していること自体おかしいのだが。 「冗談だ」  言われ、 「は、はあ……」  もはやどう返事してよいかも分からなかった。 「無理だな」  と兎谷さんは答えた。「この肉片から持ち主の魂は釣れん」 「生きてるか死んでるか、それも分かりませんか」 「分からん」 「そうですか」 「ただ……」  ただ?  ただ、なんだろう。  兎谷さんは黙ったまま手の平の肉片を見つめた後、 「こいつは……驚いたな」  ボソリと呟いた。
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