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33:暗躍者たち
兎谷さんは黙ったまま手の平の肉片を見つめた後、
「こいつは……驚いたな」
ボソリと呟いた。
「な、何ですか!?」
意味深な言葉に僕の気持ちは逸り、心臓が早鐘を打った。兎谷さんは空いた手で口を押え、ううん、と唸り声を上げる。
「最近色んな現場を回って大鎌相鉄の魂を探して歩いた。その中でな、気付いたんだ」
「何をです?」
「当たり、外れ、大外れ」
「……何です?」
「当たりはむろん目的とする人物の魂だ。大外れは魂そのものと出会わない場合だ」
「普通の外れとはどう違うんですか?」
「外れってのは、目的の人物とは違った死者の魂と出会うことだ。俺がこう竿を持って釣り糸を垂らすとな、その場で死んだ色んな人間の魂が寄ってくる。針にはかからんから釣り上げることはないんだが、竿を持った手の指先にそいつらの思念やなんかがツンツンと当たってくるのが感じられるんだ」
「す……」
すごい話をさらりと言ってのけられ、相槌すら打てなかった。
「今こうして、この肉片を手にしているとな、何となしそれに近い感覚が手の平から伝わってくる。何かを訴えかけてくるんだ。嫌な気持ちじゃない。新開」
「はい」
「お前、俺に電話してきた時、この肉片が何らかの呪物だと言っていたな。だが、俺にはそんな風には感じられないぞ」
「で、でも幻子が」
「三神か? あいつがお前に何を言ったか知らんが、少なくとも今は違う。どういう経緯でこいつがお前の手元にあるのか知らんが、俺が今感じているこの者の思いは、そうだなぁ、強いて言うなら似ている感情は……ううーん」
兎谷さんはもう一度唸り、そして静かにこう告げた。
「感謝だ」
と。
後に、柊木さんから聞いた話だ。
秋雨に濡れそぼつ街を北に向かって歩いていた時だった。高架下を通りかかった折、雨を避けるように橋桁の方を向いて蹲る人物が目についた。時刻は早朝で、気温が下がってきたせいだろう。上着の襟を立てたその男性の背中が寒そうに震えていた、という。
「こんな所で雨宿りだろうか」
柊木さんは横目に見ながら、持っていた傘を差し出そうかと束の間思案した。この時彼女が向かっていたのはそこから歩いて一分もかからぬJR駅で、走って向かえば大して濡れることもあるまいと算段がついていたそうだ。別に傘を貸してやる程の義理もない、通りがかりの赤の他人である。しかし駅構内に入ってしまえばびしょびしょの傘は却って無用となり、返して欲しいような値の張るモノでもなかった。
「あの……」
柊木さんが背中に声をかけた。と、ほぼ同時に男が振り返ってこちらを向いた。その勢いに驚いて柊木さんは後退る。しかし男の方も同様に、
「うお」
と声を上げて後ろへ下がろうとした。だが男の背後は高架の橋桁である。それ以上は後退できず、壁に密着した背中がやや上方に持ちあがるだけだった。
「……あ」
と柊木さんが発した。すると男も気が付いた様子で、
「お前」
と苦々しい顔で唇を歪めたそうだ。
先日、F区にある大鎌崇宣教本部の一季小神殿内にて出会った、スーツ姿の不審人物だったという。髪の毛を短く刈り上げたスーツ姿の男性で、細面で塩顔の男前。だがひと目見た瞬間、柊木さんはその男が堅気ではないと直感したというから、要注意な曲者である。
「あなた……その傷」
見ると男は、腹部に血を滲ませていた。左脇腹を押さえる手の下からじくじくと赤黒い染みが広がり、グレーのYシャツに大きな円が出来上がっていた。見れば顔にも打撲による裂傷と青あざが浮かび、口端からも血が出ている。
「お前。ち、クソ、なんでこんな所で」
男は言い、脱力して地べたに座った。「……煙草持ってるか」
「持っててもあげません。持ってませんし」
「くそ」
「探してたんですよ、あなたのこと」
柊木さんがそう言うも男は無視し、自分の上着の懐から煙草を取り出して銜えた。
「火あるか?」
「あっても貸しません」
「くそ」
男は自分の上着の懐からジッポライターを取り出して煙草に火を点けた。煙草のフィルターを挟み持つ二本の指が、震えていたという。
意外だな……柊木さんはそう思ったそうだ。その男の住む世界が見た目通りの悪寄りな業界だとしても、最初に出会った時の印象ではクレバーな男であるように見えた。それなりの場数を経験して来た男特有のキナ臭さもあったし、どちらかと言えばやられる側よりもやる側の人間だと思っていた。だが今はどうだ。立ち上がる事も出来ぬ様子で、紫煙を吐き出す唇さえ震えている。
「救急車、呼びましょうか?」
「いらねえよ。分かんだろう」
「この間会った時はもう少しましな口の利き方が出来ていたというのに、全く余裕がありませんね」
柊木さんの辛辣な物言いに、男は鼻を鳴らして笑ったそうだ。
「この俺一匹探し回ってようやくこうして見つけたわけかい。えらく時間がかかったな」
「こちらも色々あるんですよ。それに、あなたを探していたのはもののついでで、今だってこれ、単なる偶然ですから」
「最初っから口だけは達者だな。今日はピストル忘れず持って来たのかよ」
「被害届出しますか? 誰に何をされたのか知りませんけど」
「出すわけねえだろ、くそが」
「一応聞いてるだけです、見捨てると寝覚め悪そうなんで」
「っははー!」
「無理して格好つけてると失血死しますよ、今ここで」
「……」
「救急車呼びますね」
「大鎌相鉄の情報を何か掴んでるか?」
男の言葉に、柊木さんは思わず携帯電話を落っことしそうになったそうだ。それぐらい驚いた。まさか目の前の男が自ら情報を寄越すなど思いも寄らなかったのだ。
「まあ、掴んでないことはないですよ。丁度今から、行こうとしてたんで」
両手の指先をピストルに変え、お道化たジェスチャーで駅の方角を指さすと、男は怪訝な表情を浮かべて、
「……どこに?」
と聞いた。
「北に」
「へ?」
「北に」
同じ答えを繰り返すと、男は何度目かの「くそが」を吐いて煙草を投げ捨てた。煙草は柊木さんの足元に落ち、先端の火種が弾け飛んだ。
「真面目に答えろよ。何か分かったのかよ」
「分かった所であなたには教えませんよ」
「おい」
「何か知ってるなら早く言ってくださいよ。電車の時間に遅れるじゃないですか」
「……」
男は目を見開いて柊木さんを睨み、その気力を利用するかのようにずりずりと、背中を壁に押し当てたまま立ち上がった。男の脇腹からボタボタと血が垂れた。
「誰にも言わないと誓えるか」
男が問う。
柊木さんは考え、
「誰にもって、誰に」
と聞き返した。冗談ではなく本気で問うたそうだ。柊木さんは刑事でも公安調査員でもない。報告の義務があるとすれば僕か土井代表ということになるが、僕らは二人とも彼女に何かを要求したりなどしない。だから、柊木さんは考えたのだ。だがしかし、当然男ははぐらかされたと感じ、
「お前デカなんだろうが」
と怒鳴った。「俺は今からお前を利用する。そん代わりお前は俺から情報を得る。だがそれは俺とお前だけの取引だ。他の捜査員には絶対ばらさないと誓え!」
「……いいですよ」
柊木さんが答えると、
「約束を違えた時はお前の命貰うぞ?」
男は凄んだ。柊木さんは笑ってしまいそうになって、一瞬顔を横に向けた。そしてまた男に向き直り、
「ヤクザみたいな格好して、吐く台詞は随分と生真面目なんですね」
と言った後、やっぱり少しだけ笑ったそうだ。
「くそが」
だがその後男が話し始めた内容を聞いた時、柊木さんの顔からは一切の笑みや余裕が消え去った。
「大鎌相鉄は見つからないぞ」
と男は言う。
「何故?」
「失踪してるわけじゃない……拉致られたんだ」
「……は」
突然、柊木さんの想像を超えた話になった。この時までには柊木さんもこの僕も、相鉄さんが生きているという前提で調査を進めていた。世間的には失踪扱いになってはいるが、何か理由があって本部に引きこもっているのではないか、と考えていたのだ。大鎌大河と直接話をした時の印象と、その内容が根拠となっていた。兎谷さんが相鉄さんの魂を釣れなかったことも含め、教団が事態をそこまで重く見ていない、あるいは相鉄さんと教団が同じ意志の下で動いている、という可能性にまで視野を広げて見ていたのだ。だが、
「拉致?」
そんな話は考えもしなかった。「だ、誰に? あたなをそんな目に合わせた連中……ということ?」
「お前が第5保育園で見た奴らは大河が雇った用心棒だ。だが用心棒であると同時に、世間への誤魔化しの意味でもある」
「どうして?」
「警察の介入を避けたいからに決まってる。地元住民の間に目撃証言の噂を流したのも俺たちだ。大鎌相鉄が拉致られたとバレると問答無用で警察が動くだろう。なら、最初から年喰ったじじいがボケて失踪したってことにしといた方が何かと都合が良かったのさ。お前は俺らの流したデマに釣られてのこのことやって来たってわけだ、頼みもしないのに」
「……」
柊木さんは憤りを感じた。だが決して怒りを面には出さなかった。彼女はすでに公安の調査員ではなかったが、拝み屋としての任務中、ニセの情報に踊らされてしまったことは間違いない。だがそれでも、柊木さんは割り切ることにした。大鎌崇宣教からは失踪届や捜索願は出ていない。そして現時点ではおそらく相鉄さんも死んでいない。その事が分かったのだから思考を切り替えるべきだと、即座に気持ちを立て直したのだという。……僕には真似できない芸当である。
「あなたがそんな目にあってるということは、大鎌相鉄の居場所を見つけて乗り込んだか、見つけたことが相手にばれてしまったか……ということですね?」
柊木さんが問うと、
「恐ろしい連中だぞ」
と言って男は笑った。
笑った唇の端から血の糸が伸び、足元の血溜まりに落ちた。
「相手の名前は? 組織? 個人?」
「……」
「あなたの名前は?」
「……ユキオ。ゆきおとこの、雪男」
「男の人を下の名前で呼ぶ習慣はないもので」
「久我」
「クガさんね。で、あなたを瀕死の重傷を負わせた連中の名前は?」
「知らん」
「はぁ」
柊木さんは溜息をつき、傘を開いて駅へと歩き出した。
――― 分かんねえんだよ。
久我雪男と名乗る男の声が高架下の狭苦しい空間で反響する。
「俺をやったのは若い男がたった一人だ。油断したわけでも調子に乗ってたわけでもない。あんな野郎には俺も出会ったことがない」
柊木さんは振り返り、無言でその若い男の名前を目で尋ねた。
久我は答えず、柊木さんは再び歩き出した。
「名前は分からない! どこの組織に属してるかも分からない! だがあいつが大鎌相鉄を攫ったことは間違いないんだ!」
柊木さんは足を止め、振り返らずにこう尋ねた。
「久我さん。相手は、大鎌相鉄が何者なのかを知った上で拉致したということですよね。地域に地盤を持つ宗教団体のトップです。要求がお金ならば分かり易いですがその場合、個人での犯行はどうしたって難しい。拉致するだけならまだしも、金銭の受け渡しや見張り役、逃走補佐役や交渉役などを考慮すれば五六人は欲しい所です。では、相手が単独だとするなら相鉄を拉致した目的が何なのか、という部分が論点になります。あなたが相手に接触している以上、既に某かの要求があったものと見て間違いない。要求は何でしたか?」
すると久我は、
「……時間、と言った」
そう答えたそうだ。
柊木さんは振り返った。
「時間?」
「大鎌相鉄に神託を降ろさせないようにすることが目的だ。あの爺は、未来を予言する」
「ちょ、ちょっと」
どうして一介の用心棒がそこまで知っている、と柊木さんは焦った。この久我雪男という人物は単なるヤクザ者ではないのか? 大鎌大河が雇った用心棒の一人ではなかったのか?
「黙って従うならば殺さないと言った」
と久我は続けた。「だが相鉄は穏便に済まそうとはしなかった。相手の要求を呑まず、自分を解き放つようにと大河に合図を送って来たんだ、だから俺は……ッ!」
「大鎌相鉄の奪還に向かい、返り討ちにあった、と」
「……」
「何故お一人で、というのは愚問ですね。相手にバレないように近付いたはずが、逆に追い返されてしまった」
「……」
「ただそうなると大鎌相鉄の命が危ういですね。早急に手を打たないと、犠牲はあなただけに留まらない」
「……」
「男の名前は?」
「だから分からんと言ってるだろう!」
柊木さんは踵を返して歩き出した。
そんな彼女の背中を、久我の声が引っ掴んだ。
――― オダブツナンマイダッ!
「名前を聞いた俺に向かって男は自分をそう呼んだ。だがそんな念仏みたいなものが本当の名前だと思うか? 信じる気になるか!?」
そう言った久我の言葉は途中から、既に柊木さんの耳には届いていなかった。
「あなた」
柊木さんはゆっくりと振り返った。「あなた、どこでその男とやり合ったの?」
「あ?」
理解できぬ様子で久我は首を傾げた。
「どうやってその男と接触したの?あなた今までどこにいたのよ?」
「どこって、お前今自分のいる場所も分かんねえのかよ」
「……東京」
はるか百キロも離れたY県で聞かれた殺人事件の容疑者の名が、東京にいたヤクザ者の口から飛び出したのだ。しかも、大鎌相鉄を拉致した犯人であるという。
「東京のどこよ」
「……どごでもねえよ」
「はあ?」
「別にどこってことはねえよ」
「何言ってるのよ」
「これから向かう所だったんだよ。だけどその前にかち合っちまったんだよ、奴に」
「だからどこで!?」
「家の玄関開けたら奴が立ってた」
「あ、あなた自宅を知られたの!?」
「……チ、くそが」
「だからこんな所で」
病院にも行かず、家にも帰れなかったというわけだ。
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