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34:声
丁度雨脚が弱まった。
柊木さんは久我と名乗った男と共に高架下に留まり、その場で電話を一本掛けたそうだ。救急車を呼ばれたと早合点した久我は傷ついた体で抵抗を試みたが、そんな状態では柊木さんに敵うはずもない。そして何より柊木さんの電話の相手は119番ではなく、チョウジ職員のパン・華だった。
先日退院したばかりの華ちゃんはこの時まだ、信夫の了承を得られず現場には戻っていなかった。全員が別件を抱えて現場を駆けずり回る中、不本意とは言え手が空いているのは華ちゃん一人だったのだ。
「ごめん華、呼び出したりして」
柊木さんは頭を下げた。
自らハンドルを握って指定の場所に車で乗り付けた華ちゃんは、一見して事情の呑み込めない事態に目を白黒させながら、
「それは全然。でもこれって……柊木前室長が?」
と、ボロボロの久我を指さした。「わなわな、わなわな」
「冗談言ってないで早く病院運んで。K病院の九里先生には私から連絡を入れておくから」
救急車両を手配すればいいものを、あえてそうせずわざわざ車で運んであげるのか……。華ちゃんは上目で柊木さんの顔色を見つつ、聞いた。
「室長はこのこと?」
信夫への報告義務を匂わせる華ちゃんの問いに、
「もちろん」
と言って柊木さんは頷き返した。「私から伝えておく」
わかりました、と答えて華ちゃんは久我の全身をじろじろと眺めた。上から下まで遠慮なく嘗め回すように観察し、訝る久我の眼力などどこ吹く風といった涼やかな顔で、
「わかりました」
と、もう一度言った。
その言葉を聞いて柊木さんは安堵したそうだ。華ちゃんが久我と二人きりになり、病院まで車で運んでいくことを了解した。それはつまり、この時点で久我に危険性はない、あっても華ちゃんひとりで対処できる程度の規模である、ということを意味しているからだ。
「お前はどうする気だ」
柊木さんへ向けて久我が問うた。
柊木さんは両手の指でピストルを作り、駅の方角を指示した。
「北へ、か? 噓を言うな。獲物を追いかける刑事の顔してるぞ」
「生まれつきこういう顔なんです」
「お前は手を出すな。事態がややこしくなる」
「出しませんよ」
「誓えるか!」
柊木さんが久我から顔を背けると、それを見た華ちゃんは目を見開いた後、下を向いた。柊木さんが笑いを堪えているの見て華ちゃんも釣られそうになった、ということらしい。
柊木さんは元公安調査員だ。久我の正体が用心棒であれヤクザ者であれ、元警察官だった人間に事態をややこしくするからこの件に関わるな、と言っているのだから滑稽だ。誰が誰にものを言ってるんだ、と柊木さんは思ったに違いない。柊木さんは大人しく右手を胸の高さに持ち上げ、
「誓います」
と答えた。
「うふうん」
華ちゃんは変な声を出した、という。
同じ頃、北城くんは矢沢誠二さん宅に訪れる女の正体を、かつて『NIGHT GARDENER』というJ-POPグループのボーカルだった女性、黒井七永の肉体側ではないかと当たりをつけ、その線を追っていた。
顔だけを見れば、訪ねて来る女と黒井七永の肉体側は瓜二つである。それはこの僕が保証するし、北城くんが仕掛けたスマホの映像を確認した柊木さんも同様の証言を口にした。
かつて天正堂開祖 大神鹿目から死なずの呪いを受けた黒井七永は、僕と母の開いた霊穴に落ちた後、魂と肉体に別れてこの世に戻って来た。魂は娘とされる残間京の身体に入り込んで不死の力を分け与え、肉体側は全くの別人格として芸能界入りを果たし、ミュージシャンとして華々しい活動を数年続けた後、突如表舞台からその姿を消した。今回矢沢誠二さん宅に出没している訪ねて来る女が七永の肉体側なら、これは芸能界にとっても、また同グループのファンにとってもかなりセンセーショナルな出来事と言える。
北城くんは情報を慎重に扱いながら調査を行い、業界関係者から怪しまれぬようグループ解散後の七永(肉体)のその後を追うと共に、果たして顔が似ているだけの別人ではないのかという可能性も念頭に置いた上で、方々に手を回していた。
結局は、蓋を開ければ徒労に終わる調査かもしれなかった。その事も関係してか、事態が確かな進展を見せるまで北城くんは僕への報告は行わず、この時はまだ入院中だった信夫だけに義務を果たしていたそうだ。
「でも私、ちゃんと聞いたことないんですよねえ、ナイトガーデナーって」
見舞いに訪れた北城くんの呟きに、
「ひとりごとか?」
ベッドに仰臥したまま信夫はそう返したという。自分に報告するような話じゃない、やるべきことをやれ。暗にそう窘められた北城くんはそれ以上何も言えなくなって、その足でCDショップに直行したそうだ。これらの話は後に直接北城くんから聞いた話だが、実はその時、信夫の入院していた病室の前で一人の女性とすれ違った、という追記事項も併せて耳にした。相手は背の高いポニーテールの女性で、顔に見覚えはなかったそうだ。マスクを着用していた為ほとんど人相などは分からなかったようだが、とにかく目元が美人だった、と北城くんは力説した。自然と目が合った為会釈してすれ違い、廊下の角を曲がった直後にはたと気が付いた。
――― 室長が担当してる事案の依頼人、背の高い美人さんじゃなかったっけ?
慌てて数歩戻り、曲がり角から顔を出した時にはもう、その女性はいなくなっていたという。十中八九、その時北城くんがすれ違った女性とは、戻って来た木虎祥子先生と見て間違いないだろう。
CDショップで目当ての品を購入し、矢沢誠二さんを保護している別宅へと向かった北城くんは、この数日で仕入れた情報を整理する意味も兼ねて依頼人と向かい合った。これまではただ夜更けに訪ねて来る謎の女とその被害者、という関係でしか見れていなかったお互いの構図が、ここへ来て少しばかり様相が変わって来たことにも注意すべきだった。
「例の女、ここへは来てませんね?」
北城くんの問いに、
「ええ、来てませんよ」
矢沢さんはほんの僅かに微笑みを浮かべて答えたそうだ。
「それは良かった」
「でも」
「でも?」
「俺の部屋には……来るんでしょ、あの女」
「……ええ。まあ」
北城くんの正直な答えに、矢沢さんはぎゅっと瞼を閉じた。
あの日矢沢さん宅の玄関で、訪ねて来る女と真っ向から相対した曽我部青南は、生身の人間と思しき彼の女に対して霊圧だけで退けてみせることに成功したそうだ。だが青南さん曰く、
「女は必ずまたやって来ますわ」
そう断言している。「力比べに勝ったわけではありません。時が来たから帰った……何かそのようなあっさりとした引き際だと感じられましたわ。しかし恐るべき鋼鉄の意志でした。例え筋肉がぺしゃんこになろうとも、内蔵だけでずりずりと這い寄って来るような、そんな奥深い執念を感じましてよ。非常に厄介な、女」
高級マンションとは比べるべくもない質素なアパートの一室で、北城くんと矢沢さんは食卓を挟んで向かい合った。
「全部は話せないんですけどね」
と前置いて、北城くんは言う。「まあこっちが警察を名乗っちゃうと向こうも腰が引けたりだとか、変に勘繰られたりもされるもんでね、熱心なファンを装って関係各所に電話を掛けてみたんですよね、ええ」
「ファン?」
「ファンですね」
「何の話すか」
首を捻る矢沢さんの前に、北城くんは購入したばかりのCDアルバムを滑らせて置いた。
「知ってますかね。ナイトガーデナーというグループなんですけどね。今はもう解散しちゃってるんですけど、今でもこうしてほら、CDショップに行けば普通に新品が手に入っちゃう。……ベストアルバムだけですけどね」
「ああー……」
北城くんの説明に矢沢さんは頷きつつ、CDを手に取った。「これかー……。あ、いや、知ってますよ、名前だけっすけど。あれですよね、なんかアニメのタイアップとかでばんばんテレビで流れてた」
「そうですそうです、よくご存知で」
「でも、これが何すか?」
「驚かないで聞いて下さいね」
「……何すか」
「このね、今このアルバムだと横顔しか分かりませんけど、ボーカルの黒井七永という名前の女性なんですけどね、ずっと矢沢さん家にやって来て怖がらせてる女が、これ、この黒井七永と同じ顔なんですよね」
「えッ!」
「ええ、でも同一人物なのかはまだ分からないんですね。顔を見比べて、同じだ、という程度のことしか言えません。でも矢沢さんね、これまで一度も訪ねて来る女の顔を見てはいらっしゃらないですから、少し、安堵なされたんじゃありませんかね?」
「あ、安堵!? するわけないだろう!」
「だってほら」
北城くんは矢沢さんが手に持ったCDを指さして、言う。「これで相手がこの世の者じゃないかもしれないという選択肢は消えたわけなんで、ちょっとばかし嬉しいですよね」
「いや、でも!」
「もちろんですね、どのようにして警察の監視を掻い潜ってあの部屋の前までやって来るのか、そもそも目的は何なのか、と言う部分に関しては今後も引き続き調査が必要なわけですが、今の時点ではおそらく、行き過ぎたストーカー、そう判断してもいいと思うんですね」
「ス、ストーカー?」
「ええ。今の所現場を抑えて我々が声をかければ逃げていくもんですからね、あとは実際に確保してみて、事情聴取ですね、そこまで行けばこの事件は解決すると思うんですね」
「じゃあ早いとこ捕まえてくださいよ!」
「もちろんそのつもりですねえ。ただ、不思議じゃないですか?」
北城くんの問いに、矢沢さんは怒ったような声で、「何が」と聞いた。
「恐らくですけどこの黒井七永さん、矢沢さんよりも年齢が上なんですよねえ。そして矢沢さんも名前しかこのグループのことをご存知じゃなかった。私も音源をちゃんと聞いたことはありません」
「だから?」
「これ、例えば立場が逆なら理解出来るんですよね。被害者が黒井七永で、矢沢さんがストーカーなら。向こうは一応名の通ったミュージシャンだった女性ですから、ファンによる行き過ぎたストーキング行為という見立てが成立する。でも、本当は全然逆、真反対。有名ミュージシャンが、自分を知らない無名のフリーターを追っかけてるんですね」
「フリーターで悪かったな!」
「問題はそこじゃないですよねえ」
「で、でもまだこの女とうちにやって来る女が同一人物か分かんないでしょう! 他人の空似って言葉もあるくらいだ!」
「もちろんです。だから不思議だって言ってるんですよね。ひょっとしたら何かしら接点があるかなーなんて思って聞いてみました。気を悪くされたらすみません。この通り」
北城くんは食卓に額を付けて謝った、しかし、
「で」
とすぐまた顔を上げて質問を続けた。「これかー……って、どういう意味ですか?」
すると矢沢さんは北城くんから視線を逸らし、どう答えるべきかで迷うような素振りを見せた。北城くんは見逃さなかった。
「ひょっとしてあれ、矢沢さん、ナイガのこと知ってました?」
「ナ、ナイガ?」
「ここほら、帯に書いてますね。ナイガの集大成、全シングル曲+ファンリクエストの多かったアルバム未収録曲を加えた究極のベスト盤ここに完成! ナイトガーデナーだから、ナイガ、ですね」
「……」
「何故黙るんでしょうね?」
「……お」
親父が、と矢沢さんは答えた。
北城くんはびっくりして、反射的に上着の懐から手帳を取り出してペンを構えた。まさかこの場面で矢沢誠二さんの父親が話に参加してくるとは思わなかった。北城くんがごくりと喉を鳴らし、
「御一緒には住まわれていない、という話でしたね。そのお父様が」
と続きを促した。
「……レコード会社の重役、なんだ」
矢沢さんはそう答えた。普段から親子仲が良好ということもなく、高級マンションに住まわせてもらっているのも、疎遠である二人の関係性に起因しているという。現在日常的に父子が顔を合わせる機会はなく、矢沢さんが感じる唯一の父親らしさがあのマンション、つまり住居の無償提供なのだという。
「昔はよく自慢してたんだ。自分が目をかけたグループの人気に火がついて、社内での地位も上がったって。内心じゃあ俺、すげーのはそのグループだろうって思ってたけど、そんなの聞く耳持つ人じゃないし。すげー自慢してくるから、却って聞きたくなくて」
「それが……ナイガ?」
北城くんが聞くと、矢沢さんは素直に頷いたという。「お父様のお名前、お伺いして良いですかね。もちろん話を聞きに行ったりなんかしません、今回の件でも私、警察の看板は一切出してませんしね」
矢沢誠二さんのお父様は、名を誉さんといった。大手レコード会社ビクターの取締役で、NIGHT GARDENERを世に送り出した人物であるという。
「そうですか、じゃあ、昔っからこのナイガの名前だけはずっと知っていらしたんですねえ」
「びっくりっすよ、あの女がこのグループの……」
「いえいえ、ほら、他人の空似かもしれませんし」
「それ俺が言ったんですよ」
北城くんは再びCDを手に取り、こう提案した。
「丁度いい機会です。今このCDかけてみましょうか」
「え」
「どんな声で歌う人なのか、今はちょっと、興味ありません?」
それは純粋な、調査員の枠の外にある北城くんの興味だった。黒井七永の肉体側が当時どんな声で、どんな歌を唄っていたのか。矢沢さんが巻き込まれた事件には何も関係ないかもしれない。だが、こういうのを運命と呼ぶのだろう。図らずして目の前に現れたCDアルバムを、北城くんは聞かずに済ますことが出来なかったのだ。
だが、二人は聞くべきではなかった。
北城くんはこのCDを購入すべきではなかったのだ。
封を切り、ケースを開けてCDを取り出し、何故か質素な部屋のキッチンに置かれていた古いラジカセにセットした。ボリュームのダイヤルを少音に設定し、読み込み完了と同時に再生ボタンを押した。
「……」
「……え?」
無音だった。
白黒の液晶画面では曲が再生されていることを示す表示部が時を刻み、CDが回転していることを教えてくれていた。北城くんは試しにボリュームのダイヤルを少し回して、音量を上げてみた。
しかし、
「……なんだこれ」
何も聞こえない。一曲目のナンバーである「ユウメリー」が再生され、丁度一分が経過した、その時だった。
――― 死んだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああ!
信じられない程ひび割れた声が、バリバリバリと部屋中にこだました。それが正式なNIGHT GARDENERの曲でないことは、確認するまでもなかった。
――― 死んだぁぁぁぁぁぁぁぁあああ!
――― ぁぁぁぁぁぁぁぁああああ!!!!
――― ぢんだぁぁぁぁぁぁぁあああ!!
――― 死んだーーーーーーー!!
――― 死んだー死んだー死んだー!!
――― ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ死んだあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
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