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35:村人の話
ついでと言ってしまうと失礼な話になるが、仕事用に借りているマンションの一室へ天正堂の拝み屋である兎谷虹鱒を招いた僕は、この時は別室に保管していた例の木箱、「開けると死ぬ箱」をどうしても彼に見てもらいたくなった。
兎谷さんが来るまではリビングのテーブルの上、僕の目の届く場所に置いていた。だが出所不明の謎の肉片を彼に見せるにあたって、呪物同士が干渉しあう可能性を考慮して別室に移していたのだ。ところが、隣室にある木箱の存在を教えると、チラリそちらを見やった兎谷さんは短く、
「嫌だ」
答えた。即答ではなく、じっくり考えた後の返事だった。わけを問うと、
「お前、あれになんかしたな?」
と逆に質問を受けた。
「え?」
双蛇村を訪れた際、チョウジ職員の近藤さんにも同じことを聞かれた。同じ質問を二度受けてしまうと理由が分かっていても怖い……自分がやったこととは言えども。
「強制的に、僕の所有物であるという押印を施しました。六面体の全部に押しましたし、僕の血を用いていますからそこそこ効力は強い筈です……何かおかしなことになってますか?」
問うと、兎谷さんは隣室とこちらを隔てる壁から視線を切って、僕を見た。
「もともとその箱が何に使われるどういう性質のものか俺は知らんが、少なくともまだ箱は、お前のものにはなってないぞ」
「え?」
「お前以外の人間の魂をあの箱から感じる。中にはいない。外側に絡みついてる。ここで死んだわけじゃないなら魂を丸ごと釣り上げることは出来ないが、外すことなら出来るかもしれん。ただ、正直近寄りたくない」
僕は兎谷さんのその話を聞いて、西田家と土葬村(双蛇村)で得た情報を手短に伝えた。すると兎谷さんは頷きながら下を向いて、
「その男の子か」
と呟いた。西田武市くんだ。もしも隣室にある木箱が、双蛇村の古井さんが言ったように野辺送りに使われた棺であるならば、西田武市くんは一度死んで蘇った人間ということになる。何故頭部だけなのかということも含め、現在この事案に関しては陣之内萌さんが調査中である。しかし兎谷さんは、見るまでもなく箱に武市くんの魂が絡みついていると言い当てた。
「今あの箱の中には何が見えますか?」
「何も見えん。俺の目はお前程よくない。だがお前の一部が中に入ってることは間違いないだろうし、却ってそのせいで、お前自身も上手く外側の状況を把握できないんだろうな。気を付けろよ新開」
「何故です?」
「外側に絡みついてる男の子な、さっきからずっと、必死に箱を開けようとしているぞ」
その異常なる葬列の儀を持って、他地域の文化と一線を画す双蛇村ではこの頃、チョウジ職員 近藤護発令のもと、村人を集めての全体会議が行われていた。ぼろぼろの公民館に集ったのはたった二十名程の老人ばかりだった。だがそれでも、寝たきりの家族を抱える家や足に障害を持つ者が独居で生活している世帯を除けば、ほぼ全世帯の代表者が顔を揃えていたという。
近藤さんは槌岡巡査部長とともに皆の前に立って、こう声をかけた。
「わざわざ集まってもらって申し訳ない。だがどうしても今のうちに確認しておきたいことがあって、こうして槌岡さん立ち合いの下で話がしたかった。すぐに終わるから正直に皆の意見を聞かせてほしい」
村人たちは等しく落ち着いた表情を浮かべていた、という。野辺送りで死人が甦るという摩訶不思議な風習を持つ村で、殺人事件が起きたのだ。確かに捜査は行われない。それでも、本来なら心中穏やかでいられる筈のない事態に直面して尚、どの顔も平然と近藤さんを見つめ返して来たそうだ。
だが、
「まず」
近藤さんが話を切り出そうとした、その時だった。
「古井はどうしたい」
誰かがそう声を上げた。男性の声だった。
「今言ったのは誰だ?」
近藤さんが問うと、
「その汚ったねえ眼鏡ちゃんと拭いてから来いやぁ」
と同じ声がそう答えた。
「そりゃあ悪かったな、だがこっちは別に、これで困ったことになった試しがないんだ。都合が悪くないんなら、今文句を言った御仁にご起立願おうか」
近藤さんが言うと、一団の中から七十代くらいの男が立がった。上下作業着を来た小柄な男で、目深にキャップを被っているためすぐには人相が分からなかった。
「名前は?」
問うと、男は帽子を取って、
「高木だ」
と答えた。
「高木さんか。なんだよ、古井さんがこの場に集まらなかったことがそんなに不満か?」
「ああ。あんの裏切者が」
「ほお? そりゃどういう意味だ?」
「分かってんぞ、あんたら警察を呼んだのは古井だ。あの裏切者、自分の亭主を見殺しにして野辺送りをやんなかったんだ。あげくに余所者引き入れて、自分は家で寝っ転げてんのか!」
高木さんは怒鳴った。しかし近藤さんは微笑みを浮かべて、なるほど、と頷いた。この時近藤さんは、高木さんの素直さに内心喜んだそうだ。村人全員がこんな風なら調査は至極やりやすいのに、と。
「野辺送りはやったさ。村に六代目飯綱が来てるのはあんたらも知ってるだろう。そら、あんたらが納得しないやり方だったのかもしれんが、故人を思う古井さんの気持ちに噓偽りはない。それに彼女は、別に家で寝転がってるわけじゃない。俺の方から待機していてもらえるようにお願いしてあるんだ。何故って? 危険だからだよ」
含みのある言い方に、高木さんを始めとする村人たちに静かな動揺が広がった。
「山間の村だけあって土地はそこそこ広いが、ほぼ全世帯の代表者が集まったってこの人数だ。とっくに噂は知れ渡ってると思うが、今、古井さんはこの村の連中から嫌がらせを受けてる」
近藤さんのはっきりとした物言いに、村人たちは思い思いに視線を散らした。近藤さんは続けた。
「俺がこの村に出入りするようになった時にはもう、すでに古井さん家の窓ガラスが何枚か割られてた。外から石を投げ込まれるそうだよ。俺が居座るようになってしばらくは止んだが、昨日もまた割られた。偶然なのか何なのか、部屋には古井さんはいなかったから怪我は負っちゃいないが、これは立派な暴力行為だ。犯罪だ。犯人がこの中にいる以上、今日だって連れて来るのはまずいと思ったんだよ。なあ、あんたもそう思うだろ? 高木さん」
「……」
高木さんは答えなかった。しかし彼は視線を外すことなく、近藤さんを見つめ返したという。近藤さんはじっとその目を睨み、
「あんたがやったのか?」
と聞いた。すると、側で固唾を呑んで見守っていた槌岡巡査部長が慌てて止めに入った。
「決めつけは良くない近藤さん。この村の人たちは皆そんな性悪じゃないよ、いい人たちばっかりだ。情に厚い人たちだ」
「ほお」
近藤さんは言うも、槌岡さんを見もせずに、「どこが」と続けた。
「どこがって……」
近藤さんは高木さんから視線を逸らすと、自分の目の前に座っている村人の顔を見渡し、その中から丁度古井さんと同年代と思しき女性に声をかけた。
「あんたは確か、石原さんだな?古井さんから何度か名前を聞いたことがある。この村には女性が少ないもんで、あんたとは普段から仲良くしていると聞いたよ」
言われた石原さんは責められたわけでもないのに小さく肩をすぼめ、
「はあ」
と微かな吐息を発するのみだった。
「石原さん、ずばり聞くが、古井さんの家の窓ガラスを割ってるのが誰なのか、あんた知ってるか?」
近藤さんの問いに石原さんは俯いたまま頭を振った。
「知らないか、言えないか、本当の所は分からんが、まあいいとしよう。で、だ、槌岡さん。この石原さんの反応を見てあんたまだ情に厚いと言えるか?」
「そ」
それはまた話が違う、と槌岡巡査部長は慌てた。「知ってたって言えないこともある。近藤さんだって言ってたじゃないか、もしこん中に本当に石を投げた人間がおるんなら、こんな所で知ってるなんて言えるわけがない」
「違わないさ、情に厚いなら言うだろ。古井さんの友だちなら彼女を助けたい一心で犯人を諫めるだろうし、そうすることこそが村人を思う気持ちに繋がるもんだ。結局知ってても言わないというのは単なる保身に過ぎんよ」
「それは理想論だ近藤さん。実際にはもっと人間関係はややこしい」
「情に厚いなどと変なことを言い出したのはあんただよ、槌岡さん。俺はそんな風に思ってなんかいない、それだけのことだ。下がっててくれ」
ぐうう、と喉を鳴らして槌岡巡査部長は半歩後ろへ退いた。やたら好戦的な、東京から見た身なりのだらしない男にいいように言われ、さぞかし腹が立ったと思う。しかも近藤さんは槌岡巡査部長よりも年齢が下である。しかしだからこそ、警察組織内での序列というものをはっきりと意識せざるを得なかったのだろう。そして相対したことのある人間なら分かると思うが、近藤護という男はかなり威圧的な側面を持っている。それは性格的な意味ではなく、自信と責任感から来る毅然とした態度がそう見せているのだ。故・壱岐琢朗課長や坂東美千流と肩を並べていただけのことはある、ツワモノ特有の雰囲気を身に纏っているのがチョウジ一番の古株、近藤さんだった。
「ワシらじゃない」
「あん?」
言ったのは高木さんだった。
「古井ん家の窓が割られてんのは知ってる。だがワシらじゃねえ」
「どうして言い切れる」
近藤さんは睨んだ。「高木さんあんたさっき言ってたな。自分の亭主を見殺しにして野辺送りをやんなかった、あげくに余所者を引き入れた……あんたはそれを裏切者と呼んだんだぞ」
「……」
「この村に古くから伝わる風習のこともまあ問題は問題だが、今俺が言いたいのはそこじゃない。古井さんを裏切者だと思ってる村人がいて、実際彼女の家の窓ガラスが割られていること、それに」
近藤さんは言葉を切り、集まった村人の顔をひとりひとりじっくりと睨みつけて行った。
「……小泉鳩子さんの死をあんたらが受け入れてることだよ」
言った瞬間、受け入れちゃいねえ、という声が其処此処で上がった。
声自体は大きくなかったが、それまで近藤さんが放つ警察の威光というものに顔を伏せていた村人たちが、急に顔を赤くして怒りを露わにした。だがそれでも、近藤さんは全く怯まなかった。
「本当は今日、俺はその話をしに来たんだ」
再び村人たちが口を閉じる。
「古井さんの一件ももちろん捜査するが、正直今は小泉さんだ。なあ、誰か教えてくれよ。どうしてだ? どうして、古井さんを裏切者と呼んで憚らないあんたらが、鳩子さんを殺されて大人しくしていられんだ?」
村人たちは言い返さない。
「高木さん。どうだ?」
「……どうしろってんだ」
「あ?」
「ワシらにどうして欲しいんだ、あんた」
「どういう意味だ?」
「ワシらが何にも感じてないと思ってんのか。だからそんなふざけた質問してやがんのか!」
「だったら」
「何にも感じねえわけねえだろが! ワシらにとって野辺送りがどんな意味を持つのか知りもしねえで、ヨソモンがデカい面しやがんじゃねえ!」
高木さんの怒号に追従する形で、村人たちが「そうだそうだ」と賛同の声を上げた。すると、
「おいおい」
近藤さんは呟き、「うるせえ!」そう叫んだ。
ビュ、と村人たちの気炎が吹き飛ばされた。
「実際に行動しない人間がどれだけ喚いた所で気持ちなんてものは関係ねえんだよ馬鹿野郎! 芳治さんが捜査しなくていいと言った! この世にはもういない人間の死だ、殺人事件を立証できない以上俺にはどうすることも出来んさ! だがあんたら違う! 俺とあんたらでは立場が違うだろ! 何故立ち上がらない、何故俺ん所へ来て誰がやったと大騒ぎしない!」
バシ、と。
高木さんは手に持っていたキャップを自分の太腿に打ち付けた。
「俺はこう見えてロマンチストなのさ、高木さん」
近藤さんは言う。「実際問題どういうカラクリで死人を呼び戻してるか分からんが、俺は早くもこの事実を受け入れてしまっている。それに、少なくともこの村で長きに渡って受け継がれて来たその儀式と風習を、あんたはら村の外へ持ち出すことをしなかった。俺はそこに、僅かに残された倫理観というものを感じていたんだ。人間として当然持っている悲しみと愛情をないまぜにして、煮詰めて煮詰めて最後に浮かび上がって来た究極の欲望を叶える技を編み出した。だが、自分たちの行いが正義ではないこともまた知っているんだと思っていたよ。それなのに高木さん、今になって古井さんを裏切り者と呼ぶのはどういう了見だ?」
「だからじゃねえか」
と、高木さんは呟いた。
「……」
近藤さんはじっと続きを待った。
「この村の風習を外に漏らさねえのは倫理観なんかじゃね。秘密がバレて国の監査が入るのを恐れてるからだ。それにこの村の人間は、家族が死んでもすんなりお別れしようなんざ毛程にも思わんのが普通だ。失敗することはあっても、野辺送りをしないなんて発想にはならねえもんだ。それを古井の奴……石原が距離を置いてんのだって、古井が何を考えてんのか分からんからさ。裏切り者だ、あいつは」
「石は? 誰が投げてる」
「知らねえよ!」
「じゃあ小泉鳩子さんが殺されたことについてはどう思ってる?」
「……」
高木さんは黙った。しかしその時彼の目は雄弁に物語っていた。言いたいことはある、だが、自分の意見が村全体の意見だと思われるのも困る。高木さんの視線は村人たちの頭上を彷徨い、的確な言葉を探せないまま足元にぽとりと落ちた。
「ひとつ、刑事の勘というものを披露しようか?」
近藤さんの言葉に、村人たちの視線が一斉に持ち上がった。
「石を投げてる奴の話は一旦脇へ置いて、小泉鳩子さん殺害の件で言うと、俺はまた、次があると思ってる。理由は次のふたつ。ひとつ目は小泉鳩子さんが野辺送りで戻って来た人物である以上、殺しても殺人事件にはならない。犯人はそのことを知っていて、次々と対象者を的にする可能性がある。いわゆる快楽殺人だ。そしてふたつ目、俺としてはこっちが怖い。犯人が初めから意図的に、戻って来た人間を全員屠るつもりでいる可能性。このふたつの理由どちらが正解でも、必ずまた……次があるぞ」
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