36:交錯する血の糸

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36:交錯する血の糸

   双蛇村の公民館は、かつて村に住んでいた金持ちの家を改造して看板を付けただけの民家であるという。元の家主一家は二十五年も前に他所へ移り、その際当時の村長に空き家を譲渡したそうだ。清掃は代々の村長家族が行ってきたが、修繕などの維持費はいわゆる自治会費から出ているという。ちなみに木造平屋建、襖で隔てられた仕切りを取り外すと五十畳程にもなる和室がある為、今回のような村民の集いにも使い勝手がよかった。ただし電気は通っているが水道が来ておらず、寝泊りには不向きという理由から、近藤さんは依頼人である古井さん宅で御厄介になっている。  そのことが関係したのかどうか定かではないが、玄関ではなく縁側から突如男が飛び込んで来たことに近藤さんは思いの外驚いたそうだ。入口や廊下を通らずに、皆のいる和室に直接人が駆け込んで来るなど想定していなかったのだろう。加えて、集会中の、かなり緊迫した場面だったということもある。風が入らぬよう閉じていた障子戸を破壊する勢いで泥だらけの男が飛び込んで来た時、 「う……ッ!」  近藤さんは咄嗟に拳銃に手をかけたという。  村人たちが一斉に振り返る中、突然現れた男はこう叫んだ。 「やられた! 今度は牛尾んとこの慶介だ!」 「な……?」  双蛇村でまた人が殺された。被害者の名は牛尾慶介さん(69)、野辺送りによって土葬され、そして戻ってきた死人帰りがその犠牲者だった。 「例の血文字は!?」   近藤さんが問うと、闖入者は頷きながら、 「あった」  と答えた。小泉鳩子さんに続き、の犠牲者はこれで二人目である。会合により村の一ヶ所に人が集まる隙を突かれた、と思い近藤さんは歯噛みした。だがそこからの判断は早かった。鎚岡巡査部長と協議の末、この村にいる死人帰りの該当者を全員村の外に避難させる、と決定したのである。反発はあったが問答無用で押し切った。理由は単純明快だった。この村で死んだ人間は土葬される。死亡届も提出され、その先はない。その先が用意されているのはの話である。死人帰りが殺されても殺人事件にはならないし、捜査も行われない。つまり現段階で犯人を特定する手段は存在しないわけで、そもそも逮捕することさえ出来ないのが現状である。 「逃げるしかないんだよ!」  近藤さんの言葉に村人たちは皆顔色を失った。  この時、双蛇村にいた死人帰りの該当者は、殺された小泉鳩子さんと牛尾慶介さんを除いて四人だった。近藤さんはただちに公安本部へ連絡し、事件が解決するまで双蛇村の四人を保護するように求めた。 「どうする、どうやって犯人を追う」  槌岡巡査部長に問われ、近藤さんはこう返した。 「追わん」  狼狽える槌岡巡査部長を見返し、近藤さんは続けた。「……罠を張る」  高橋冠者(たかはしかじゃ)は退屈していた。暇だ、とパン・華に連絡を寄越し、そして華ちゃんから僕へとが回って来た。  G町。僅か百メートル足らずの区間にだけ心霊現象が起きる住宅街のあの路地で、背中を負傷した華ちゃんに代わって現場には天正堂から派遣した拝み屋が陣取っていた。名を、高橋実鈴(たかはしみすず)いう。四十代の男性で、浄化を得手とする霊能者である。  高橋さんは二十代の頃に犯した過ちを悔い、本名を捨てて冠者と名乗り始めた。冠者とは「かじゃ・かんじゃ」と読み、解釈としては成人した若者を指す。だが翻って若輩者という意味もあって、成人したにも関わらず未熟な人間である、という戒めを込めて自らをそう呼んだ。若い頃は自信家で、故・天原秀策(あまはらしゅうさく)氏(御曲りさん)に憧れていると言って辻占の道を志したこともあるそうだ。辻占とは今でいう路上の易者だが、天原秀策が得意としたのは穢れ淀んだ気の流れを能動的にさばき、場の状態を健全化・浄化することであった。高橋さんが憧れたのはまさにこちらの方で、自身が持つ霊能の性質を用いて人々を思い悩ませる穢れを浄化させることに心血を注いでいた。  G町にて起こる謎の心霊現象。どこにでもある住宅街の、それもごく限定的なとある区間だけで起きる霊障に対し、僕は高橋さんの持つ能力が役に立つのではないかと考えていた。  あの晩、僕と華ちゃんは敵の正体を見破ることが出来なかった。見えないからといって敵が透明人間だなどと言うつもりはない。だが視認不可能な攻撃的事象が僕たちに襲い掛かったことは明白で、僕を庇い傷を受けた華ちゃんの感想は、 「かまいたちのような」  だった。鎌鼬(かまいたち)とは我が国に伝わる妖怪の名だが、現象としてはつむじ風に乗って現れるあやかしが鋭い刃物で人を斬りつける、というものである。目には見えない妖怪が襲い来て傷を負わせるのだから、成程確かに似てはいる。だが僕たちはそれ以上のものを目にしたし、実際、蜘蛛の手足のように体を広げて追い縋って来る蠢く血溜まりを見た。  あれが『限定的な区間』にだけ発生する霊障であることは、身を持って体験したこの僕が断言してもいい。であるならば、その限られた空間の歪みや淀み、穢れを解きほぐして正常化できる霊能者がいれば何某かの光明を見いだせるのはではないか、そう考えての人選だった。  所が、現場入りした高橋さんはこう言うのである。 「暇だ」  華ちゃんが入院した翌日から同現場に立った高橋さんは、僕が指定した午後十一時四十四分よりも十五分早くあの路地に立って襲撃を待った。しかし、同時刻になっても何も起きず、そのまま数日が経過し、何も見ず、何も聞かぬまま今に至るという。死者を出した最悪の現場である。華ちゃん以降誰も被害に合っていないのだから結果的にはこれで良いのだ。だが、全く腑に落ちなかった。  華ちゃん曰く、高橋さんは本当に何もしていないという。あるいは彼の存在そのものが現場に影響を与えたとも考えられるが、当の本人が、 「私は何もしていない、指一本動かしていない」  と言い張ったそうだから、そうと分かる因果関係はないのだろう。 「悔しくないですかぁ?」  と、実に悔しそうに華ちゃんは愚痴った。電話越しでも、首を傾げて目を見開いて言う彼女の表情が容易く想像出来た。 「超事象について探ろうにも、何にも起こらないんだから何もすることがないって言うんですよ高橋さん。それってぇ、なんか変だと思うんですよねえ。プンスカァー」  この場合華ちゃんの言う変とは、高橋さんの言動ではなく、現場で何も起こらないことの方だろう。確かに、事前に聞いた情報でも「毎晩ではなかった」そうだ。霊障に遭遇した被害者たちも、全員が傷つき亡くなっているわではない。だが、一週間毎日現場に立った高橋さんが何も感じないというのは普通じゃない。華ちゃんの言う通り、変なのだ。 「私、やっぱりもう一回現場に戻ってみますね」 「いや、そこはきちんと信夫の指示を仰いでからにしよう」 「でも私が任された現場ですから。ホウレンソウをしっかり行う為にも、人伝ての情報だけじゃなくって、ちゃんと自分で経験して答えを出さないと駄目だと思うんですよね。キラーン」 「キラーン、じゃないよ」 「シャキーン」 「そういうことじゃないんだって」  華ちゃんには悪気なんてどこにもないと思う。若々しさと可憐な見た目によって誤解されがちな人だけど、決して軽率な人間ではない。何なら誰よりも警戒心が強く、常日頃から危機管理を怠らない人でもある。とはいえ、やはり軽い。軽いが、その軽さは軽薄さじゃなく、重たい現実をもさらりと半身で受け流すタフな精神力に拠る所が大きいようにも思う。それは良い意味での、軽さだ。そして同時に明るい女性でもある。そんな華ちゃんの明るさが、暗く沈み切っていた僕の心を救ってくれたのもまた真実なのだ。だが、この時僕を照らした華ちゃんの明るさが、その後に押し寄せる地獄のような暗闇を却って際立たせる結果となってしまった。  柊木さんからかかって来た一本の電話がそうだった。僕たちはこの日、自分の立っている場所がいかに脆く、薄い氷で出来た板の上であったのかを思い出した。 「新開さん。今、どちらに?」  電話に出ると、柊木さんに開口一番そう尋ねられた。  時刻は午後八時。 「今ですか。今……すみません、自宅に戻る所でした」   答えると、 「謝ることは、ありませんよ」  柊木さんはそう言いながらも心ここにあらずという声色で、新開さん、と再び僕の名を呼んだ。 「はい」  僕は夜道で立ち止まり、意味もなく後ろを振り返った。  何か聞こえた気がしたが、気のせいだと分かっていた。  何も聞こえなかった。  聞こえたような気がしただけだ。 「なんでしょう」  柊木さんはゆっくりと息を吸い込み、こう答えた。 「近藤護が」  ……死にました。 「し」  僕たちが立っている氷の板は一見すると遥か遠くまで続いていて、その気になればどこへだって歩いて行けるんだと、自由な可能性を用意してくれていた。だから、その氷があり得ない程薄っぺらいという事実をいつも僕たちは忘れてしまうのだ。目の前に広がる世界が魅力的過ぎて、僕たちは足元を見ずに前ばかり見る。どこへ行こうと、戻ろうと、僕たちの立っている氷の板が分厚くなることはないのに。じわりじわりと溶けだして、やがて何もない虚空へと僕たちを突き落としてしまうと分かっているのに……僕たちは忘れてしまう。  早く東京に戻って来てくださいと言った。  一緒にご飯を食べに行こうと約束していた。  坂東さんを呼んで、妻と娘を呼んで、柊木さんも一緒に。  タイミングが合えば、高品くんや北城くん、陣之内さんや華ちゃんたちも呼びたい。  信夫も、仲間外れにはしない。  どこへ行こうか。  大人数だから、広い店がいいだろう。  僕は美味しいお店をあまり知らないから、詳しい友人を頼ろう。  めいちゃんがいい。  そしたら、六花さんも呼ぼう。  きっと楽しい夜になるはずだ。  昔の話、少し前の出来事、現在の話、未来の事。  たくさん話をして、たくさん食べて、お酒は少しだけにして。  様々な音色をした笑い声が飛び交う食卓を囲んで、僕たちは。 「死んだ?」 「新開さん」 「近藤さんが」 「新開さん」 「……死んだ」  柊木夜行が独断で双蛇村へ入った理由は、二つある。  彼女が偶然再会した久我雪男を名乗る男は、大鎌相鉄が今現在も拉致されており、そしてその犯人と覚しき男と東京で接触したと語った。相手の名はオダブツナンマイダ。久我の話に嘘がなければ大鎌相鉄は東京にいる可能性が高い。であれば、遥かY県まで足を伸ばした所で完全なる徒労に終わるかもしれない。だか柊木さんの元刑事としての勘が、久我の言葉を鵜呑みにするなと訴えたのだ。存在する全ての選択肢を潰してから答えを出せ、と。  そして何より、自身が抱える案件の重要人物である大鎌相鉄氏に対し、疑問を抱いたからだという。その疑問には何の根拠も裏付けもなく、脳裏に浮かんだ段階では僕に報告するまでもないと判断する程度だったそうだ。  ――― 大鎌相鉄は、やはり、死んだのではないか。  柊木さんはそう考えていた。だがそれでも兎谷虹鱒には相鉄氏の魂を釣り上げることが出来なかった。何故ならそれは、死亡現場の相違ではなく、 「死んだ後、なのではないか」  柊木さんはそう思ったのだ。  つまり死人帰りだ。 「生き返って来たから、兎谷さんにも釣れないんだ」  むろん確証などはない。その可能性を思いつくまでは、柊木さんも僕同様、相鉄氏は失踪ではなく一季小神殿に引き籠っているだけではないかと考えていた。だがそこでふと、疑念が顔をもたげる。 「託宣を筆記することの出来る大鎌相鉄ならば、引き籠る理由が見当たらない。もしも自身に何某かの危機が迫っていると予見したなら、事前にチョウジや天正堂を頼ることも出来た筈だ」  もちろんそれは都合のいい願望に過ぎない。やむにやまれぬ事情があって、誰にも相談できない事態に陥った可能性だってある。だが双蛇村での出会いや西田家の箱とも関わりを持つ中で、自然と、死人帰りの可能性に思い至ったのだそうだ。思いついたなら、確かめてみるしかない。こうして柊木さんは北へ向かうことを決意した。  久我雪男との再会も、ある一面では柊木さんの背中を押したと言える。大鎌氏失踪に関する拉致の真偽は定かではない。しかしそれまで僕や柊木さんが抱いていた、 「相鉄氏は生きて教団本部に引き籠っている」  という仮説は、それ相応の理由なくしては成り立たないと柊木さんも感じ始めていた。そこへ来て思いがけず得た久我からの情報は大きかった。何故なら大鎌相鉄氏が死人帰りだった場合、最初に死んだ理由が分からないからだ。加えて教団が公にしなかった理由も釈然としない。高齢だからといって意味もなく死ぬことはない。病気なのか、事故なのか、事件なのか、そこには何かしらの理由があるはずだった。 「何にせよ、確かめる必要がありました」  と柊木さんは言った。「もしも同一犯による殺しと拉致が行われた事実があるなら、大鎌相鉄は何者かに執拗に狙われるだけの秘密を隠し持っていたことになります。託宣か、それに近い何かを。そして大鎌相鉄が単なる拉致被害者ではなく一度死んだ人間だとするなら、必ず双蛇村と関わりがある。村へ行けば古井さんや飯綱さんがいる。半日もあれば私の根拠のない妄想がどれだけ真実に近付いているのか、確かめることが出来ると思ったんです。それなのに、まさか……まさかあんなことになるなんて」
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