3:記憶

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3:記憶

 都内某所の公園で待ち合わせた。  約束の時間よりも二十分早く到着した僕は、ベンチに腰かけ、缶コーヒーを両手で握ったまま頭の中を整理しようと努めた。どれくらいの時間そうしていたのか分からない。気が付くとその人はいつの間にか僕の隣に座っていて、白のフリースカーディガンの長い毛足が目の端に映り込んだのを、僕は見るともなしに眺めていた。 「あ」  我に返って顔を上げた時、ようやくそこにいるのが文乃(ふみの)さんだと気が付いた。既に待ち合わせの時刻を十分以上も経過していた。 「お疲れさまです」  力強く、しかし囁くような声で彼女は言い、ペコリと頭を下げた。 「お、お疲れさまです。すみませんぼーっとしちゃって」 「お久しぶりです」 「お……お久しぶりです」 「お元気でしたか?」 「元気、です」 「少し見ない間に御立派になられて」 「やめてくださいよ!」  出会った時と同じ笑顔の、変わらない人がそこにいた。肩より少しだけ短い髪、大きな目を優しく細め、色白で、丸顔の、僕の全てを変えてくれた運命の人だ。彼女が居なければ今の僕は存在せず、僕の目に映る世界も存在しなかった。妻とは結婚出来なかっただろうし、成留も生まれて来なかった。もっと言えば、僕は成人することさえ敵わなかっただろう。この、西荻文乃さんがいなければ。  不意に涙がこみ上げ、僕はまだ中身の残っていた缶コーヒーを危うく零しそうになりながら頬を拭い、文乃さんと反対側を向いた。 「……では」  慎重に、言葉を選びながら文乃さんは言う。「もし私がその、北城さんという方が撮影したビデオの映像を見たとしても、結果は同じになるんだと、新開さんはそう仰るわけですね?」 「そうだと思います。それが僕の出した答えです。いえ……答えは向こうからやって来たんです」  北城くんが科学的な検証を試みた、隠しカメラの映像。午前二時の八巻家の玄関を写し出したあの映像を何度見返しても、やはり扉はひとりでに開いていた。あの日、八巻家の長女桃花さんと並んで座り、玄関扉を注視していた僕たちが見た真実はしかし、全く予想出来ないものだった。 「つまり……八巻家の外から侵入し、自分で鍵を開けて、内側から扉を開いていた、と」  文乃さんは言い、鼻から吐息を逃がした。 「何故そんなことをしているのか理由は僕にも分かりません、ですが……」  これが答えであることは間違いないのだろう。八巻家の側で感じた喉の痺れは、家の外から当該宅、あるいはこの僕を見ていたものの霊気に反応していた。だから、家の中に入った僕はその出処を見失ってしまったのだ。もしも家の外で僕を見ていたものが人外の存在であったなら、八巻家に一度でも侵入した痕跡を僕は辿ることが出来た筈である。しかしその者が人間だったから、僕はその気配を感じ取ることが出来なかったのだ。あの夜、彼女が直接僕の前に姿を見せるまでは。 「黒井七永(くろいななえ)が帰ってきた」  呟いた僕の隣で、文乃さんは静かに長く息を吸い込んだ。 「ビデオの映像を見た八巻家の面々も、北城くんもこの僕も、本当は最初から七永が扉を開けている姿を見ていたんだと思います。だけど僕たちはずっと」 「七永の持つ幻覚能力に騙されていた……」 「そうです」  ――― 黒井七永  それはかつて、僕の隣に座る西荻文乃と共に、この国の頂点に君臨し続けた大霊能力家系、黒井一族の始祖である。不滅の肉体を持ち、己の欲望に忠実な生き方で多くの人間を巻き込み、不幸のどん底へと叩き落として来た。その比類無き幻覚能力は数多の霊能者を退け、ついには僕が籍を置く拝み社集団「天正堂」の代表を屈服させ、そして神の子と呼ばれた天才霊能者をも跳ね除けた。全く寄せ付けなかった。  今から十八年前のことである。  そんな、と呼ばれた黒井七永を止めたのは誰あろう、ここにいる文乃さんに他ならない。彼女は血を分けた妹の凶行を自らの命と引き換えに止めて見せたのだ。この僕、新開水留とその母 依子(よりこ)が開いた霊穴に飛び込むという、誰もが想像し得なかった決死行の果てに。 「新開さんが見たのは、生きて動く七永で間違いありませんか?」  文乃さんが問うた。 「幻覚ではなく、生身の肉体を伴った人間か……という意味ですね?」 「はい」 「おそらくそう思います」  ビデオカメラの映像同様、あの時も七永の幻覚を見せられていた、という可能性は否めない。だがしかし……とも思うのだ。  十八年前僕たちの前に現れた時、七永は十代の少女の姿をしていた。文乃さんが永遠に二十四歳であるように、七永もまた若き日の自分を保持し続けている。ただし七永は度々自身の姿を変えて見せてくる。時には十代の少女であり、時には全身に黒い衣服をまとい、大きな帽子を被った大人の女性だったこともある。だがそもそも八巻家において僕に幻覚を見せるつもりだったなら、例えどんな見目であろうと自分の姿を曝す必要はなかったはずである。何某かの目的を持って僕やチョウジの調査員を謀るつもりなら、いつまでも姿を見せないでいる方が合理的なのは間違いない。意図的に姿を現した以上、あの時の七永はやはり本物だったと僕には思えるのだ。 「それに」 「……それに?」 「七永だけじゃなかった」 「え?」 「文乃さん」 「はい」  僕は俯き、文乃さんの視線から逃げた。  怖いです……そう言いかけた言葉を僕はぐっと飲み込み、そしてしっかりと顔を上げて文乃さんを見つめ返した。 「また、お力をお借り出来ませんか」  僕がそう言うと、文乃さんは自身の傍らに置いていたトートバッグから何やら紙袋を取り出して左手に持ち、右手を中に差し入れて下唇を優しく噛んだ。彼女の目はキラキラと煌いていた。やがて僕を見つめた文乃さんは、 「はいっ」  紙袋から引き抜いた右手を僕の顔の前で開いた。カラフルな金平糖だった。 「これを食べると元気が出ます」 「……」  僕は恭しく両手で紙袋を受け取り、ひと握りした金平糖を一気に口の中へ放り込んだ。文乃さんは明るい声で笑い、彼女自身も僕を真似て幾粒かの金平糖を食べた。  ガリガリ、パクパク、ガリガリ、パクパク、ガリガリ、パクパク、ガリガリ。  打ち勝てるのか、と自分の魂に問いかけた。  この恐怖に。  立ち向かえるのか。  あの圧倒的な存在に。    ここで待っていてください。  僕はそう声をかけて八巻家の玄関から外に飛び出した。桃花さんが立ち上がって追いかけて来ようとするのを、僕は後ろ手で制し無理やり玄関の扉を閉めた。門扉から出て行く七永の後ろ姿が見えた。 「待て!」  そう声をかけた途端七永の身体がふわりと飛び上がり、八巻家の向かいのお宅の屋根に飛び乗った。 「ああ!」  僕は見た。向かいの屋根の上に、もう一人別の人物がこちらを向いて立っていた。「君は……」  七永は振り返り、その人物の隣に立って僕を見下ろした。星のない漆黒の夜空をマントのように背負いながら、その親子は無様に震える僕を見つめていた。 「残間(ざんま)……(けい)」  久し振りに見た彼女の顔には、かつて僕の自宅を訪れ結婚の報告をしてくれた時のような、迸る熱情はどこにも見られなかった。心と魂を打ち砕かれたような残間さんの隣で、あくまでも少女の姿をした母親が寄り添い立っている。 「どういうことなんだ。何をするつもりだ! 残間さんをどうする気なんだ!」  この時僕の頭には、夜な夜な八巻家を脅かす怪現象のことなど微塵にも思い出されなかった。何かが起こる。何か途轍もない事が起きようとしているのだと、真っ赤な光を放ちながら、僕の身体の中で警報器が爆音を轟かせていた。  僕の師である三神三歳(みかみさんさい)、この世に舞い降りた奇跡ともいうべき三神幻子(みかみまぼろし)、人外と呼ばれた二神七権(ふたがみしちけん)、そして実姉である西荻文乃でさえも太刀打ち出来なかった本物の悪魔がついに、帰って来たのである。  残間京についてはいくつか説明すべきことがある。  まずは、二年前の平成二十八年(2016年)に起きた「六文銭事件」だ。残間さんは、当該呪禁師団体に所属していた術師・日隠(ひかげ)と言う名の男性と出会い、交際を経てその後結婚の約束を交わすまでに至った。だが、二人の出会いそのものが六文銭による仕組まれた罠だった。当時六文銭を率いていた壇滅魔(だんめつま)の口から真実を引き出した僕たちは、辛くも奴らの野望を打ち砕くことに成功した。だがその折、団体の終焉とともに日隠は命を落とし、傍目から見れば……いや残間さんから見れば、僕たちは婚約者を屠ったケダモノとして映る結果となったのだ。むろん僕は可能な限り、事件のあらましとやむをえない事情を説明した。理由もなく日隠を死に追いやったわけではないこと、六文銭が残間さんを利用しようと企んでいたこと、だが彼女の人生にとって好ましくないを隠した上でのアフターケアとなった事で、恋人殺しの烙印を押されたまま残間さんを納得させることは出来なかった。僕はひたすら頭を下げ、心から詫びた。彼女の愛が本物であった以上、日隠の死にどんな理由を付けた所で喪失という真実は覆らないのだ。僕の声は、残間さんに届かなかったに等しい。 「新開さんに責任を取ってもらおうとは思いません。直接あなたが殺したわけではないことも分かりましたし、九坊事件が続いていたと言われてしまえば、納得するしかありませんから」  残間さんはそう言って僕を責めなかった。だが、 「だからといって、全然大丈夫ですよ、何とも思ってませんからなんて、そんな言葉が私から聞けるとも思わないで下さい」  そうはっきりと告げられた。 「もちろんです」  僕は頭を下げたまま答えた。「許して下さいとは言いません。責任がないとも思っていません。これは僕個人にとっても天正堂という団体にとっても」 「どうでもいいです」 「……」 「誰かになんとかしてくれとか、もうそういうの期待してませんから」 「残間さん、これを僕が言った所であなたの心を癒すことは出来ないかもしれない。だけど僕はいつでもあなたの」 「何ですか!?」 「……」 「私の何ですか? 新開さんが私と結婚してくれるんですか?」 「いや……」 「馬鹿にしないでください。そんなの私からお断りです。私はそんなこと望んでなんかいません!」 「僕はただ」 「私はあなたに責任を取ってもらわないといけないような人間なんですか!? 私は怒ることもしちゃいけないんですか!?」  もはや僕には、ただの一言も返す言葉はなかった。  残間京という女性には、常に寄り添うように不幸がついてまわった。それは彼女と初めて出会った平成二十二年(2010年)からそうだった。彼女は何を隠そう、あの黒井七永の娘なのである。  まるで、命を弄ばれるかのような魂の蹂躙だった。悪鬼によって謂れのない呪いを打たれ、突如僕の目の前で絶命したはずが、残間さんは己の肉体に宿る七永の霊力によって息を吹き返した。それ自体はひょっとしたら、喜ぶ余地のある運命のいたずらと言えたのかもしれない。だがすぐにまた、残間さんは首を捩じ切られて呆気なく死んだ。そして再び、七永の魂によって生き返らせられた。この時点で僕はもう、残間京は普通の人間として生きて行くことが出来ないかもしれないと、その後の彼女の人生を憂い始めていた。  そして二年後、平成二十四年(2012年)に起きた「獣人事件」に巻き込まれた残間さんは、連続殺人犯である東刑事から永遠の命に目を付けられ、何度も何度も薄暗い廃ビルの片隅で殺された。玩具にされた残間さんの心が壊れたのはこの時だった。  拝み屋として僕は、そして師である三神三歳は、以前から残間さんとの対面談話による心のケアを行いたいと常々考えていた。彼女の関わった事件を紐解く時、単なる偶然、単なる不運では片付けられない人間関係の複雑さから、知らぬ存ぜぬを突き通すことが出来ない責任感を僕たちは抱いていたのである。  その責任が、一体どこまで個人として背負うべき性質のものだったのか、それは、今でも分からない。職業的な立場や人としての正義感だってもちろんあるだろう。だがそれ以上に僕たちは、自分の無力さによって傷つき壊れた人々の存在を容認できなかったのかもしれない。  やはり僕は傲慢だった。  少なくとも、残間京本人にとってはどうしよもなく、僕は傲慢だったのだ。
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