4:依頼人

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4:依頼人

「分かりました。では、そのように」  電話を終えた僕の側へ、寄り添うように妻が立った。薄い皮膚の下に無理やり不安をしまい込んだような顔をしている。どうだったと小声で聞かれ、僕は無言のまま頷いて応じ、ダイニングテーブルに妻と向かい合って座った。目の前には、僕が電話で話している間に妻が入れてくれたであろうホットコーヒー。十月に入って夜は急に冷え込むようになり、こういった心遣いに僕は心底ほっとする。と同時に、心底怖くなるのだ。 「十八年前の……あの事件に関連した全ての人間に警告するそうだよ」  僕の言葉に、妻は表情を変えずに小さくコクコクと頷いた。 「先輩」  僕は妻を、大学時代に倣い今でも先輩と呼ぶ。「絶対に僕が守りますから」  言うと、妻は青白い顔に照れたような笑みを浮かべて、 「懐かしいね」  と答えた。「だけど……正直もう思い出したくもなかったよ」 「ええ」  だから、怖いのだ。今が大切過ぎて、妻と娘が大事過ぎて失うことが怖いのだ。失うかもしれない未来が怖いのだ。  後に「黒井七永事件」と呼ばれることになる一連の事件については僕がまとめた資料を参考にしていただくとして(参考資料、『かなしみの子』)、その後の七永に関する事実を端的に話すとなれば、言えることはたった二つしかない。平成二十年(2010年)、「黒井七永事件」の二年後、霊穴に落ちて消えた七永の姿が目撃された。だがそれは不滅の命を持つが故の完全なる復活ではなく、言うなれば肉体のみがあの世から戻って来た、そんな状態だった。七永は魂を持たない別人格として蘇り、名前を偽ることなく音楽家として華々しい芸能活動を行っていたのである。この時七永はしもつげ村で僕や坂東さんたちの前に姿を現した時と同様、二十代女性の見目をしていた。そんな彼女の所属するグループは「NIGHT GARDENER」と言って、数年間の活動を経て突如解散した。七永はバンドのボーカル兼作曲家として輝かしい功績を残す一方、解散後は二度と公の場に姿を見せることなく行方知れずとなっていた。  では七永本来の人格、その魂はどこへ行ったのか。その答えが、残間京だった。七永は娘である残間京の肉体に入り込み、己の持つ不滅の命を分け与えることで消滅の危機から免れていたのである。だが、生物としての主導権は常に残間京にあって、彼女の命が他者の手で脅かされない限りは七永が表に出て来ることもなかった。残間さんは普段、書店に務める明るい性格の持ち主で、僕たちがひたひたと迫りくる恐怖から目を背け続けていられたのも、彼女の人間性に甘えていたからに他ならなかった。僕たちはどこかで、この現状がいつまでも続けばいいと願っていたのだ。明日どうなるさえ分からない不安を抱えながら生きる、残間さんの人生を犠牲にしたままで。  だから七永に関することは、これしか言えない。肉体のみが甦り、魂は娘と共にあった。そして肉体は芸能界を去ると同に行方知れずとなり、あの事件からいつの間にか十八年が経過していたのだ……と。 「驚いてらした?」  と妻が問うた。 「はい。でも」 「でも?」 「……そうか、って」 「……」 「いつかこうなる事は分かってた、そんな風に聞こえました」 「そう……だね」  電話の相手は、僕の所属する拝み屋集団「天正堂」の代表、土井零落(どいれいらく)氏である。土井さんは先代代表・二神七権(ふたがみしちけん)の実子で、この春「天正堂」へと移籍した元チョウジ、柊木夜行(ひいらぎやこう)の実父である。自然界の摂理から零れ落ちたようなイレギュラー、天才霊能者・三神幻子を除けば、この日本と言う国において最も力のある拝み屋と言っていい。僕の師である三神三歳が「六文銭事件」を機に現役から退いたことを考えると、土井さんの両肩には途轍もない重圧が圧し掛かっているであろうことは明白だ。だがそれでも土井さんならばと、また他力本願な事を考える自分が嫌になるが、実際そう思ってしまうだけの実力者であることは誰もが認める所だった。 「三神さんは?」 「……」  妻の問い掛けに、僕は首を横に振った。この場合で言う三神とは師である三神三歳のことだ。だが現役から身を引いた彼を、僕は自分からこの件に巻き込むつもりはなかった。むろん、通達はする。注意勧告も聞き入れてもらう。だが助力を仰ぐ気はなかった。 「文乃さん、三神さん、幻子さん、六花さん、めいちゃん、坂東さん、私。あの事件に関わりを持って今も生きているのは、新開くん、君を入れて八人だね?」 「はい。紅さんも、玉宮さんも、天寿を全うされた。チョウジの壱岐課長はあの事件で命を落とされ、その後二神さんも逝ってしまわれた。僕たちはたった八人で、またあの悪魔と向かい合わなければならない」 「しんか……」 「いや違う。三神さんも、六花さんも、坂東さんも、めいちゃんも、そして先輩も。本当は、天正堂とは無関係な人たちはもう関わりあいを持つべきじゃない。だから僕が何とか」 「でもさ」  僕の言葉を遮るように妻が言う。「君の前に現れた七永と残間さんはさ、その時は君に何もしてこなかったんでしょ?」 「それは」 「もうさ……これ以上何も起こらないかもしれないじゃない?」 「先輩」 「だってさ」 「先輩」 「だって」  妻の目から大粒の涙がポタポタとテーブルに落ちた。僕は震える妻の手を両手で握った。 「もちろん、その可能性もあります。魂を取り戻し、七永は残間さんと親子二人で再出発を図ろうとしているのかもしれません。だけどいずれにせよ僕は、気を引き締めて油断する気はありませんから。だから、安心してください」  妻は答えず、反射的な動きで小刻みに頷いた。僕は妻の入れてくれたコーヒーを飲みながら、ぐっと奥歯を噛み締めた。白々しいと自分で分かっていた。この先何も起こらないなんて、そんな可能性は万に一つにもあるわけがなかった。  それから二日後、八巻家の騒動が落着したとの報告を受けた。復活を遂げた七永の姿を見た翌日から、午前二時になっても玄関扉は開かなくなったそうだ。念の為にもう一晩確認してもらったが、結果は同じ。僕は家主である真治さんと話をし、また異変が起きたら必ず連絡をくださいと両手を差し出し、固い握手を交わしてこの件に終止符を打った。あの晩一緒に扉の前に陣取った桃花さんからは、この騒動にはどんな原因が隠されていたのかと聞かれた。当然の疑問だと思う。だが僕は、 「ある種の霊道のようなものでした」  ともっともらしい噓をついた。霊の通り道に八巻家の玄関があった為に、夜毎ひとりでに開いていたのだと。桃花さんは怯えながらも何となく釈然としない表情ではあったが、「閉じておきましたので」と僕が言ったことで一応納得してくれた様子だった。その後実際に八巻家の玄関扉が開くことはなくなったわけだし、八巻家の味わった恐怖は時間が解決してくれるだろう。  むろん、何故七永が扉を開けていたのかについては何ら確証のある答えを得られていない。それが例えばチョウジや天正堂、つまりこの僕を引っ張り出す為の手の込んだイタズラだとしても同じことだ。そこから先の目的が分からず、何もない空間にふわふわと不安だけが浮かんでいる状態である。  だが、ここで立ち止まってばかりもいられなかった。  この日、天正堂本部から直電が入り、 「新開水留ご指名で仕事の依頼が来た」  と聞かされた。既に会った事のある人物からの依頼かと思い相手の名前を尋ねると、 「若い女だ。何度聞いても名前を言わないので断ろうとしたが、話をつないでくれれば伝わるはずだから、と」  そう言われ、気になって僕に連絡を寄越したという話だった。本部から僕に電話をかけて来た相手の名は、丸子直路(まるこなおじ)。頭に幾つも超が引っ付く高級料亭を営むオーナーであり、僕なんかより年齢も経験も豊富な拝み屋だ。階位は現在、第四。 「名前を言わないのは何故ですか」  問うと、 「知らんよ」  と丸子は若干不機嫌な声を出した。「うちの店を利用する政治家の娘が紹介したらしい。友人が困っているから助けてほしいとね。だが娘が言うにはその友人、君のことを知っているんだそうだ。興味が湧いたんで私が話を聞こうとしたんだけどね、これがどうにも頑固で」  口調に何かしらの含みを感じる。ただ単にフラれた腹いせ、ということでもない気がする。 「おいおいおい」  と丸子は言う。「変に勘繰らないでくれよ、君が黙ると怖いんだ」 「やめてくださいよ」 「本当さ。で、どうする、受けるか?」 「話を聞くだけ聞いてみましょう。本当に相手が困っているんなら、僕に断る理由はありません」 「はは、君らしいな。だがその内過労で死ぬぞ」 「それはいわゆる、丸子直路流の占いという奴ですか?」 「可愛い後輩に対する先輩からの忠告だよ。いや、しまった、これは失言だったなぁ。君は僕よりも格上の拝み屋だった、そう言えば」 「ふふ」 「……いつかのサンゴ礁の御返しさ」 「あはは」  言葉面だけを見れば痛烈な嫌味なのだが、この丸子からはそれ以上の可笑しみを感じる。嫌味をそのまま嫌味として言っていない、そんな人間的な面白さが彼の持ち味かもしれない。普段丸子が相手にしている国政の怪物たちの懐に入る為には、どうしたってこういう外連味が必要なのだろう。当然、僕が身に着けることは無理なのだけれど。  新たな依頼人と待ち合わせたのは、向こうが指定したファーストフードチェーンだった。時刻は平日の昼間だが、かなりの賑いに店内は混雑していた。相談事を受けるに適した場所ではないし、僕自身こういった若者向けの場所が苦手と言うこともあって、かなり居心地が悪かった。 「よいしょ」  突然、トレーを両手に持った二人の若い女の子が正面の席に座った。高校生くらいだろうか、ひとりは制服、もう一人もそれに似た格好だ。僕は慌てて周囲に目をやり、空いている席がないかを確認した。移動できるならしようと思ってのことだ。突然の相席に、失礼な、と怒りを感じるよりも先に僕の腰が引けてしまった。 「ああー、そのままそのままー」  立ち上がった僕を、正面右側に座った制服姿の少女が呼び止めた。 「……え、何で?」  素直に問うと、 「新開さんでしょ」  とその子は無遠慮に僕を指さした。 「あ、ああ」  僕は座り直し、「どうして僕の名前を?」と聞いた。 「丸子って人に聞いたのよ」  当たり前でしょ、という顔で少女は答え、訝る僕の視線など何も気にならない様子でポテトとシェイクを食べ始めた。肩より長い茶髪、ゆるふわパーマ、漫画くらい大きな眼鏡にはおそらくレンズが入っていない。惜し気もなく丸い額を全開にし、テーブルを見下ろす両目は伏し目がちなのに大きさをまるで損なわない。 「……」  視線を左側にスライドさせると、制服少女にさらに輪をかけて風変わりな女の子がじっと僕を見ていた。灰色のショートボブ、顔の半分を覆う黒マスク、そしてバカでかいヘッドホン。詳しくはないが、おそらくカラコンを入れているのだろう、派手なメイクに縁どられた両目とも、瞳の色がブルーだった。 「なん……だよ」  僕はもうどう対応してよいか分からず、この時点で既に依頼を断ろうと思い始めていた。 「は、話だけでも聞こうか」  ポテトを頬張る制服少女にそう言うと、彼女は僕を見ようともしないで、 「依頼人はこっち」  とマスク少女に顎をしゃくった。 「あ、いやでも」 「聞こえてるよ、これ」  と、制服少女は言う。「この子のヘッドホン、別に音楽聞いてるわけじゃないんで」  言われたマスク少女の眉間が曇る。 「フー」  という溜息がマスク越しに聞こえた。僅かにだが少女の口元が上下しているのが見て取れた。 「話しかけられるとウザいからつけてるだけなんだって」  そう説明するのはしかし、制服少女の方だ。 「へ、へえ」  話しかける側になっても外さないのは何故だい、と聞こうとしてやめた。言ったが最後、最悪の状況が待っている気がした。 「あのさ」  とポテトを食べながら制服少女が言う。視線はポテトを見据えたままだった。「……本当に、あんたが新開さん?」 「へ?」  意外な質問に僕はどう答えるべきが迷った。  僕は新開だ。  僕が新開だ。  しかし視線を持ち上げた制服少女の目に浮かんでいるのは、はっきりとした疑いの念だった。
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