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6:老人
通い慣れた喫茶店へと場所を移し、蟹江彩子さん、京町泰人くん両名から詳しい話を聞いた。だが、話を始めてほんの数分が過ぎたあたりで僕の携帯電話が鳴った。
「ごめん」
席を離れて応対に出ると、
「柊木です、今、少しだけでいいですか」
とやや慌てた様子の声。相手は元「広域超事象諜報課」の調査員で、現「天正堂」の拝み屋、柊木夜行である。序列の階位は、第七。
「どうされました」
「古巣から仕事を手伝ってくれと言われています。こっちで急ぎの案件がないようなら、新開さんの許可を貰って助っ人に向かおうかと」
「チョウジから?」
「山田が、珍しく弱音を吐いてるみたいなんです」
「あの信夫が」
「ふふ、新開さんにとってはあまり聞きたいくない話でしょうね。だけど私にとっては、ほんの少し前まで苦楽を共にした同僚ですから」
「別に他意はありません、僕も信夫が弱音吐くタイプには思えなかったので。先日北城くんと話した時も、今チョウジがてんてこまいだと言われて仕事を振られたばかりなんですよ」
「聞いてます、その節はありがとうございました」
「柊木さんから礼を言われることではありません」
「で……どうでしょう?」
「構いませんよ、持ちつ持たれつで行きましょう」
「そう言っていただけると助かります。ありがとうございます」
「それより柊木さん」
「はい?」
「例の話は、土井代表から?」
「……何ですか?」
「いえ、まだなら結構です」
「何ですか?」
「日を改めて」
「はあ……新開さんがそれで良いなら」
「すみません」
「いえ、こっちの件も詳細が分かり次第新開さんに報告入れますね」
「分かりました。お気をつけて」
「新開さんも」
通話を終えた後、何とも言い難い嫌な気配が胸の奥に留まり続けた。モヤモヤとした不安のようなものだが、ただ漠然とした無形のストレスではない気がした。空気が入る前の、ぺしゃんこの風船を飲み込んでしまったように感じる。風船がいざ膨らんだ時、そいつはきっと恐ろしい形をしているとあらかじめ知っているかのような、そんな予兆だった。
席に戻ると、蟹江さんが器用にマスクの下側からストローを差し込んでオレンジジュースを飲んでいた。京町少年はスマホを弄って下を向いている……やはりどこからどう見ても女子高生にしか思えない。
「マスクは取らないの?」
問うと、蟹江さんは眉根を寄せて、
「フー」
と溜息で怒った。
「サイコの顔見たいんじゃない?」
京町少年が言うと、蟹江さんは余計に怒った眼で僕を睨んだ。
「いや、別に」
もし今後、街中で蟹江さんを探さねばならないなんて事態に陥った時、万一マスクを外していたら僕にはきっと探し出せないだろう、ただそんな風に思っただけである。
「フー」
大袈裟に溜息を吐いて蟹江さんがマスクを外した。
「……」
予想したよりも幾らかは幼い顔立ちの人だった。マスクに覆われていない目元のメイクが濃いせいで意外に感じたが、本来の彼女は丸顔で、優しい雰囲気を持っていた。
「可愛いでしょ」
有無を言わせぬ口調で京町少年が言う。
「そうだね」
答えると、
「もういい?」
尋ねながらも蟹江さんは、僕の返事を聞かずに再びマスクを着用した。「……これつけてないと息苦しくなるから」
「そう、ごめんね、全く問題ないよ、ありがとう」
言うと、蟹江さんは素直に会釈してまた器用にオレンジジュースを飲んだ。
主に話をしてくれたのは京町少年だった。だがやはり、どれだけ詳細を聞き出そうとしても例の男の情報は出て来なかった。突然二人の前に現れ、舐められたいんだって?、というわけの分からない台詞を吐いて消えた謎の男。蟹江さんはその男から感じた恐怖と、夢の中で感じた恐怖が同じであると言う。しかし、ほとんど毎夜見ているというその夢に例の男は出て来ない。出て来るのは顔の見えない、「僕」だけ。
予知夢だろうか、とも思った。蟹江さんは未来を視たのかもしれない。こうして今僕たちは出会い、これから先、僕は夢の中の台詞を彼女に向かって言うのだろうか。
「僕を探してくれ、新開水留を探し出せ……か」
だが僕たちはもう出会っている。仮に近い将来何か危機的な状況に陥ったとして、僕が僕を探せなどと口にする条件が成立するのは、一体どんな場面だろうか?
「とりあえず、実際に君たちの前に現れたっていう若い男の特徴をもう一度聞こうか」
男はサングラスをかけていたという。上は薄手の黒っぽいジャンパーを着て、下はベージュのチノパンを履いていた。話しかけて来る間中ずっと上着のポケットに手を入れていた事から、チャラいナンパ男だと京町少年は思ったそうだ。
「つまり、もしその男がサングラスを外して別の格好をしていたら、側に寄って来ても君たちは気付けない?」
問うと、ぎゃー、と京町少年が悲鳴を上げた。
だがその可能性は高い。
「蟹江彩子って君だよね、待っててね、もうすぐ君の望みを叶えてあげるよ」
この言葉通りであれば「男」はまた必ず現れる。しかしその時全く同じ格好をしているとは限らないのだ。もしこれがSNSなどで蟹江さんに目を付けたストーカーの類なら、僕に対応出来るとは思えない。
「望みって、何のことだか見当がつく?」
この質問にも、蟹江さんは首を傾げた。
「……分かんない」
「SNSを通してそれらしいことを言った記憶はないかい? 別に何だっていい、アレが欲しい、これが食べたいとか」
「そんなの毎日だよ」
「そうか……そうだよね。じゃあ、京町くん」
「ん?」
「君は蟹江さんから相談を受けて、どう思った?」
京町少年は手に持っていたスマホをテーブルに置いて、腕を組んだ。
「……」
「……どうしたの?」
真剣な目で思い出している様子だったが、些か眉間に縦皺が寄り過ぎだ。そこまで深刻な質問だっただろうかと心配になる。
「私のお父さんは、昔から凄く信心深くて」
思わぬ答えに僕は蟹江さんを見た。蟹江さんは友人が何を言い出したのか理解出来ないという顔で京町少年を見つめ、そして僕を見た。
「神頼みが好きな人なの」
と京町少年は言う。
信心深いと言いながら、彼のお父さんは特定の宗派に属してはいないそうだ。しかし、所謂大きな自然の流れ、科学では証明出来ない神がかった力やうねりを信じているのだという。自身が政治家になれたのもそう、目には見えない力に導かれながら努力を続けた結果、自分が人生を賭けるのはこの場所だと信じて辿り着いた場所が政治の世界だった。
「事あるごとに占い屋さんに出向いてって、教えを乞うって言ってた。んで、その事自体を全然恥ずかしいとも思ってないんだよね。なんか、私は自分で努力して運命切り開く方が格好良いじゃんって言うんだけど、お父さん真顔で、人間ひとりの力で切り開ける程運命は生易しいもんじゃないって、なんか怒ったりするし」
だから……と京町少年は言う。「天正堂? 新開さんたちの団体のことは私前々から知ってた。拝み屋さんが家に来たこともあるし」
「そうなんだね。その人の名前、分かる?」
「分かんない」
「年寄り?」
「ううん、若く見えた」
京町少年の父親が政治家として拝み屋を頼りにしたというのであれば、恐らくその相手は丸子直路だろう。丸子はまだ五十手前の年齢ながら、天正堂が標榜する吉凶占い専門の拝み屋としてかなり早い段階から才覚を発揮していた。今や団体を牽引しているのがその丸子だと言っていい。かつて三神派の名の下に、心霊現象に苦しむ人々に寄り添い日夜霊障と戦い続けた裏の一派とは違い、国の中枢にまで喰い込み業界での立場を盤石のものに変えたのが、丸子直路を始めとする表の拝み屋たちだった。
「お父さんとうちとは古くから付き合いがあったんだね。じゃあ、京町くん自身はどうして、蟹江さんの話を聞いて僕らを思い出したのかな?」
「思い出してないよ」
京町少年は頭を振る。「私が悩んでるの見てね、お父さんが、相談があるなら言いなさい、良い人を紹介するからって。ふふ、そこは普通お父さんが相談に乗らない? 変な親でしょ」
そこで、僕たち天正堂へと話が繋がったわけである。
「うーん」
しかしやはり、僕は納得出来なかった。「君がお父さんにどこまで話をしていたかにもよるけど、それでもやはり、どうして僕が呼ばれたのか分からないな。いや、違うんだ。蟹江さんが夢で僕の名前を聞いたこと、お父さんが、伝手を頼って渡りを付けた拝み屋衆に僕がいたこと……このこと自体は、もういいんだ。ご縁と言うものはそうした不思議なつながりの上に成り立っているものだから、僕たちは出会うべくして出会ったんだろう。それはいい。だけどね、蟹江さん、京町くん。君たちの悩みが本物だと思うから打ち明けるけど、僕の専門は霊障被害だ。つまり、この世ならざる者を相手取る仕事だ。しかしこれまでに聞いた君たちの話の中にそれらしき気配は感じない。だから困ってるんだ……何故、僕なのか」
この日の晩、蟹江さんから引き受けた依頼に関する諸々の情報を整理すべく、自宅ではなく仕事部屋に立ち寄ったタイミングで柊木さんから連絡を受けた。
「新開です」
「柊木です。お疲れさまです。新開さん、ちょっと、厄介なモノに巻き込まれたかもしれません」
「どうされました?」
チョウジから助力を請われたという仕事内容についての相談だった。柊木さんは言う。
「新開さん、大鎌崇宣教って、ご存知ですか?」
「もちろん」
崇宣教自体は戦前からある宗教団体だ。教義としては神託を一番高い位に置いて布教活動を行っている、非仏教系の少数派団体として有名である。戦後になって大鎌姓を名乗る人物が教祖として独立し、大鎌崇宣教と名を変えた。信徒の数で言えば母体を凌ぐと言われているが、そもそもの分母がそこまで大きな団体ではなく、近年ではあまり市井の話題に上ることもない。
「崇宣教が、何か?」
「現在代表を務めているのが大鎌相鉄、この相鉄がですね、実はひと月程前から行方不明なんだそうです」
「え、相鉄さんてかなりのご高齢じゃありませんでしたか?」
「八十八、だそうです」
「行方不明なの?」
「はい」
「警察は?」
「もちろん捜索はしているそうなんですが今の所手掛かりはありません。現在信徒がカラーチラシを印刷して地元の小売店舗に張り紙の掲示を依頼して回ってるそうですが、こちらも進展はないそうです。かなりの高齢ですし、認知症の気もあったようで、本来ひとりではそう遠くまで歩いて行けないらしいです。なのですぐに発見されるだろう、という大方の予想だったのですが……すでにひと月が経過しています」
「それは心配ですね」
「問題はここからです。今回チョウジの方に事案が回って来た経緯なのですが、実は、目撃証言があります」
「……え?」
「ただし」
「まさか、霊体が目撃されているということですか?」
「そうです。地元民からの証言が挙がってきています」
「なら」
「いえ、話は簡単ではありませんよ。新開さん、崇宣教の本部がどこにあるかご存知ですか」
「えーっと、確かF区です。下町の、住宅区の奥ですよね」
「そうです。大鎌相鉄の霊体は、その本部建物から出て、また中に入って行くところを地元住民に目撃されているんですよ」
背中に水を垂らされたような悪寒が走る。死んだ人間の魂が、自分の属する宗教団体の建物に出入りしていると柊木さんは言ったのだ。
「つまり、それ……」
「十中八九、大鎌相鉄は崇宣教本部の中で死んでいる。しかし、教団は警察の介入を拒んでいます。全ての優先事項の上に御神託を持って来る彼らの姿勢はかなり強硬なものがあり、令状もなしに本部建物の捜索を行うことは出来ないだろう、というのが所轄の見解です。はっきり言って、チョウジとも天正堂とも相性の悪い相手です。新開さん、どうしたらいいですか?」
「ど」
どうするもこうするも……全然分からないぞこれは。
そこで人が死んでいると信じて警察を突入させるのか? 何の容疑で? どんな理由で? もし本当に団体施設の中で大鎌相鉄が死んでいるとするならば、教団がその事実を認めない、公表しない理由は一つしかない。その場合、簡単に遺体が発見される状態で放置しているとは到底考えられない。もし強行突入して大鎌相鉄の遺体を発見出来なかった場合、教団に対する責任を誰が取る。どう取る。
「厄介、ですね」
そう答えるしかなかった。
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