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85:悪魔の言い分
同時刻かそれより少し前、正確な時間は分からないものの、東京に残った坂東さんたちにも異変が起きてた。もしもの事態に備え、九里先生の計らいによりK病院内の一室をお借りしていた一同の顔ぶれは、以下の通り。
坂東美千流、秋月六花、秋月めい、新開希璃、高橋冠者、飯綱瑞兆、木虎祥子、高品春樹、陣之内萌、パン・華である。彼らはこの時、お互いを監視しながらこれまでの事件についての考察を戦わせていたそうだ。
高品くんたちの証言によれば、住友周に憑依されている間、当人には全くその自覚がないという。ただし、飯綱さんには住友周が彼らの肉体に入り込む際、魂の軌跡が目で追えたそうだ。同じくめいちゃんは、憑依した住友周が他者の肉体を乗っ取り言葉を発する間、ふたりの人間の声が同時に重なって聞こえたそうだ。憑依された人間の肉声と、住友周の声である。これらの事実を受け、誰の発案かという仔細までは分からないが、部屋の隅に三脚を立ててビデオカメラを仕掛けることにしたという。
やがて、議題が北城くんたちの話に及んだ時だった。果たして黒井七永の肉体側を殺したのは何者か。本当に北城省吾と矢沢誠二は狂ってしまったのか、あるいはやはり、彼らの肉体を乗っ取り凶行に走らせた住友周の陰謀なのか……それぞれが意見を口にする中、
「防ぐ方法はないんですか」
と、妻が聞いたそうだ。憑依を未然に防ぐ方法はないか、という意味だった。これには坂東さんが首を横に振ったそうだ。
「ない」
「坂東さんでも?」
「俺でもだ」
答えながら坂東さんは歩き、
「どうしてですか?」
尚も尋ねる妻を見ながら六花さんの背後に立ったそうだ。六花さんはこの時椅子に腰かけ、長い足を組んで座っていた、という。
「断片的な情報を組み合わせて考えれば、相手がどうやって憑依を可能にしているかが見えて来る。それが、呪詛だ」
坂東さんは言う。
「呪い、を?」
「そう、呪いだ。呪術を用いて対象者の肉体にチャンネルを開く。分かり易く言えば住友周は、自分が一瞬で飛び込む為の着地点みたいなのを作っていやがるんだ。G町で犠牲になった一般人はともかく、今現在こっちの面子で呪詛による直接的な死者が出ていないのが証拠とも言えるだろう。華が喰らった『憎辨叛』は確かに危うい代物だが、出張って来るのがその道のプロだと分かっていながら呪いを打って来る時点で裏があると見ていい。つまり奴らの目的は呪殺じゃない。オダブツナンマイダに呪詛を打たれた人間は、ただそれだけで憑依対象者になるんだよ」
坂東さんがめいちゃんを見やると、めいちゃんはコクリと頷き返した。
「新開は見逃したようだが、つまり……姉さんもアウトだ」
ぽん、と坂東さんが六花さんの両肩を掴んだ。六花さんは黒目を動かして部屋全体を見渡し、
「……チ」
と舌打ちした。
坂東さんが六花さんの顔を覗き込んだ。
「聞こえてるって言っただろう馬鹿が」
「どこ行ったんだよ」
と六花さんが唸るような声を出した。いや、状況からしてそれは六花さんではなく住友周だった。「……足りないじゃないか、二人程」
「ああ」
と坂東さんが頷いた。「さっき出て行ったよ。やっぱり腹に据えかねるんだとよ。一枚岩じゃないとか言いながら、結局拝み屋って奴はこうなのよ。いや、天正堂がそうなのかな」
六花さんの肉体に住友周が憑依した時、一同が詰めていた部屋から二人の人間が消えていた。その二人とは、天正堂の拝み屋高橋冠者と、六代目飯綱瑞兆であった。
足場が悪すぎた。
墓地の真ん中を縦に割いて、均された道路が山頂付近まで伸びている。その他は大岩と苔むした緑土の広がる急な斜面である。多くの棺を埋め立てた柔らかな土壌である上に、それらすべてを掘り返された今、山道から不用意に足を踏み出す行為は蓮池に立とうとする暴挙に近い。
「新開くん」
信夫が言う。「一応確認しますけど、あれ全員死んでるんですよね」
「高木さんは違う」
と柊木さんが答えた。
「槌岡さんも違うよ」
僕の答えを引っ手繰るようにして、
「じゃあ後は全員死人帰りってことでいいすね」
と信夫は念を押した。「全力で反撃してもいいんですよね!?」
「ああ、お願いするよ、全力でいってくれ」
答える僕の耳元に顔を寄せ、
「オダブツがいません」
と柊木さんが言った。
「それは」
僕は一瞬言い淀み、溜息を吐き出した。「僕たちと一緒に村に入ったあの人がなんとかするさ」
「阿頼耶識一休ですか!? 来てるんですか!?」
「その筈だけどね。百パーセント信じ切っていいかは僕にも何とも言えないよ」
僕たちを見下ろしながら、住友周らの一団が足音も立てずに山を降りて来る。その顔には憎悪もなければ、これといって分かり易い表情も浮かんではいなかった。
「新開」
七永が振り返って僕を見た。「……答えを見つけたらまた会いに来て。それまでは生かしておいてあげる」
「……何を言ってるんだ?」
「行きなよ」
「え?」
「あんな連中私一人で何とでもなるよ。あんたはそこで泡喰ってる親父と切り札の女を連れてここを離れな」
まさか、という思いが強かった。
あの黒井七永に命を守られる日が来ようとは夢にも思わなかった。この瞬間が訪れるまで、僕にとって七永は世界で最も恐れるべき相手だったのだ。十八年前に起きた『黒井七永事件』を生き延びた人間ならば誰もが僕と同じ感想を抱いたはずで、だからこそ、あの時いなかった信夫と柊木さんは僕よりも少しだけ冷静でいられたのだろう。
「行こう新開くん」
「行きましょう」
二人に腕を引かれ、父と鈍色襟紗を連れて急な山道を下った。正直に言えば、いつでも憑依される恐れのある、もう一人の住友周を連れ回すことに危機感があった。だが七永の言う通り、住友周を葬り去ることが出来るのもまた鈍色襟紗を除いて他にいないのだ。
僕たちは走って山を下り、その足で名井神社へと向かった。鳥居をくぐり、社前の境内で倒れ込んだ僕たちは全身で深呼吸を繰り返した。汗が噴きだし、眩暈を起こしそうだった。
「やっぱり、あれだけの死人帰りにかかってこられたら、さすがにきついっすよ、この人数じゃ」
信夫が言う。
「でも、冷静に考えたら、戻って来るだけでしょ」
柊木さんは息を切らせて答える。「無力化しちゃえば何日かは死体のままなんでしょ」
「いや」
と信夫は否定した。「オダブツは阿頼耶識に倒されてから復活するまでの期間がとんでもなく短かった。木虎先生と奴らでは何かが違うんだ。個体差があるとするなら、住友徳重あたりにも手こずる可能性が高いっす」
「戦闘要員ってこと?」
「っすね。それに高木さんと槌岡さんっていう人質も取られてる。坂東さんみたいな大雑把な殲滅力は却ってこっちが足元をすくわれますよ。どうやって住友周だけをぶっ倒すかですね、問題は」
「新開さん、何かいい案はありませんか」
柊木さんに問われ、僕は寝転がった状態から上半身を起こした。
「三神さんの事が頭から離れません」
「それは」
確かに、と言って柊木さんたちは黙った。僕の考えでは、七永は今朝合流した時から三神さんに化けていたのだ。その場合、本物の三神さんが現在どのような状況下にあるのか全く想像がつかない。名井神社へ向かって来る途中、走りながら何度も電話をかけたが出てはくれなかった。いつ何時だってツーコールで出てくれた、あの三神さんがだ。
「水留」
呼ばれて顔を上げると、父は僕ではなく社の方を向いていた。
「あ!」
柱の陰に、顔に呪符を張り付けた黒衣の女が立っていた。死んだ僕の依頼人、蟹江彩子の鉢割れである。六度=開けると死ぬ箱から生み出された悲しき生命体だ。
「追って来てたか」
信夫が顔を歪めて嘆いた。「追い付かれるの早えー」
「君は」
僕は立ち上がって黒衣の女を見つめた。「君は、住友周に憑依されてなんかいない。君には君の人格がある。……そうだろ?」
風がそよぎ、女の顔に貼られた呪符がふわりと捲れ上がった。
「憑依されて、いない?」
訝しむ声で信夫がそう発した。
「彼女らは全員が住友周に操られてるわけじゃない」
再びの死を受け入れず、永遠の命を欲する住友周に賛同し、黒井七永に仇名す者として行動を共にする仲間である。鈍色襟紗から聞いた話は、すでにK病院にて信夫たちにも話して聞かせた。だがそれはあくまで鈍色襟紗がそう言ったというだけであり、僕自身が調査の末に掴んだ情報ではない。だが、
「目を見れば分かる。色の無い目にも、感情はある」
僕がそう言った瞬間、
「お前なんかに分かるわけない!」
黒衣の女は表情を一変させ、柱の影から跳び上がった。
「――― な」
僕は自分の目に映ったものに気を取られ、ガードした両腕の上から強かぶん殴られた。幸い後ろにひっくり返る程度で済んだが、黒衣の女が刃物を握っていたら死んでいたかもしれなかった。
「新開くん!」
信夫が駆け寄り黒衣の女に肩からぶつかっていった。しかし女は軽々と飛び退り、第二撃に向けて腰を落として構えた。その手には、刃物ではなく千切れた人間の腕が握られていたのである。
「そいつはまさか」
信夫が声を上擦らせた。腕には衣服がなかった。剥き出しの、白く長細い腕だった。「黒井七永の……」
あの七永が遅れをとる筈がないと思いたかった。だが同時に、惑わされてはいけないと言い聞かせる自分もいた。片腕を失ったからと言って、七永が窮地に立たされているとは限らないのだから。
「何故だ」
と僕は起き上がって尋ねた。「何故君たちはこんな真似をする」
「それを聞いてどうする」
と黒衣の女は文字通り白目を剥いて答えた。
嫌な予感がした。
黒衣の女の気配が、先程までとは明らかに変わっていた。
とそこへ、
「もうやめにしませんか!」
僕たちの背後から、鈍色襟紗が声を上げた。「無意味な争いはやめませんか。あの女が何を目的にしているのであれ、あなたには、ここにいる彼らと争い合う理由などない筈です」
「ぼ、僕たちだけじゃない。今ここにはいないたくさんの人間が傷つき、そして命を落としたんだ。何故なんだ。何故僕たちを巻き込んだ!何故彼らは死ななくちゃいけなかったんだ!」
「近藤護は!」
信夫が前に出た。「お前らに何かしたか!?殺されるようなことをしたか!? 北城省吾に会った事があるのか? パン・華はお前らに何をした? 陣之内萌は! 高品春樹は!」
「上杉さんだってそう」
柊木さんが続ける。「山賀さんだってそう。丸子さんだってそうよ!彼らがこれまでどれだけ人々の為に心身を削って来たのかあなたちは何も知らない!それなのにどうしてあんなに酷いことが出来るのよ!」
「天正堂とチョウジを現場に引き摺り出すことにはそれなりのリスクがあったはずだ。現にこうして君たちの正体は暴かれた。今この瞬間にどれ程の意味があるというんだ!教えてくれ、どんな理由があるんだ!」
天正堂だけではない。そしてチョウジだけではない。五代目飯綱瑞兆の死を皮切りに、双蛇村の人たちもたくさん殺された。僕の妻もまた攻撃を受けた。蟹江彩子も無意味にしか思えない死を遂げた。それらの根底に黒井七永と住友周の因縁があるのだとしても、全く腑に落ちなかった。何故僕たちは巻き込まれたのだ。
「あなたが」
と、黒衣の女は答えた。
……黒井七永を仕留めそこなったのが悪いんじゃない。
「ぼ」
――― 僕?
「僕が?」
「この十年は安らぎの中にいたわ」
と黒衣の女は言う。「でもその安らぎは偽りの安らぎだった。いつまた死という暗闇に上から圧し掛かられる日が来るのか、その不安と戦い続ける毎日だった。……理由? 理由か。理由ねぇ」
黒衣の女は七永の腕を放り捨て、お前らにはあるのか、と聞いた。その声は確かに僕の知る蟹江彩子の声だった。だがその向こう側には、はっきりとした住友周の気配が感じられた。ストーカー被害によって命を落とした地曳世理の血肉として生まれたのが、目の前にいる黒衣の女である。そんな彼女に、この十年間の安寧を語れる筈がないのだ。
「当たり前の顔して生きてるお前らに、生きる為の理由が本当にある? 心の底から生きたいと思ったことがある?」
「あるさ!」
僕は叫んだ。「あるに決まってるだろ!」
「そうかな。脊髄反射みたいに即答したお前の理由がどれ程のものか分からないけど、私には信じられないよ」
「どうしてそんな事言うんだ、死にたい人間なんているわけないだろう!だけど永遠に生きたいなんて思ってない……君たちのように」
「……」
黒衣の女に僅かな表情が戻った。
「約束された死があるからこそ僕たちは懸命に生きてるんだろ!子供の成長が見たい!愛する人と一緒にいたい!一秒でも長く一緒に生きたい!それが理由だろ!それ以外に何がある!」
黒衣の女の口元が、悲し気に歪んだ。
「それ以外に何が、か」
――― 水留!
父が猛ダッシュで黒衣の女に向かって突進するのが目の端に映った。
「父さん危ない!」
腰を低く構えた黒衣の女の右手が、ドアノブを回すように空間をねじり込んだのが見えた。その瞬間父の左脇腹が破裂し、大量の血と内臓が飛び出した。黒衣の女はニタリと嗤い、死人帰りの血肉が毒素となり得ることを証明するかのように後方へ飛び退いた。だが、父の突進は止まらなかった。それ所か父は勢いを保ったまま黒衣の女に躍りかかり、女のマントを掴んで空中で一回転を決めた。肥満気味の体系からは想像もつかないような身のこなしで黒衣の女の向こう側に着地すると、剥ぎ取ったマントを捨てて、
「ここからは私が相手をする」
そう言い放ったのである。
マントの下に着ていた黒いドレスを露わにされ、女は憎々し気に父の方へと向き直った。だが父が一歩分爪先を前に出すと、血肉を恐れてか、じりじりと後方へ踵を滑らせた。
「行くんだ水留、鈍色さんを連れてここを離れなさい」
「だって!」
「見ただろ。父さんはたった今住友周の管理下に置かれてしまった。死にはしないが、君たちにとって不利な状況になったのは間違いない。今すぐここを離れて態勢を立て直すんだ」
「父さん」
「父さんは大丈夫だ」
「と」
「……諦めるな」
「……」
「諦めるな水留」
信夫が僕の肩を掴み、柊木さんが鈍色襟紗の腕を取った。
「また会えるよね」
問うでもなく僕がそう言うと、父は笑って、
「すぐにね」
と答えたのだ。
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