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わが目は涙のためにつぶれ
冷えた空気が喉に流れ込み、ルークは意識が浮かび上がるのを感じた。
睫毛が熱く濡れている。手で拭うと、指の腹にぬるい雫が触れた。雨の匂いは、ない。
涙なんて、とっくに乾いて干からびたものだと思っていた。一人で帰り、ただ蹲っていたあの日を最後に、泣くこともなくなっていた。それなのに。
今さら涙を流すなんて、どうかしている。昼間に変わった少年に会ったから、妙に影響されたのかもしれない。
忌々しい、数年前の記憶。あの町から離れて、漸く音色から、あの悲しみから離れられるとほっとしてからも、何度も夢に見ている。
くだらないとは思うが、どうしようもなかった。あのときのことは自分の中に混じり合って、固まって、すっかり自分の頭や手足と同じものになってしまっている。
瞼にキスし、手足に生命を漲らせてくれた音色は、いつしか雁字搦めに自分を縛り、見張る魔物に成り果てていた。
どうして、こうなってしまったんだろう。
あの笛吹き男が町に来なければ。あの笛の音色についていかなければ。何度も何度も、そう考えてしまう。
……それにしても、今さら涙なんて。
横になったまま物思いに耽っていると、物音がした。ハンスが起きたのだろう。
珍しくもないことだった。
友人が夜中に起きるのは、よくあることだった。今まで、気にしないようにしていただけで。
この町に来てからはそれぞれ、目が見えない者同士や足が悪い者同士で、似たような者の集まった組合にいる機会が多くなっていた。日銭の稼ぎ方を教わったり、食べ物を分け合ったりして、ある程度は単独で行動するようにもなった。
そして、そうこうしているうちに、ハンスとは寝る場所以外で共にいることも少なくなっていた。会話をすることはあっても、昔のように親しげなものではない。近くにいながら、まるで赤の他人のように過ごしている。
昔は、パンを分け合ったり、その日あった出来事や見聞きしたことを話しては、一緒に笑い合ったりしていたというのに。
様子を窺っていると、ハンスは壁伝いに歩き出したようだった。手が壁に触れる乾いた音と、杖をつく音が、途切れ途切れに聞こえてくる。
笛でも吹きに言ったのだろう。すぐにそう分かった。
こんな夜に、無謀なものだ。
ルークは思った。
下手をすれば、獣に襲われるかもしれないのだ。そこまでして笛を吹くなんて、どうかしている。昼間の少年ではないが、死や、そうなるかもしれないことを厭うのが普通ではないのか。
……そうだ。
そこまで考えて、ルークは急に、体の芯が冷えるのを感じた。
昔だったら、よく共に行動していた。多少別々に動くことはあっても、基本的に、すぐに合流していたのだ。それこそ、昼間の少年のように。
朝が暖かな日射しで膚を包み、夜はひんやりとした空気が体を冷やすように、一緒にいることが当たり前だった。一人でそのままいるなどということの方が、普通ではなかったのだ。昔からずっと一緒にいる、友人、なのだから。
それなのにどうして、今まで、放っておいたんだろう。どうかしているのは、自分だって同じじゃないのか。
音は小さくなっていた。ルークはそっと身を起こした。杖を支えに、ハンスが向かった方角へ足を向ける。頭の中にもたげた気持ちに導かれるかの如く、歩いていた。
壁を伝い、杖で周囲を確認しながら進む。緩やかな坂を上ると、杖の先が木の葉に触れた。街のはずれ、橋の向かいにある、小さな森へ向かう方角だ。そっと葉をよけ、音の方へさらに向かっていく。
こうして歩いていると、何だか過去の記憶が重なるように感じられた。
あの笛吹き男の音色についていったとき。確かに自分は、嬉しかった。短く切れたり、長く続いたりする笛の音の美しさ。それに身を任せる楽しさ。気楽さ。あのときほど風を心地よく感じたことはない。これから楽になるのだと、幸せな場所に行けるのだと、そう信じていた。目が見えない自分でも、幸福になれるのだと。そう、信じきっていた。
あのときは、例え死んだって構わなかったのだ。友人と一緒なら、幸福な気持ちになれるのなら。
あんな音色、聴かなければ。いっそのこと、知らなければ。
冷たい風が、顔を撫でた。
「……はは」
歩きながら、何だか可笑しくなってきた。考えすぎたせいかも、夜風のせいかも、静けさのせいかもしれない。急に頭の中がすっきりとして、体が楽になっていった。
笛吹き男の真意は分からない。が、少なくとも大人たちの話からすると、自分らは笛吹き男の復讐に巻き込まれただけなのだ。他の街でも似たようなことがあったと、聞いたことがある。あの音色は、天国に続いているわけではなかった。笛の音についていった子どもらは、あのあとむごい目に遭ったのかもしれない。
自分たちは、幸運なのだ。少し巻き込まれただけで。だから、だからもしかしたらきっと、きっと、良い方向に向かえるかもしれない、なんて。
全部、全部、脆い期待だ。
「天国に行く方が良いだろう」などという考えは、不思議と胸の中を滑っていった。生きたいのか死にたいのかも分からなくなって、ルークはただ、友人を追って歩いた。
前方から聞こえていたハンスの足音が止まる。土と葉の匂いが、冷たい風に乗って鼻に触れた。
音が止まった方へ、足を運ぶ。ややあって、空気が広がった感じがした。杖で探ると、自分の来た方角とその側以外から、木が途絶えて土と落ち葉のみの感触となっている。開けた場所に出たらしい。微かに、川のせせらぎが聞こえていた。森の入口の辺りだ。
そして。
少し離れた向かいに、人が立っている気配がした。
ハンスだ、とすぐに分かった。
「何、してるんだ」
彼の気配と、木々の葉がざわめく音、川のせせらぎが肌に触れる。静かだった。
そこにいるはずの友人は、何も言わない。ただ、布の擦れる音がした。
「……ハンス、だよな。そこに、いるんだろ」
やはり返事はない。代わりに、また布の擦れる音と、固い何かをなぞる乾いた音がした。
「おい、ハンス」
一拍の間。相手が息を吸う。
ピィィッ。
澄んだ、高い音色がつんざいた。音は冷たい空気を網羅するように、緩やかに伸びていく。
「ひっ」
その音色は、ルークを殴りつけた。
手が震え、杖が落ちる。体の力が抜け、跪いた。
頭が痛い。耳鳴りと笛の音が、頭の中で混ざる。堪らず耳を塞ぐが、それでも音は頭の中に入ってきた。自分の中の何かを無理矢理引き剥がすかのように、入り込んで、くっついてくる。息が苦しい。目眩がする。さっきまでの笑いたくなる気持ちと混じり合って、ルークの中で何かが閃いた。
こんなもの。そもそも、こんなものがあるから、いけないんだ。
「……それ、やめろ!」
やっとの思いで、声をあげた。ひゅっと空気が喉に入ってくる。知らず、呼吸を止めていたことに気づいた。
音に向けて、震える手を伸ばす。笛の固い表面と、ハンスの手が指先に触れる。
一瞬の浮遊感。あっ、と、ハンスが焦った声をあげた。
鈍い音がして、背中に衝撃が走る。何が起こったかも分からないまま、顔を動かした。土の匂いが鼻を擽る。
「……何、すんだよ」
抗議の声を上げる。上の方から、悪い、とハンスの声が返ってきた。
起き上がろうと、腕に力を込める。その瞬間、腹の辺りに重みが加わった。組み敷かれたのだろう。動けない。
何はともあれ、もう、笛の音なんて聞きたくなかった。
ルークは身体を強張らせ、耳を塞ごうとした。が、友人がそれを阻んだ。
手を掴まれ、下ろされる。
ふっと笑う音がした。
「なんだよ」
両手は掴まれたままだった。けして力は強くないのに、なぜか、振りほどけない。
「……子どもみたいだ」
ハンスは言った。
「火傷した子どもが火を怖がるみたいに、ずっと慎重になってる。笛の音を怖がって、音楽そのものまで嫌ってる。あのことを考えれば、間違ってないんだろうけど」
「何、言ってるんだ」
意図を図りかねる。ハンスは言葉を続けた。
「でも、もう大丈夫なんだよ。怖がりすぎる必要はないんだ」
「……なんで」
「俺が笛を吹くからさ」
ハンスが言う。冗談のような響きはなかった。
「……どういう意味だよ」
何を、言っているんだ。
ルークは戸惑った。
友人は言葉を続けた。
「あのときからずっと、考えてたんだ。どうすれば、大切なものを連れていかれないか。置いていかれないか。あの街を出てからもずっと不安だった。考えて、あるとき、俺が笛吹き男になればいいんだって、分かったんだ」
そう言う声には、どこか無邪気な響きさえあった。
「それからが長かったけれど·····漸く、笛を手に入れた。笛を吹けるようになった。だからもう、どこかに連れて行かれる心配もない。置いて行かれる心配もないんだ。外から笛吹き男が来るかもしれない、なんて考える必要もない。俺が、笛吹き男なんだから」
淡々と語る。
めちゃくちゃだ。
ルークは思った。
友人は、おかしくなってしまったのだ。笛の音のせいで、変わってしまった。変わってしまったのだ。
……いや。もしかしたら、かつて、町を出るんだと言ってくれた彼は、すでにおかしくなっていたのかもしれない。もうずっとずっと、不思議な熱に浮かされていたのかも。幼い頃からずっと一緒にいても、自分が気づこうとしていなかっただけで。
ハンスは笑った。
「もうあの過去に振り回されることもない。笛吹き男の俺なら、どうにでもできるんだから」
なぁ、そうだろう。友人は言葉を紡ぎ続ける。
「笛があればいいんだ。どこにでも行けるし、どこにも行かせない。この音さえあれば、どうにでもできるんだ。良い夢だって、見られるんだ」
乾いた手が頬に触れ、そのまま首筋にまで伸びてくる。静かな口調でありながら、その声はどこか子どもが意地を張っているようにも聞こえた。
ルークはただ、ハンスの気配に意識を傾けていた。
……もっと早く、ちゃんと向き合っていれば良かった。
結局、言葉が通じることは既になくなってしまっていたのだ。いくら頑張ったところで、今まで通り、互いの言葉を受け流しながら共にいるのが限界なのだろう。向き合わない方が、いっそ離れた方が、互いのためなのかもしれないともさえ思えてくる。
せっかくあのとき、置いていかれたのだから。これまでもこの街で、生きてこれたのだ。一人でだって、生きていける。
……いや。
ルークは内心、首を横に振った。
互いのためなどということは、ただの言い訳だ。本当に思っているわけでもないし、本当に離れてしまうなんて、自分にできることではない。
──こうして話している相手が殺されるなんて、嫌なんだよ。
少年の声が、頭に響いていた。甘い考えだと分かっている。
それでも。
「……なぁ、頼むよ」
ルークは声を震わせた。
「それ、もう、捨ててくれよ。お前に悪いとは思うけど、その笛、……怖いんだ。もう、聞きたくないんだよ」
体の中の息を、吐き出す。
「笛なんかなくたって、どこにも行かないよ。笛吹かなくたって、生きていけるだろ。だから、頼むよ……」
ハンスの呼吸の音がする方へ、手を伸ばす。指先に触れた布を、力いっぱい、握りしめた。
「あんなこと、もう思い出さないでさ。忘れよう。忘れて、生きようじゃないか。せっかく、二人でいるんだ。一人だったら俺たち、生きてこれたか分からないけどさ。二人いるんだから、どうにでもできるだろ。
生きる頼みだって、きっと、笛以外に見つかるはずだ。見つからなくっても、一緒に探すから。だから。だから、さ。笛さえなければ、俺、どんなに苦しくたってお前と生きていけるよ。何だってやるし、受け入れられるから。だからもう、昔の傷をわざわざなぞるような真似だけは、やめてくれ……」
言葉が次々にこみ上げてくる。
指先が痛い気がした。服を掴む手に、力を込めすぎているのかもしれない。でもそんなこと、どうでも良かった。
「お前だから、これまで通りお前といたいから、言うんだ。……頼む」
ルークは息とともに、思いを吐き出した。
ここで伝えなければ。そうしなければずっとすれ違い続けて、いずれ彼の声が聞こえなくなってしまう。そんな気が、した。
限界だった。
笛の音なんて、本当に、二度と聞きたくないものなのだ。置いて行かれた記憶を掘り起こすあの音、笛の音色を耳にすると、またあんなことが起こるんじゃないかと恐ろしくて堪らなくなる。
そうかと言って、そんなものにしがみつく友人を見限れるほど情を捨てられるわけでもなかった。ハンスは、友人であり、家族であり、自分の半身であり、……生きるための道しるべのようなものだ。だからこそあのとき、彼とともに町を出たのだし、別々の場所で生きることも、その結果自分が与り知らぬ場所で相手が死ぬなどということも、堪えられないのだ、本当は。
街で別々に行動できたのは、共に帰る場所があったからだ。悲しみに暮れた町から抜け出したくとも、ハンスが切り出してくれなければ、自分に町を出る勇気は湧かなかった。臆病なのに、いや、臆病だからか、ずっと独りよがりで、 素直に言葉にすることも出来なかっただけだ。
……ずっと、ずっと、ハンスはかけがえのない友人で、笛の音は、全てを壊してしまう恐怖の対象だった。その二つが共にあることで、いつか笛が友人を蝕んで粉々にしてしまう、そんな風に思えて、怖くて仕方がないのだ。何を言われようと、されようと、彼が何を好きになろうと構わない。ただ笛は、友人が傷つき続けるようなことだけは、どうしても、どうしても、我慢ならなかった。
自分にも罪はある。だからこそちゃんと、真っ直ぐに、本当の想いを伝えるのだ。
「……お願いだ、ハンス」
ルークは縋るように、友人の手を掴んだ。
「……そう、だな」
腕が痺れてきた頃だった。ハンスが漸く、言葉を発した。
「……わかったよ」
手が首筋から離れ、今度はルークの手を掴み返す。その声は、掠れていた。
ルークは言葉を失った。一瞬、頭が真っ白になった。少しして、徐々に頭が言葉を理解してくる。
「本当か……っ、本当に……」
まだ信じ切れず、ルークが訊く。ハンスは「ああ」と頷いた。
「……お前を嫌いになったわけでも、怖がらせたいわけでもない。俺だって、お前が傷つくのは嫌なんだ。ずっと、ずっと……悪かったな」
相手は、ばつが悪そうに言った。
「……は」
自分の言葉が、受け入れられた……?
そう認識した途端、胸の内側が熱くなった。何だか、全てが昔に戻ったようだった。笛の音について行って、それから止まってしまった時間が、漸く動き出したようだ。
もっと早く、きちんと話していれば良かった。
ルークは声を出そうとして、言葉を詰まらせた。鼻を鳴らしながら、やっとの思いで友人の名前を呼ぶ。
「ハンス……ありがとう、……ありがとう」
瞼の裏が、熱くなる。
やっと。やっとだ。
やっと、あの音色から一歩、離れられる。離れて、また、本当の意味で共に生きていける。
ずっと刺さっていた杭が、抜けたようだった。冷たい空気が胸に入り込んで、ルークは嗚咽しながら笑った。体じゅうから力が抜けて、ただ今は、友人の手の感触が心地よかった。
「さぁ、帰ろう」
ハンスの声には、穏やかな笑いが混じっていた。ルークの両の耳に、ハンスの手が触れる。子どもの頃のような戯れじみた仕草に、ルークは、ああ、ああ、と何度も頷いた。
「うぅんと……」
クルトはきょろきょろと辺りを見回していた。街の周囲、森の近くに来るのは、初めてだった。乞食が住んでいることは知っていたが、粗末な小屋が建ち並び、太陽に煌々と照らされている様は、何とも不思議な感じがする。
ルークの姿は、街になかった。きっとここの小屋のどれかにいるのだろう。
「ルークさん! ……ルークさん?」
声を掛けながら歩いて行く。こちらを気にする乞食たちの胡乱な目も、気にならなかった。
今朝のことだった。
街の外へ移住しようという、宣伝を受けたのだ。その男は、この街では暮らしていけなくとも自分たちで開拓すれば、楽園を自らの手で作れると言う。多少の苦労はあるだろうが、悪くない話だった。乞食を続けるよりもマシだろうと、仲間も言っていた。
ここではないどこかで、やり直すんだ。
せっかくだから、ルークにも話そう。そう思ってやって来たのだから、他人の目などどうでもいい。どうしようもないこの場所から動けば、夢のある話を聞けば、彼の暮らしもマシになるかもしれないと、そう思ったのだ。仲間に話せばお人好しだと顔を顰められるだろうが、知り合った人間が少しでも幸福になれるなら、それに越したことはない。
クルトは近くにいた乞食たちに声を掛けた。
「ねぇ、目の見えない、黒髪の男の人、知らない? ルークって人なんだけど」
乞食の一人が肩を竦める。
「あいつか、さぁな。今日は朝から見てねぇよ」
「ああ、足の悪い方なら、夜明け頃に見たぞ。一緒に住んでるみたいでな、そいつに聞けば分かるんじゃないか。ハンスってのだよ。盲なのとは兄弟·····ではないか、まぁ、金髪の、足を引きずってるヤツだ。確かあっちの方に……」
「ありがと!」
乞食たちの言葉が終わるか否かというところで、クルトは駆けだした。指さされた方向は、街の外にある、森の方だった。小屋の隙間を縫い、走って行くと、徐々に道も開けてくる。
街を囲む壁から離れ、段々と森の緑が近づいてくる。川のせせらぎも聞こえてきた。
さらに進んでいくと、森のそばの川に出る。
草が風にそよいでいた。春とはいえ、まだ肌に沁みる風だ。体を震わせながら歩いていると、川向こうに森が見えるその場所に、金髪の男が座っているのが見えた。
彼が、ルークと住んでいるという人物なのだろうか。
「……あの、ルークさん、知りませんか」
男が振り返る。青い、静かな目がクルトを見た。
「いるよ」
ほら、と彼が横の草原を叩く。
背伸びして見れば、草の隙間から黒髪がちらりと覗いていた。昨日と同じボロだ。どうやら、寝そべっているらしい。
「もしかして、寝てる? もう、日は高くなってるのになぁ」
言いながら、一歩、近付く。男は笑いながら、寝そべったままらしいルークの体へ手を伸ばした。片手で器用に杖をつき、もう片方の手で、彼の腕を掴む。
突然触れられたからか、ビクリと体が跳ねる。
男は構わずに、そのまま、歩き出した。
ルークの体が引きずられる。うぅ、と、呻くような、力ない声を上げて、ルークが藻掻く。
「ルーク。全く、しかたないな」
男は満更でもなさそうな声音で言うと、彼に向き直り、その体を抱え上げた。「うぅ~」と、ルークが声を出す。男は彼を器用に担ぐと、そのまま相手の手を掴んだ。途端に、魚のように跳ねていた体がぴたりと大人しくなる。
ルークを担ぎ、男が足を引きずりながら、こちらへやって来る。
「……あ」
その独特な足跡に、クルトはハッとした。
一連の行為の異様さに、すっかり、目を奪われてしまっていた。
「ちょ、ちょっと! 僕、ルークさんに話があるだけで、そんな……」
やっとの思いで、クルトは声を絞り出した。
男とルークとの関係は知らない。が、何にしてもあんな、力ずくでどうにかするような真似はあんまりじゃないのか。それに、あのルークがどうして何も言わないのかも分からなかった。あんな扱いを受けて、黙ってされるがままになっている筈がない。どういうことか訳が分からなくて、目の前の状況に、すっかり頭が混乱している。
ただ立ち塞がるようにして、クルトはきっと相手を見据えた。足が震えたが、気づかない振りをした。
「ああ」 少しの間を置いて、男が口を開く。その青い目は、意外にも穏やかな光を宿していた。
「それなら、別のときにしてくれないか。ルークは眠いそうだから、なぁ」
気さくな口調だった。杖を持った手で、ルークの肩を叩く。あぅ、と、ルークがまた声を上げた。
返事とは思えない声だった。それなのに男は満足そうに目を細め、ルークを見つめている。
「他に用がないなら、もう帰るよ。ほら」
男は彼を抱えたまま、クルトの横を通り過ぎた。
髪の毛に隠れ、ルークの表情は見えなかった。ただ、力なくだらりと垂れ下がった手、男に掴まれた手の指が相手の手を握り返しているのを、クルトは見た。
ルークの底にある気持ちは、分からない。
でも。
違う。目の前の光景は、絶対に、おかしい……。
胸のざわめきを覚えながら、クルトは何も言えなかった。
ただ、男の腰元に挿された笛が、太陽の光に照らされて輝くのを眺めていた。
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