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音色の傍の目は昏く
その笛の音色は、夢のようだった。聞いているだけで指先まで不思議と力が漲り、つられるように足が動き出す。体の内側に熱が燻り、むず痒くて、体を動かさずにはいられない。生まれて初めて感じるような気持ちだった。言葉はなくとも、この音についていけば楽園に導かれるのだと、そう思えた。
だからこそ、必死についていった。
音色から離れまいと、必死についていったのだ。
通行人の足の間から、太陽の光が細く覗き込んでいる。
高い窓の鉄格子越しに見える晴天に、クルトは目を細めた。上着をとり、外へ続く階段を上る。
最後の一段を踏むと、眩しい太陽の光と、街の喧騒とが体を包んだ。店や客たちの賑やかな活気を、一気に突きつけられたような気分になる。
「なんだよ、仕事はちゃんとやってるだろ」
「この肉、高いねぇ。もっとまけてくんないの」
「よし、私は五日だ。五日に賭けてやる。奴らはきっとそれだけ、辛抱強く待つだろうさ」
店先で呼び込みをする商人、ハシゴを抱えた職人、そそくさと早足で歩いて行く婦人、金持ちらしき、身なりの整った男……様々な人間の波の、途切れ途切れの隙間を見回しながら歩く。酒場の横、階段のすぐ傍にある路地裏の陰に、見慣れた人影をみとめた。
「来たな」
仲間が腕を組み、小さな目を細めている。おまたせ、とクルトは返した。
「ちょうど良い時間だな。そろそろ金持ち連中も飯食い終わる頃だろうし、今から行けばぴったりだろ」
仲間は大きな帽子を被り直した。頷き、クルトも上着を羽織る。死んだ父から貰っていたそれは、仲間の帽子のようにぶかぶかで、手がすっぽりと隠れてしまった。
「うん、大丈夫だ。僕たちはどう見ても、かわいそうな乞食の子どもだよ」
「ああ」 仲間は頷いた。いいか、と声をひそめる。
「とにかくかわいそうに、気の毒がられるんだ。あいつらは天国だか何だかに行くために、人助けしたがってるんだから。一人でも『かわいそうだ』って涙を浮かべれば、それでいい。そこまでいけば、食い物はすぐそこだ」
「たぶん、ほかの仲間はもう向かってる。少し遅れても、ふらつきながら行くくらいで良いかもね」
「よし、行くぞ」
互いの目を見て、二人は通りへ歩き出した。
ヒュウッと、すきま風のような音がして、ルークは目を覚ました。
徐々に意識が浮かび上がってくる。夜風とは異なる独特の冷たい空気が、肌に触れる。布団代わりのボロ布を取ると、ぶるりと体が震えた。春とはいえ、まだ肌寒い。
ピュウ、と。もう一度、音がした。
ルークは顔を顰めた。気のせいでも、小屋のすきま風でもない。節をつけた高低差のあるこの音は、紛れもない、笛の音だ。もう随分、聞き慣れた音だった。
杖を掴み、ゆっくりと身を起こす。小屋を出ると、音がよりくっきりと、大きくなった。
寝床の辺りでは、色々な音がある。他の小屋に住む貧民の音、近くを流れる川の音。それらの中でもこの音は、一番耳につく音だった。この上なく不快なものだ。
いや、音だけではない。ごみの腐臭や人間の体臭、匂いや他の感覚と比べても、最も不快だ。耳障りで仕方ない。
「また笛吹いてんのかよ。いつまでもそうやって、そのまま死ぬまで吹いてる気か?」
音色の主に、ルークは嗤って言った。ぴたりと音が止む。
「いつまでも辛気くさい笛吹くなよ」
言葉を重ねる。ややあって、相手は口を開いた。
「……そういうものは吹いてない」
返ってきた固い声色に、ルークは笑みを深くした。
「曲の問題じゃない。吹き方や音色に辛気くささが染みついてんだよ、ハンス」
どんな吹き方をしても、いつもどこか、もの悲しさが潜んでいる。友人はまるで何かに取り憑かれたかのように、隙があれば笛を吹いていた。
ただ、どんな音色であっても、どこか辛気くさい。上達しようが何をしようが、こびりついて離れないものなのだろう。くだらないことだと思う。
噛んで含めるように言ってやる。が、相手の返事はない。
「今日は確か、施しのある日だったな」
ルークは杖をついた。
すれ違いざま、ずり、と靴が地面を擦る音がした。相手の気配が近づく。
足の悪い友人は、漸く言葉を発した。
「俺は自分で良いと思ったことをやるだけだ。芸を覚えることだって、生きるためには必要なことだろ」
真面目な声音だ。
真剣に、笛を吹くことが必要なのだと言っている。
「それでわざわざ笛を選ぶってのが、理解できないね」
「誰の理解もいらないさ」
友人は言った。相変わらず、真っ直ぐな声だった。
忌々しい。
ルークは出かけた言葉を飲み込み、再び杖をつき始めた。
職人や人夫の声が四方から押し寄せる。子どもらがすぐ傍をばたばたと通っていき、ルークは体を竦めた。
肉屋やパン屋といった店の喧噪を抜けると、街道沿いの施療院の敷地に出る。ちょうど食事時ということもあって、礼拝堂の方角からはのんきな歌声が響いていた。その声とは真逆の方向へ、杖を動かしていく。巡礼をしていると思しき人々の声を通り過ぎると、修道士に案内された。短い祈りの言葉とともに、丁寧に手を引かれる。
貧民用の広場で出されたのは、いつも通り、質素なスープとパンだった。固いパンをちぎり、スープに浸す。少し柔らかくなった欠片を口に運び、咀嚼する。同じ様な音が、あちらこちらから聞こえていた。パンを浸す音やスープを飲む音、器のぶつかる音。先ほどの歌声が嘘のように、娯楽とはほど遠い。
慣れた雰囲気だった。味のないスープを飲みきるとすぐ、ルークは施療院を出た。
施療院の食事の施しは、限られた日のみとなっている。今日は食事がとれたが、明日はない。街を歩き、他にも何か喜捨があれば上等だが、何もなくともそれはそれで、仕方がないことだと思う。
いっそ入居者として施療院に入ってしまえば、確実に何かしらの食事は出されるのだろう。けれども、どうしてもその気にはなれない。
施療院が苦手なのだ。
食事のために訪れてはいるが、自らが天国へ行くために貧民に施しをするのだという声音、その響きが、どうしても苦手だった。金持ちの作った施療院の中で、貧民は押し込められ、必死に食事を掻き込まなければいけない。慈悲に縋るしかないのだから仕方ないが、そもそも神がいるのならば、自分はなぜこんな身の上になってしまったのか、などと思ってしまう。
そうした不満もあるし、そもそも、自分には友人と起居を共にする家もある。神に縋らなくたって、生きることはできるのだ。楽かどうかは、別としてだが。
苦い思いを振り切るように、ルークは杖をつき始めた。
街道に戻ると、雑多な音や匂いがひしめき合っていた。石畳を叩く杖の音。足音。今の季節にしては強い日射しが肌を焼く痛み。肉屋が動物をしめる死臭。汗や煤、香水の匂い。何やら遊んでいる子どもらの声も、遠くに聞こえる。
様々な音たちは、ルークが歩いて行く毎に端々へ割れていった。人々は乞食を避ける。道の端は歩けても、誰かとともに歩くなどということはあり得ない。音が逃げていくのは、いつものことだった。大抵の人間は、自分のような者を避けるものだ。風が吹くように当たり前のことだし、別に、何かを思うこともない。
「……は」
ふいに、ルークは息を飲んだ。雑踏に混じって、笛の音色が聞こえた気がした。高い、澄んだ音色。
立ち止まり、音に意識を澄ます。店先で注文を確認する声。客と店の世間話。話し声こそ賑わっているが、その中には、笛どころか音楽のようなものは一切聞こえない。
気のせいだ。
ルークは頭を振った。ここ数年、よくあることだ。関係のないところでまで笛の音を聴いて、それが本物ではないと分かると、ほっとする。
苦い笑いがこみ上げた。これではまるで、取り憑かれているのは──。
考えていたときだった。ふいに後ろから、ドンと衝撃があった。
「あっ」 ルークは地面に倒れ込んだ。その拍子に、杖が落ちる。
「邪魔なんだよ」
罵声が降ってくる。その後ろから、複数の笑い声も聞こえた。
倒れたまま、ルークは這いつくばった。地面に手を彷徨わせ、杖を探る。
「おい、こいつ……」
頭上で、複数の笑い声がした。思わず、体が竦む。
この流れで、次に起こることは決まったようだった。
強張った手の甲を踏みつけられ、ルークは声を上げた。悲鳴が終わらないまま、今度は別の方向から転がされる。蹴られたのだと気づく前に、脇腹に強い衝撃があった。空気が喉にひっかかる。嘔吐きながら、咳き込んだ。腹の肉が引き攣って、さらに痛む。
「おお、可哀想に」
髪を掴まれる。顔が上げられたかと思えば、すぐ地面に押しつけられた。背中や腹、肩、まばらに痛みが降ってくる。相手が楽しんでいることは、明らかだった。
「ぐ、うう、や、やめ……」
ルークは蹲りながら、声を絞り出した。こういう輩には、惨めに懇願するしかない。なるべく早く、飽きてもらえるように。
しかし、返事はなかった。足先で顎を上向かされ、肩をぐりぐりと踏みつけられる。頭上の笑い声が、ひどく耳に響いた。
畜生。
ルークは唇を噛んだ。慣れたことではある。これはどうしようもない、通り雨のようなものだ。土砂降りのように、痛みが体を包んでいく。慣れている、よく知った感覚だ。こうなれば、耐えるしかないのだ。
けれども、それでも、息が苦しい。息が苦しいのは、どうにもならない。どうしようもなくて、辛い。
杖を探して伸ばした腕が、垂れた。
路地裏から出ると、クルトは仲間とともに、俯きながら雑踏に紛れた。一定の距離を保ちながらもほどよく離れないよう、歩き続ける。
店が建ち並ぶ辺りまで来たところで、クルトはふと顔を上げた。何か聞こえた気がした。
「どうした」
顔は上げずに、仲間が小声で尋ねる。「いや」と答えたが、やはり何かひっかかって、クルトは辺りを見回した。
笑い声だ。
笑い声が、聞こえた。それも世間話の類いではない。たまに自分も聞いたことがある、下卑た笑い声だった。
母に向かって街の男たちが声を掛けるときのそれに、似ている。
「ごめん、ちょっと用思い出したから、先行ってて!」
仲間が止める間もなく、クルトは声のする方へ走り出した。
値段を交渉する声。下働きを怒鳴る声。街にあふれかえる音の中で、糸を辿るように笑い声を目指していく。が、段々近づいてきたというところで、その声がぴたりと止んだ。
「くそっ」
小さく悪態をつきながら、声がしていた方へ向かう。と、店先の人々が、ちらちらと目線をやりながら話す場所があることに気づいた。
何か。近くで何か、あったはずだ。
まず辺りをぐるりと見渡す。クルトは路地裏に目を留めた。
建物と建物の隙間から、細い手がだらりと伸びている。クルトはすぐ、駆け寄った。
ボロを纏った黒髪の男が、建物に背をもたれかけ座り込んでいる。れっきとした、乞食のようだ。
「……大丈夫?」
呼びかけると、顔がゆっくりとこちらを向く。固く閉ざされたままの目が、薄汚れた顔に陰を落としていた。
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