空に手を伸ばして

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今、あなたにも薄みどりの風が見えているのだと思う。 あなたが死んでから、ずいぶんと長い時間が流れた。あなたが死んでからはあっという間で、立ち止まる余裕なんてなかった。ずっと必死にしがみついて生きていた。 何かを作らなければならない衝動に四六時中、押されてはひたすらに石に線を刻んでは、形にしようと必死だった。ぼんやりとした訳の分からない気持ちの正体をはっきりさせたくて、ひたすらに万年筆を握り、言葉にしては詩を書き続けた。あなたのことを考えている時間は少なくて、泣くこともそんなになかった。 それでもふとした瞬間、例えば、桜の花影で柔らかに笑う、あなたの写真を見たとき、琥珀の杯に凝った玉のような梅酒を見たとき、あなたがまだ、ここにいるような気持ちになった。 時々僕は、あなたの夢を見た。夢の中であなたは元気で、初めて会った時のように僕たちは散歩をしたり、絵を見せ合ったりした。そんな夢を見た後の朝は、頬をぬるい涙が伝った。 大切なものはいつも見えない。失ったときにやっと気づく。それもはっきりと、今まで大事にしてこなかった自分を責めるようにじわりと姿を現す。自分はいつから間違っていたのだろうか、正しさ、過ちとは何だろうか、なんて考えることもあった。  今日僕は、阿多多羅山に登った。あなたが言っていた、「本当の空」が見てみたかったんだ。何も言えずに消えたあなたの見ていた世界を覗いてみたくなったんだ。形にできない気持ちの答えもここにならあると思って。  阿多多羅山のてっぺんで見た空はすっと青く澄んでいて、真っ白な雲が映えていた。絵の具や色鉛筆で表すことができないような、人の力では適わない力のある色をしていた。あなたの見ていた世界はこんなに美しかったんだと、ぼーっとしてしまったよ。ようやく僕は、あなたの抱えていたものに近づくことができたんだと思う。  不謹慎に響くかも知れないけど僕は、あなたがいなくなってからやっと、あなたの心に近づけたんだと思う。気づきもしなかったあなたのことに少しずつ、踏み込んでいけたのだから。そんな風に考えると、僕は一人じゃない、あなたと僕は心の深いところで、手をつないでいるんだという気持ちになる。  あなたと心が結ばれているのなら、どんなに暗い道も歩いて行けるのだと思う。だからまた、僕が迷ったときには、僕の手を強く、握っていて欲しいんだ。あなたは僕の光だから。そして阿多多羅山でまた、薄みどりの風を待とう。  では、また。
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