渇望

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 古臭いベッドの匂いを鼻腔に感じながら私はしみの付いた天井を見上げていた。視界は薄暗く、静かだ。宙を舞う蠅の羽音や、壁を伝う蜘蛛の足音までも聞こえてくるほどだ。 私は口を開けたまま、涎を垂らして、呆けた顔で薄汚れた天井のシミをただひたすらに見つめていた。  側から見れば私は完全に気の狂った人間だろう。しかし、私は決して頭がおかしくなったわけではない。むしろ今この瞬間、私の心は幸福に満ち溢れていると言っても過言ではない。明日は私が永らく待ち望んでいたこれ以上ない最高の日なのだ。  ピチャリ。水滴の音がする。鉄格子の外から聞こえてくる。  明日の事を思うと、私は自分でもよくここまでさまざまな苦労を耐えてきたな、と思う。私は生まれたその瞬間から、明日という日を待ち望んでいたといってもいい。ベッドに横になったまま、羽音を立てるハエを目で追いながら私は思った。私のここまでの日々は暗いトンネルの中を歩いていたようなものだ。どこまでも続く暗いトンネル。出口も見えず、引き返すことも出来ないので億劫ながらもとりあえず前に進んでいた。しかしよくよく考えると、そんな事は何の意味もなかった事だ。ただ、私は周りに促されるままにもがきながら汚泥の溢れかえる道を進んでいたのだ。ようやく明日、私は満点の星空の元へと解放される。それを思うと、今までの自分に起きてきたどんな理不尽さえも私は愛しく思うことができた。心臓の高鳴りが、それをたしかに証明した。こんなに明日を待ち遠しいと思った事がなかった。  恐れはないかと聞かれれば、もちろんあった。明日を迎えたら、自分は一体どうなってしまうのだろうか。しかし、それは言うなれば入学試験を受ける前日のような気持ちだった。希望へ進むための障壁。私は全てを受け入れ、覚悟を決めていた。今までに何十万、何百万の人々が同じように受け入れてきた事だ。今更、何を恐れる必要があるだろうか。そうだ、何も恐れる必要はない。 カツン、カツン。鉄格子の外から、今度は足音が聞こえてくる。  私は全身の全てを軋むベッドへと預けて、今までの事を振り返ってみる。ここまでたどり着くために、私がどれだけ苦労を重ねてきたことか。  いま振り返ってみても、私は幼少時代普通の家庭で育ったし、学生時代も普通の学校生活を送っていたと思う。しかし、私が普通だと思っていた事は、周りから見れば普通ではなかったのかもしれない。私は人間関係というものがひたすらに煩わしかった。人と話すのが嫌いだったし、時には他人を見ることすらも嫌になる事があった。これは誰とも関わらず作品作りに没頭していた父を見て育ってきた影響かもしれない。  私の家は裕福であった。父は若い頃から有名な彫刻家であり、家政婦として雇っていた母と結婚した。父は寡黙で人と関わらず、淡々と自分の作品を作る男であった。永らく彫刻の道に生きてきたため、父の手は傷だらけで、ゴツゴツしていた。その上、父はいつも眉間に皺を寄せて人を寄せ付けぬ人相をしていたので、近所では良い噂が立たなかった。私はそんな父の事が心底嫌いだった。母はもともと父の家政婦だったので、父に対して強く何かをいう事がなかった。とにかく優しい人であったが、常に父を立てようとする母の態度が私には気にくわなかった。  学校で周りの生徒達は私の事を笑いの的にした。それもそのはずである。彼らは幼稚なのだ。だからどこかに遊ぶためのおもちゃが必要であった。それであまり喋らない私がその標的になった。私は別に幼稚な彼らに何と言われようと気にした事はなかった。私は彼らよりもずっと勉強が出来た。彼らが幼稚な遊びに興じている時に、私は独り勉強に没頭した。しかし、今思うとそんな勉強も特に意味がなかったかもしれない。そこで得た知識など特に使いどころのないものなのだ。私はただ、他者と関わるのが億劫だったから、彼らを避ける口実を探していただけなのだ。    だが、私が高等学校に入るとそんな事も言っていられなくなってしまった。私の周りの人間は幼稚な遊びから一転して、男女間の恋情に興じるようになった。誰と誰が恋仲だとか、学年のマドンナが誰と学校内で行為に及んだとか、ある事ない事噂が出回った。そして、美しい女性を手に入れるのは決まって私よりも学問が出来て、力も強くて、権力も持っている者であった。それもおかしな事に、彼らは表面上、私が幼稚だと思ってきた人間とさして変わらないのだ。教室内で馬鹿騒ぎをして、さも公共の場が自分達のために用意されたものでもあるかのように振る舞う。それにもかかわらず、彼らは私よりも学問が出来て、力も強くて、権力をもち、その上女を手に入れた。  私には一人想い慕う人がいた。それは高等学校に上がる以前から長い年月私が想いを寄せていた女性であった。茶色がかった長い髪と、グレーの綺麗な瞳がとてもキュートな女性であった。しかし、彼女は高等学校二年生の夏にとある男と恋仲になった。よりにもよって女癖が悪いと噂のラグビークラブに所属する男だった。それから私は彼女と話す事もなくなった。どうでもいい男の女になった人の事など、もう興味がなかった。しかし、それは嘘であった。実際は彼女を見ると心が痛んだ。私の方から彼女を避けるようになったのだ。  それから私は女性を避けるようになった。いや、それは女性に限った事ではない。私は気づいたら全ての人を避けるようになっていた。しかしそれも非常に曖昧なところである。もともと私は人と関わるのが煩わしいと思っていた。だから言うなれば私は最初から人を避けていたのかもしれない。しかし気づけば私は人から避けられるようになっていたのだ。私の父が有名な彫刻家という事もあって、モノ珍しさから私に話かける者もいたが、私が別段面白い人間ではないと分かると、彼らは私から離れていった。  私を何より困らせたのは女性へのコンプレックスであった。私は元来他者への興味など微塵もないと思っていた。しかし、私も一人の男であり、生殖本能には逆らえなかった。道端を寄り添い合う男女を見るたびに私は彼らを羨んだ。殺してしまいたいと思うほどにだ。しかし、勿論そんな事は出来なかった。それに私はそんな風に感じてしまう自分が常々嫌であった。私は独りの夜の寂しさを紛らわすため、夜な夜な学生時代に想っていた彼女の事を思い出し、自分を慰めた。 ひそひそと鉄格子の外から話し声が聞こえてくる。 「あいつ……完全に狂っちまってる。」 「無理もない、あいつ、明日だろ?」  私は外にいる陳腐な想像力しかない者どもを鼻で笑った。狂っている?何を言っているんだ?私は今、希望に満ちているのだ。ようやく私は長い地獄から解放されるのだから。  私の人生に転機が訪れたのは、私が三十の歳を迎えてからであった。私は自らの仕事をする傍ら、父の彫刻の仕事を真似て木彫りの人形を作った。休日に私が市場でそれを売りに出していると、帽子を被った女性が近くまで来て私の彫った人形を手に取った。 「まぁ、これは素晴らしい木彫りの人形ですね。」 その女性が顔を上げた時、私は胸の中で何かが弾けるような音がした。美しいブロンズの髪に茶色い瞳、知的に整えられた眉、薄ピンクの唇、私は人生において永らく感じる事のなかったときめきというものその時たしかに胸の中に感じた。 「お父様、見て下さい。この木彫りの人形、素晴らしいではありませんか。」 彼女がお父様と呼んだ先には、紳士服姿のすらりとした背格好の中年男性が立っていた。 「ほう、どれどれ?」 男は私の彫った木彫りの人形を手に取ってじっと観察した。 「すごいな。よく出来ている。君、これはいくらでいただけるかね?」  そうやって私に声をかけてきた中年男性は領主の親族にあたる男であった。そして女性はその男の娘であった。奇遇なことに男性と私の父は顔をよく知る者同士だったようで、男性は口の回らない私にも気さくに接してくれた。  とある日、男性の家で開かれるパーティーに招かれて参加した。整った紳士服に身を包んだ男達と、色とりどりのドレスを身に纏った女達が、豪華な食事の席を囲んだ。しかしその中でも、市場で私に声をかけてくれた女性は一際目立って美しかった。パーティーでは男達が彼女に言い寄った。私にはそれが恨めしかった。彼女に言いよる男達はパーティー参加者の中でも取りわけ裕福な家の者達なのだと言う事は誰の目から見ても明らかであった。中には位の高い軍人の男までもがいた。私は心底、その事実を見たくないと思った。結局これは、高等学校の時と同じ事が起ころうとしているのだと悟った。彼女に言い寄る人々は私など遠く及ばないところにいる人達だ。そんな事は誰の目から見ても明らかだったのに、私は昼も夜も、いつ何時も彼女を求めた。  ある日、彼女の父が娘に彫刻を教えてくれないかと私に頼みこんできた。それは私にとって彼女との仲を深めるためのまたとないチャンスであった。だから私は二つ返事で了承した。そうして私は休日の午後、彼女の家に招かれて彫刻を教える事になった。彼女の学ぶ姿勢はとても真剣であった。話を聞くと彼女は法学専門の高等学校に通っているため、芸術などを学ぶ暇がないと言う事だった。だから休日、遊ぶ間を惜しんでまで、私に教えを乞うたのだ。  彼女は時々、学校であった出来事を私に話した。私はその話を聞くだけで、全ての悩み事が吹き飛ぶようであった。むしろ今まで私は何に悩んでいたのかさえも分からなくなってしまうほどに、私は彼女に夢中になった。  とある日、私は彼女の家に行く前に花屋に寄った。その日は彼女の誕生日で、私は彼女のために花束を買った。  しかし、その日私が家へ行くと家の主人の男が言った。 「すまない。今日の授業はなしにしていただけないだろうか。それから、今後は別の先生にお願いする事にした。すまないが、今日限りでうちに来ていただかなくても結構だ。」  私は目の前が真っ暗になったような気がした。なぜ?私は頭で考えるよりも先にその疑問を口にしていた。そうしないと気が狂ってしまいそうだった。 「何故ですか!?」 男は大声で尋ねる私を一瞥すると、何も言わずににべもなく屋敷の扉を大きな音を立てて閉めた。  私はこの時はじめて、本当の絶望とは普遍的絶望の中にはなく、希望の中にこそ存在する事が分かった。私が少しでも自分の人生に希望を持たなければ、あるいはここまで絶望する事はなかったかもしれない。  後日彼女の父から聞いた事だが、彼女は結婚する事になったのだと言う。パーティーの時に見た、決して若くはない軍人とだ。彼は彼女への独占欲が激しかったため、男性である私が彼女に彫刻を教えている事が気に障ったのだと言う。 「すまなかった。この事で、あなたがここまで気を病んでしまうとは私は思わなかった。」 面会室で、彼は身体を震わせて私に謝罪した。対する私は穏やかであった。 「顔を上げてください。私がこうなってしまったのは、決してあなたのせいではありません。」 私は涙で震える男性の手をこの手で握りたいと思ったが、私の手首には手錠がはめられていてかなわなかった。私は目の前の男性、私の愛する女性の父親に対して本当に怒りの感情は持ち合わせていなかった。むしろ私を彫刻の講師として招き入れ、彼女との時間を作ってくれた事に感謝していた。今思ってみてもあの時間、本当にわずかな時間であったがあの時間は私にとって希望と呼べる唯一の時間であり、私の人生で最高の時間であったと思う。しかし、私はそれよりも前にこの事を決めていたのかもしれない。と言うよりもむしろいずれこうなる事が決まっていたのかもしれない。言うなれば、私はかねてから絶望の中に生まれ、生きていく中でそれを確かなものにしていったのだ。  私は彼女の家にいく事を禁じられてからしばらく自分の家から出る事が出来なくなった。もし、仮に一歩でも外に出てしまおうものならば、私は何としてでも彼女に会おうとあらゆる手段を講じるであろうと思ったからだ。そうして何十日、何百日と長い夜を超えたある日、私は気づいた。私の人生はとうに終了しているのだという事に。これから私が目指す希望とは、「死」その一点に尽きた。私はその答えにたどり着くと、すべての悩みが、霧が晴れるがごとく心から消えていくのを感じた。まるで晴れ渡った青い空の下、鐘の鳴り響く教会にでも足を運んだ時のような気分だった。しかし、私は自分で自分を殺す事がどうしてもできなかった。首吊り、薬、リストカット、いろんな事を試してみたが結局上手くいかなかった。  だから、私は他人に殺してもらう事にした。私は自分が長年愛用してきた彫刻刀を右手に握りしめる。そういえば、この彫刻刀をくれたのは父であった。十歳の誕生日の日に父が私に送ってくれたものだった。私は父を嫌っていたはずなのだが、父のくれた彫刻刀をしっかりと大事にしていたのだ。  私は夜に狭い路地に身を潜め、暗い闇と同化して通行人を観察した。右手に持った彫刻刀が橙色の街灯の光を浴びて鋭く光る。私が標的にしたのは若い男女のカップルであった。幸せそうな二人を殺す事も私の長年の夢であった。私は今夜、自分の祈願を二つも叶える事が出来るのだ。そう思うと私の心は高ぶり踊った。  深夜十二時を回る頃、酒に酔った男女二人が私の目の前を、身を寄せ合って通り過ぎていった。女はほとんど男に身を預けているような形で、かなり足元がおぼつかなかった。私は迷う事なく背後から忍び寄り、男の首を彫刻刀で掻っ切った。男の首から真っ赤な血が噴き出る。綺麗だった。赤い花が散ったようだった。男と女が叫び声をあげる中、私は冷静に一人ずつ殺していった。私はこの時、二人組を標的にした事が正しい決断だったと知った。人の喉を掻っ切る事は自分が想像していた以上に魅力的な事であった。たった一回では物足りないと心底思った。私はその感触に酔いしれてしまったのだ。もし、私が捕まらなかったら今でも殺しを続けていたかもしれない。父からもらった彫刻刀は柄の部分までも真っ赤に染まった。  私は軋むベッドの上で明日を待っていた。ここでの死刑の方法は銃殺刑なのだという。目隠しをされ、口に石をかまされ、銃で撃たれる。たったそれだけの事だが、私は今からワクワクが止まらなかった。私はこの煩わしい世界からやっと解放されるのだ。明日をどれほど望んだか分からない。何なら私は生まれてこの方、明日の事を待ち望んでいたと言っても過言ではないのだ。私は同房の中でくっくっと笑った。  再び、ピチャリ、と水滴の音がする。鉄格子の外から聞こえてくる。それから二人の男のヒソヒソとした話声が聞こえた。 「おいおい、あいつ、独りで笑ってやがるぜ。」 「明日処刑されるってのに。いかれてやがる。」  ああ、楽しみだ。早く、早く。明日が待ち遠しい。私は独り、胸を高鳴らせていた。
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