夢路を解かしてきみに成る

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科学の進歩に打ち震えるほどの感動と感謝を抱くのは、後にも先にも今日だけだろう。説明を聞いて開口一番、俺は譲る気のない提案を口にした。 「俺が迎えに行きます」 反対されることはなかった。これが最善だと、誰もが考えている。チャンスは一度。最も可能性のある人間が、俺なのだ。 準備は整った。リスクはある。科学が進歩したとはいえ、まだ生まれたばかりの技術だ。でも、リスクより怖いものがあった。その怖さを現実にしないために、俺はこの日を迎えたのだ。 俺に向けられる心配や信頼の目。誰もが皆、無事を祈っている。皆、夜明けが来ると信じている。 俺は高揚する心を抑えて、口角を上げた。 「行ってくる」 何が待っているのか想像できない。それでも一つだけ。「彼女」がいることだけは確かで、それだけで十分だった。 彼女がいない最後の夜になる。明日には、俺の隣で笑っている。そのために俺は、彼女のもとへ向かうのだ。 目を開ければそこは、深いブラウンのテーブルを暖色の光が(つや)やかに照らすカフェ店内だった。俺が立っているのは店の入口らしい。ふわりと漂うコーヒーのこうばしい香りに、ふっと肩から力が抜ける。 「いらっしゃいませ。お一人様でございますか?」 「あ、いや俺は……」 着物姿の店員へ煮え切らない返事をする。ここまで来て一人でコーヒーを楽しむつもりは当然なく、しかしこの場に自分がいる理由はあるはずだった。どうするか、と店内を見回した、その時。 「あっ、店員さーん。わたしの連れです~」 顔を向けていた方の反対側から声がした。……聞き覚えのある、ずっと聞きたかった、よく知っている声。 ぼんやりとしながら店員の謝罪に片手を上げて返し、テーブルへ近付く。床に敷かれた臙脂色の絨毯が、まるで羽毛布団のように感じた。 「ここ、かわいいでしょー。お散歩してたら見つけてね、シュウちゃんと来たかったんだぁ」 「……ああ、こういうの好きだもんな。大正ロマンだっけ」 「そー! レトロモダンとかねぇ」 「その着物も、似合ってる。かわいいな」 「えへへ……ありがとー」 頬をほんのり染めてはにかむ姿に、目を細める。向かいに座ってからずっと、目を離せないでいる。久しぶりだった。姿を見るのも、声を聞くのも、名前を呼ばれるのも。 でもどうやら、それは俺だけらしい。 「あかね」 「うん?」 「久しぶり」 「えー? あはは、そっかここでは初めて会ったねぇ」 「……わかるのか?」 「ん? シュウちゃんいろんなところ飛んでわかんなくなっちゃった? 大正時代(ここ)でわたしと会うのは初めてだよー」 「あー……あぁ、そうだった」 「夢みたいだよねぇ。好きなところに行けるなんて。時代は進化するなぁ」 「……そうだな。ほんと、そう」 ねー、と無邪気に笑うあかねに唇に笑みを乗せてみせるしかできない。 あかねのいる『世界』がどんなものか、何となく察することはできた。 いろんな場所へ行ってみたいと、彼女は昔から言っていた。それこそ、小学生の頃からの付き合いである俺は耳にたこができるほど何度も何度も話を聞かされた。どこそこに行きたい。あれを見たい。これを見たい。国内、海外、昔。興味の範囲が広かった。大学生になって、費用も時間も得やすくなり、何度か旅行に行ったこともある。一人で行けばいいものを、「シュウちゃんと行きたいんだぁ」と、さっきと同じようににこにこと楽しそうに言うのだ。 とはいえ、過去にはどうやったって行けなかった。しかし、どうやらあかねの今いる『世界』は、それすら可能にした超ハイテクな進化・発展を遂げた世の中らしい。SFが現実になったようなものだろう。 「次はどこにしようかなぁ」 「まだ行くのか」 「もちろん! シュウちゃんはどこに行きたい?」 「……俺は、いいよ。あかねの行きたいとこにしよ」 「えぇー。じゃあ、あそこに行きたい!ってなったら教えてね」 「おう」 俺の返事に満足そうにうなずいたあかねは、すぐに夢想モードになった。両手を祈るように組んで、ゆるんだ顔で俺の頭の少し上へ視線を飛ばす。彼女の頭上に雲形のふきだしが見えるようだ。 (変わんないな) 思わず笑いがこぼれた。 たくさんあるだろう彼女の行きたい場所へ、どうやって行くのかはわからない。『飛ぶ』と言っていたが、それが具体的にどういうものなのかも。俺はあかねの『世界』にやって来ただけで、詳しいことはほとんど知らないのだ。だけどきっと、何も問題はないだろう。ここはあかねの世界だ。彼女が今日現れたと巡りたいと思ってくれているなら、どこにでもついて行ける。ここはそれを可能にする。 この『世界』は、彼女の夢の中そのものだから。 願いとは異なる、止まった意識の底で揺蕩(たゆた)う夢なのだ。  「わー! アロハー!」 「ははっ」 「ほらシュウちゃんもだよ!」 「はいはい。アロハー」 「アロハー! あはは! ハワイだ~!」 はしゃぐあかねにつられて、俺も笑い声を上げながら照りつける太陽のまぶしい空を仰いだ。 熱気で乾いた空気に混じって、涼しげな波の音が届く。道行く人の数や姿、様子、街の風景は意外にしっかりと再現されているようだった。幅広なレンガの歩道と歩道沿いに建ち並ぶホテルや店、にょろっとどこまでも高く伸びたヤシの木。 レトロモダンなカフェ店内で目を閉じた次の瞬間には空気が変わり、あかねの合図でまぶたを上げれば、そこはハワイだった。 いつか見たテレビの特集で流れた景色と似ていたから、すぐにわかった。 (たしか、あかねと一緒に見たな) 行きたいわりに熱心に調べ続けるタイプではないから、持つイメージが俺と大差ないのがおもしろい。 「シュウちゃん海! すごーい! きれー!」 「おわ……ほんとだ」 すぐ横にはビーチがあり、歩道と砂浜の境目が曖昧になっている。そこからでも目を瞠るほどの美しさを放つエメラルドグリーンが、視界に収まらないほどに広がっていた。 「砂が見えるねぇ」 「ほんとに透きとおってるんだな。初めて見た」 「ねー」 「入ってみれば? 靴見とく」 「んー、次の機会にとっておく~」 「また飛ぶのか」 「やだ?」 「……」 何も答えられなかった。正直に嫌だと言うことも、嫌ではないと嘘を吐くこともできない。いきなり、「ここは現実じゃなくて、夢の中だ」と説明をするのは避けたかった。どんなリスクが潜んでいるのか、まだすべてを把握できていないから、下手な発言はできない。 言葉に詰まった俺をどう思ったのか、あかねは眉じりを下げて、不安を吹き飛ばすような笑顔を見せた。しょうがないなぁ、と声が聞こえてきそうだ。 「じゃあ、これで最後にするから」 それがどういう意味なのかはっきりしないまま、俺はまぶたに触れる柔らかな手を受け入れて目を閉じた。 「あかね、最近ちゃんと寝てるか?」 「寝てるよー。寝過ぎなくらい。最近ずっと、一日中眠いんだぁ」 「寝不足かと思ったけど、違うのか」  「うん。睡眠の質がよくないのかなぁ」 「あー、よく聞くやつな」 「そー」 いつの間にか、見慣れた街中を歩きながら会話をしていた。昼過ぎの、穏やかな秋晴れの下を二人でのんびりと歩く。覚えのある風景。覚えのある冬が近い空気の匂い。忘れるはずのない、たわいないはずだった会話。 意識を奪うほどの強い睡魔が襲うことがあるのだと、あかねが言う。俺は似たような症状の病気があったなと頭の片隅で考えながら、もう少し様子を見るという彼女にうなずいた。……その数分後に、糸が切れたようにあかねは倒れたのだ。 ここは、三年前のだ。あかねが夢に沈んで帰ってこなくなった、あの日。 また繰り返すのか。あの血の気の引く、喪失感と絶望感を、また。 隣を歩く体が、ふらりと揺れる。焼き付いた記憶と重なった。 加減など忘れて腕を掴んだ。引っ張られたあかねは、驚くことなく、意識を失うこともなく、まぶたに隠されていない双眸で俺を見上げた。 へにゃ、と力の抜ける顔であかねが笑う。 「……わたし、ここからの記憶がないんだぁ」 「……そう、かもな」 「シュウちゃんは、知ってるんだよね」 その場に立ち止まった俺たちの周りから、いつの間にか人が消えていた。俺とあかねだけの街は、まるで冬の夜のように静かだった。 「夢だよねぇ、これ」  「……うん」 「シュウちゃんがね、いつもより近くに感じるの。いつもより、はっきりしてる……気がする」 「……うん」 「ねえシュウちゃん。これは、本当に夢?」 「夢だよ」 少しの間もいらない。あかねの目をまっすぐ見つめて、滲んでいる不安を否定した。不安を抱かせては駄目だ。信じてもらわなければ、困る。 「は、今どうしてる?」 「眠ってる。気持ちよさそうに、ずっと」 「……しんじゃった、」 「死なせるかよ」 遮った俺に、あかねは唇を結んだ。揺れる瞳が縋るようで、応えるように彼女の手を握れば、氷の指先でぎゅっと握り返してきた。 「文字どおり寝てるんだよ。……この日から、三年間」 「――え……」 呆然と目を瞠ったあかねへ、俺はほほ笑むように苦笑いを返した。 『夢中渡橋(むちゅうときょう)症』、別名『夢渡(むと)病』 運ばれた病院で診断された病名は、聞いたことのないものだった。あかねの家族と共に医師から説明を受けたが、誰もがすぐに理解できなかった。俺も例外ではなく、脳が現実を受け入れようとしなかった。 奇病だと、医師は言った。死に至るものではないが、百万人に一人が発病している原因不明の病気だと。症例が少ない中でも研究は年々進み、治療方法の方向性も固まりつつあるものの、確立には至っていないらしかった。技術が追いついていないのだと、医師は頭を下げた。 あかねの家族も俺も、どうにかならないのかと食って掛かることができなかった。それでも、俺の口は自然と動いていた。 「……技術が開発されるまで、どれくらいかかりますか。先生の見込みで、あと何年?」  「……三年から五年です」 逸らされない目を見つめてから、俺はあかねの両親に向き直った。 「俺は、待てます。五年だろうと十年だろうと、いくらでも待ちます。……ずっと一緒にいようって、約束したんです」 幼い頃からよくしてもらい、もはやもう一人の父と母のような存在で。だからこそ、俺とあかねの二人で将来について伝えたかった。……けれど、今、言葉にしなければいけないと思ったのだ。彼女の未来を声に出して形にしなければ、彼女の家族の足もとが揺らいで崩れてしまいそうで、怖かった。 彼女の父は辛そうに顔を歪めながら何かを抑えるように息を詰めると、しばらくしてからふっと呼吸を緩めて、ありがとう、と一言ささやいた。それから、 「私達にできることなら、どんなことでも協力します。ですから、先生。どうか……どうか――」 医師へ祈るように深々と頭を下げた。 それからの日々は長いような、短いような、不思議な感覚だった。変わらず穏やかに眠り続けるあかねに会いに行っては、その日あった事を話して、彼女の顔を眺めて、頬に触れ、髪を撫でて、「また来るな」と約束をして、帰る。そんな日々を繰り返して、季節は二度巡り、三度目の秋も終わりの頃。待ち続けていた(しら)せが届いたのだ。 夢中渡橋(むちゅうときょう)症は、夢を見ている時にみられる脳波の波形が維持され、そこから一切乱れることのない病気だ。医師から提示された治療方法は、「他者の脳波を干渉させて信号を乱し、覚醒させる」というものだった。 安全性を高水準で保ったまま異なる人間の脳波を綺麗に混じり合わせる技術。これが、やっと確立されたのだ。 そうして俺は一切の躊躇なく、 「俺が迎えに行きます」 そう声を上げた。 「俺は迎えに来たんだよ、あかね」 静かに俺の話を聞いていたあかねは、どこか戸惑っているようだった。それはそうだろう。自覚しているとはいえ、夢は夢だ。曖昧で、夢だと判断する明確な根拠はない。これも夢かもしれないと考えるのは当たり前だ。 だけど。 「お前が、目の前にいる俺のことも『夢』にしてしまうと、もう、目を醒ませなくなる」 あかねの頬に手を添える。情けなく映ってもいい。格好悪いと思ってくれていい。 お前が戻ってきてくれるなら、俺は何も(いと)わない。 「――あかね、俺を信じて」 次の瞬間、世界がばらばらと崩れていった。 視界が黒く狭まる中で見た彼女の表情に、俺は安心して目を閉じた。 *** 声が聞こえる。 喜ぶ声、すすり泣く音。その中に、俺を呼ぶ細い声があった。 まぶたの外の明るさに、俺はゆっくりと目を開けた。白くまぶしい視界に目を(すが)めてから、そっと隣へ顔を向ける。 「しゅうちゃん」 久しぶりに、鼓膜を揺らす呼び名。まぶしさになれた目には、何一つ変わらないゆるく溶けるような笑顔。 待ち焦がれた、描き続けた、信じていた現実。 「あかね」 「うん」 「……おまえ、急に爆睡すんなよ」 「ごめんね。たくさん寝ちゃった」 「寝過ぎだ」 「いろんな夢を見たよ。たくさん旅行したんだぁ」 「……夢で終わらせんなよ。一緒に行くんだろ」 「楽しんじゃった」 「……はくじょうもんだな」 「でも、夢でよかった」 「……」 「夢だって気づけてよかった」 ずっと見たかった瞳が、俺を映している。 「シュウちゃん」 「……ん」 「迎えに来てくれて、ありがとう」 息が詰まった。ほほ笑む姿が、滲んでいく。溢れた涙が目じりを伝って、枕へ吸い込まれた。 歪んでははっきりする彼女もまた、瞳を濡らして、それでも嬉しそうに笑っている。 (あぁ……隣にいる) 夢に飛ぶ前は夜だった。深い夜だ。それが今は、白じろとまぶしい陽の光で充ちている。 「――おかえり、あかね」 頬を染めて満面の笑顔でのんびりと返された『ただいま』に、俺は久しぶりに歯を見せて笑った。
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