肋骨の不在

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「あー、嘘。ショック。何で俺、気付けなかったの?」 「私が隠してたからだね」  隠していた。さらっと飛び出した問題発言に、またも怯む。隠されていたのか。隠したかったのか。他の人は良いとして、俺にも。  おかしな話だ。お調子者の俺はひっきりなしに付き合う彼女を換えているというのに、深結にはそういったものは無いと思っていた。恋の匂わない間柄の自分だけが、深結にとって唯一の特別な存在だと信じ込んでいた。  ショックを引きずりながらも、背筋を伸ばし、正座する深結に膝をつきあわせて座り直し、両手を取る。周囲から距離感がおかしいと言われるのは、こんなことを衆目の中でも外でも、してしまうからだろう。 「家を出るって、おじさんたちに反対されてるの?」 「そうね。まあ、そんな感じ。あと学校」 「相手は…… 先生、とか?」  そう、と頷いた深結に「待って! 言わないで」と頭を振り、続く言葉を遮る。 「生物の五郎ちゃん!」 「おお。一発で正解。流石だね。どうして分かったの?」 「分かんないよ。分かんないけど、消去法。結婚してない男の先生少ないじゃん」  それと、言いはしなかったが、女子に人気のあるタイプも除外した。深結には、キャピキャピと声高に恋を語る女の子達と同じではあってほしくなかった。 「うわぁ、酷い。教室で恋バナが始まると関係ありませんみたいな冷めた顔してそっぽ向いてたクセに。男っ気無いふりしてたのに。十も歳上の、しかも教師にたらし込まれてたのか」 「私がたらし込んだのよ」 「都合良い女にされてるんだ!」 「向こうだって都合良い男だよ」 「不潔!」 「あんた、今ちょっと面白くなってるでしょ」 「俺と二人でコンビ組んでお笑い界に殴り込む計画は?」 「北園です。島村です。二人合わせて斉藤家です。斉藤って誰!?……ね。ネタ書けないあんたの方が人気出そうで解散した。小四の時に」 「バンドは?」 「音楽性の違い。中二」 「一緒に老人ホーム行くんじゃないの!?」 「お互い、に先立たれたらでしょ」  そこまで言って、二人とも限界がきた。未だに、しっかと両手を取り合いながら、腹を折り曲げて、くくく、と呻くと、溜まらなくなって二人同時に吹き出した。 「あー。マジか。相方がいなくなっちゃうのか。凄い、寂しい」 「悪い」  「先生どうなんの? 学校いられるの?」  たぶんね、と濁して、俯く。触れて欲しくない雰囲気を察して、少しだけ矛先を変える。 「……五郎先生、すぐ捨て犬とか猫とか拾ってきて、里親探しばっかしてるじゃん。深結も拾われた?」 「ん。そうかも」  俯いたまま呟いた口は苦い物を噛み潰した時のようなのに、目は甘く潤んでいて。それは、幼い頃から一緒にいて初めて見る幸福そうな顔だったから、意地悪な気持ちがむくむく湧いた。 「里子に出されちゃったりして」  厭なこと言ってるなぁと分かっていたけれど、発言を取り下げることはせず、内心で冷や汗をかきながら深結の反応を待つ。 「んー……」  瞼を閉じ、眉間に皺を寄せ、首を捻りながら暫し考え、明後日の方向を見たままゆっくりと口を開いた。 「あの人ね、私と居ると肋骨が足りなくて苦しいんだって。だから私、戻りたくなる」  斜め上の返しに、何の話をしていたのか、一瞬忘れる。呆けたまま「肋骨? 戻る?」と呟く俺に、またしても深結はケタケタと笑う。 「イヴは、アダムの肋骨から作られたんだよ」  んん、と、首肯のような仕草で嘆息のような声を漏らし、分かったような分からないような曖昧な感じで思案していると、尚も笑う深結は、これ以上説明不要とばかりに立ち上がった。 「そんなわけで、明日は一緒に学校行こうって、誘いに来ました」  どんなわけかは分からないけれど、今夜の深結はわからないことだらけだから、素直にこくりと頷く。 「手も繋ぎたい」 「じゃあ、教室に着いたら、髪を結ってあげる」  手を繋いで登校するのは小学校ぶり。あまり拘らない深結に代わって、手先の器用な俺が綺麗に髪を結ってやるのは中学生の頃の習慣だった。 「五郎先生に嫉妬されちゃうね」  ふふふ、と笑って、いいの、と微笑む。 「タッくんに彼女がいないタイミングで良かった」  タッくん、と呼ぶのは俺の何人目かの彼女に「他人の彼氏に気安い」と詰られて深結が止めた習慣。代わりに「あんた」呼びになったことで、その彼女がキレて、事情を知った俺は彼女と別れた。思い返してみれば、俺からフった女の子は、その彼女だけだった。 「あーあ、深結が隣からいなくなったら、モテなくなっちゃうよ」 「逆でしょう?」  あぁ、やっぱり分かっていない。  俺に近付いてくる女の子達が期待しているのは、深結が俺にされているような扱いだってこと。深結に挿げ替わるのが目的だから、自分が彼女になっても深結は深結のまま恋人とは違う枠で大切にされ続けるのだと、恋人に収まった自分は既に負けたのだと知って、去っていくんだってこと。お陰で俺はフられてばかりだ。  じゃあ、朝、玄関まで迎えに来るね、と言って部屋を出て行く背中は存外に小さくて、階下で親と挨拶交わす声は、知らない女の子のそれのようだった。怖い。ああ、行ってしまう、と突然の実感が背中をぞぞと駆け上がって、弾かれるように立ち上がると、窓を開け、身を乗り出した。 「深結!」  もう隣の玄関に手をかけている深結が仰ぎ見る。 「……!」  背筋の伸びたその姿に、出しかけた拙い言葉を喉に押し込めた。固まったまま何も言わない俺に、深結は小さく手を振って微笑むと、そのまま家の中へ入って、見えなくなってしまった。消えてしまった。居なくなってしまった。俺の手の届かない物になってしまった。  暫し呆然と隣の玄関先を見つめ続け、深結の部屋に明かりが点いたので我に返って窓を閉める。  少し温度の下がった部屋で一人になると、燻っていた胸が遂に灼け始めた。明日すると約束した行為は、きっと全て、身に馴染んだ懐かしい物とは違う。  ずくん、と腹が軋んだ。  足りていると信じていた肋骨の不在に唐突に気付いた俺は、腹を抱えて横たわり、痛い痛いと呻きながら、さっき喉に押し込んだ甘くて苦い塊を必死で飲み下すしかなかった。 『大好き』
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