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 俺小染 太郎(こそめ たろう)34才は、今までの凪続きの人生が彼との出逢いによって一変し、いきなり大海へと漕ぎ出してしまった一艘のちいさな舟のような気分になっていた。  予想もつかない突然の大きな波に、いつ難破してもおかしくない。  今までの俺は誰かの事を特別気にしたり気にされたり、誰かを想ってドキドキしたりワクワクソワソワしたり、なんて事は一度もなかった。  俺には大きな『秘密』があって、誰とも特別親しくなる事はなかった。下手に興味を持たれてしまう事は秘密を守るのに都合が悪かったのだ。 *****  あの日俺は会社の昼休憩を少しだけずらして、いつものように車で販売するタイプのコーヒースタンドに来ていた。デスクに張り付いて仕事をする身としてはこうしてたまには外へ出て気分転換をしないとやってられないのだ。たばこを吸う人なんかは喫煙室に行ったりして煙と一緒に愚痴なんかも吐き出しているようだけど、俺に喫煙の習慣はないしそこで誰かとあーだこーだと話をするのもかえってストレスだ。だからこうやってあえて顔見知りに合わない時間に外に出るようにしている。  なのにやらかしてしまった。商品の受け渡しの段になって、あと10円が足らないのに気がついた。いくらポケットを探ってみても1円たりとも出てくる気配もない。現金しか扱っていないのにどうしたらいいんだ。  幸い時間をずらして来ている為俺の後ろに長蛇の列、という事にはなっていない。それでも2,3人は居て気持ちばかりが焦る。  ポンポンとポケットを叩き、手を入れ探り小銭を探すがあるのはハンカチと万年筆が一本。  荷物にならないようにきっちり代金の分だけ握りしめて来た事が悔やまれる。  焦る俺に店主は申し訳なさそうな顔をして、俺が忙しくて来られなかった先週10円値上がりすると告知していたのだと言った。  コーヒーはすでに用意されているし、今更キャンセルにはできなかった。辺りを見回してみても当たり前だが知り合いもいなくて、お金を借りる事もできない。取りに帰るにしても時間的に無理がある。もうこれは10円の代わりに万年筆を預けて明日払う事にしてもらうしか――? と、万年筆を挿してある胸ポケットに手を伸ばそうとした時、突然横からすっと10円が出されて、「どうぞ」と言ったのが彼だったのだ。  彼の事は顔だけは知っていた。会社帰りによく立ち寄るコンビニのバイトくんだ。にこりともせず眉間に皺が寄っていて、いつまでももたついている俺に怒っているようにも見えた。だけど俺と目が合って、()()微笑んだ。まったくの見当違いかもしれないけど、俺には彼が微笑んで見えたんだ。  とくんと心臓がいつもとは違う音を立てた気がした。  びっくりし過ぎてお礼も言えないままコーヒーを受け取り横にずれた。  彼はそんな俺の無礼な態度も気にした風もなく、自分の注文したコーヒーを受け取り去り際俺に軽くぺこりと頭を下げて帰っていった。  コンビニの制服じゃなく学生服姿の彼。こんな真昼間からどうしてこんな所に? さぼり? いや、彼は真面目だ。さぼりだなんてあり得ない。きっと学校の行事か……テスト期間? かなんかで帰りが早いのだ。もう随分と昔の事過ぎてよく分からない。ただ、はっきりと分かる事は、  もっと彼の事が知りたい。  彼と言葉を交わしたい。  彼の色々な顔を見てみたい。  俺の中に芽生えた初めての感情。  これが『恋』だというなら、俺は確かに彼に初めての恋をしてしまった――という事。
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