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前編
はじめて桃華が月乃に出会ったのは、11年前。2人が6才の頃。
秋のおわりの、町の花火大会の夜だった。
桃華は、ハロウィンの準備にいそしんでいた母の目を盗んで、森の中の家をそっと抜け出すと、1人で湖畔を歩き、対岸に打ち上がる花火を眺めた。
パッと夜空に大輪の花が輝き、遅れて「パーン」と音が響くのが、やけに面白くてたまらなくて。
白いワンピースのスソを暗闇に舞う蝶のようにヒラヒラとひるがえしながら、夢中になって水べりをさまよううちに、小麦色の小さな素足がもつれた。
「きゃっ!」
可愛らしい短い悲鳴をあげながら、ハシバミ色の明るい瞳を思わずギュッと閉じた。
華奢な体を湖面に打ち付けそうになった寸前、でも、誰かがグイッと強く手を引っぱってくれた。
「あ……っ!?」
大きな目をこぼれんばかりに見開くと、自分より頭ひとつ高いところから、青白いくらいに透きとおった肌を持つ美しい少女が、夜の深海のように底知れない闇色の瞳をじっと注いでいた。
それが、月乃だった。
「大丈夫?」
ぶっきらぼうに聞いてくる声は、秋の夜風よりも涼しく清らかで。
桃華は、小動物めいた愛くるしさを持つ小さな顔を、それこそ森の奥で急に狩人に出くわした仔鹿のように呆然とこわばらせた。
それから、小さな手足をアタフタとふりまわし、自分の小柄な体をしっかり抱き止めてくれていた月乃のしなやかな腕の中から後ずさる。
頭の左右にそれぞれ結んでいる、毛先のクルンとした栗色の長い髪を、ウサギの耳みたいにピョンピョンはずませながら。
そうして、少し離れたところから、またポカンと月乃を見つめた。
対岸にはハデな花火があがり町の明かりもにぎやかだが、こちらがわの岸辺は、うっそうとした常緑樹の森に覆われる闇はどこまでも静かで、漆黒の空に浮かぶ三日月だけがひんやりとおぼろな明かりをそそいでいる。
その闇に溶け込みそうな濃紺色のベロアのワンピースを均整のとれた肢体に身にまとう月乃の姿は、幼く無邪気な桃華にも、ちょっと近寄りがたいと感じさせるほど浮き世ばなれして見えた。
輪郭のはっきりした細い柳眉、切れの長い目、優雅な鼻スジに口角のひきしまった意志的な唇……できすぎたアンティークドールのような顔だちは、無機質なまでに整っている。
肩のあたりで切りそろえた真っすぐな黒髪は、月の光に誘われるように、ツヤツヤと青みがかった輝きを放っていた。
自分と同じ年頃の少女の見た目には違いないのに。
あまりに朧たけて美しすぎたのだ、月乃は。
それで、桃華は、バカげた不安にとりつかれてしまった。
『有明の月の下で出会う悪魔は、タチが悪いから気をつけなさい。夜が明けても空に居座る月と同じように、アナタの心の中にも執念深く居座ろうとするに違いないから』
と、いつか母から聞いた言葉を、今さらハッと思い出してしまったのだ。
悪魔的と感じるまでに美しい少女を目の前にして。思い出さずにはいられなかった。
「アナタって……悪魔なの?」
今にも泣きそうな声で、桃華はつぶやいた。
「は?」
月乃の白い眉間に、ピシリと大人びた亀裂が入った。
しかし、次の瞬間には、綺麗な淡桜色の唇は惜しみなく開かれて、子供じみた高笑いがキャッキャと盛大にもれた。
「なにそれ! 本気で言ってんの?」
月乃は、切れの長い目尻を白く細い指でぬぐいながら、聞き返した。
「だ、だって……!」
桃華は、なめらかな頬を夜目にも真っ赤に染めあげると、ふっくらしたピンク色の唇を可愛らしくとがらせた。
月乃は、イタズラっぽく目を細めて言った。
「わたしが悪魔だとしたら、アンタは、ウブで世間知らずの魔女ね」
「ウブ……って?」
桃華がキョトンと小首をかしげると、月乃は、また楽しそうに声をあげて笑った。
そうして、いつの間にか、乾いた落ち葉をクッションがわりに並んで腰かけながら、2人は、対岸の花火を一緒に眺めた。
月乃は、森の別荘地の滞在客だった。
秋に入るとこの避暑地は閑散とするのだが、来年の春から全寮制の私立小学校に月乃が通うようになれば、2人だけでのんびり別荘で過ごす時間も限られるようになるからと、この花火大会が終わるまで、父親が滞在の期間を伸ばしたのだそうだ。
やがて、滝のような仕掛け花火が流れおちたあと、スターマインが次々と連発して空をいっそう明るく輝かせる。
いよいよ、祭りのフィナーレが近づいてきたのだ。
「じゃあ、もう会えないのかな」
桃華は、急に途方もなくさびしくなって、ポツンとつぶやいた。
月乃は、そんな桃華の瞳を横からジッとのぞきこんだ。
月の光を柔らかくうるませる桃華のハシバミ色の大きな瞳は、ハチミツのように甘ったるくとろけて見えた。
月乃は、吸い込まれるように、その瞳に顔を寄せた。
咲きぞめの薔薇のような芳香が、桃華の鼻腔をふわりとくすぐる。
「え……?」
桃華は、キョトンと目をみはった。
夜の闇さえハネ返しそうな混じりけのない漆黒の瞳が目の前に近づくと、互いの可憐な鼻の先がくっつきあった。
目をパチクリさせるうちに、桃華の視界は、今度は月乃の淡桜色の綺麗な唇でいっぱいになって、そのスキ間から、薄朱色の小さな舌がペロリと突き出し、瞳に触れる寸前まで迫ってきた。
「えええっ!?」
桃華は、あわててギュッと目を閉じた。
マブタの上に、温かい湿った粘膜がかすかに触れて。すぐに離れた。
桃華は、おそるおそるユックリ目を開いた。
月乃は、悪びれもせずに美しく微笑んで、秋の夜風のように清らかに涼しくつぶやいた。
「あら、残念。アンタの目玉、キャンディーみたいに甘そうで、おいしそうだから。ちょっと味見してみたかったのに」
「…………!」
桃華は、全身から湯気がふきでそうなほどに上気しながら、酸欠の金魚のように口をパクパクさせた。
それから、おもむろに自分のワンピースのポケットを探り、透明なセロファン紙に包まれた琥珀色の飴玉を1つ取り出すと、手のひらに乗せて、無言で突き出した。
月乃は小首をかしげながら、それを自分の指先につまみあげた。
「くれるの?」
「ん。……あげる」
コクンとうなずいて前を向けば、並んだ2人分の足が自然と桃華の目に入る。
手入れの行き届いたレースアップの革のブーツに包まれた月乃の足に比べて、濡れた砂に汚れた自分の素足の爪先が、急に恥ずかしくてたまらない。
もう片方の足の爪先で、モジモジと汚れを落とす。
月乃は、からかうように聞く。
「これ。アナタの目玉の代わりってこと?」
桃華は、もう一度コクンとうなずいたきり、立てたヒザに顔を埋めて、それっきり頭を上げなかった。
月乃は、アンティークドールまがいの美貌に、泣き笑いのような早熟な微笑を浮かべると、
「ありがとう。……また、いつか、ここで会えたらいいな」
と、ヒトリゴトのようにつぶやいた。
そして、立ち上がりざま、故意か偶然かわからないようなアイマイさで、桃華の柔らかな髪の上に素早く唇を落としてから、森の中の小路を軽やかに歩き去っていった。
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