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友達って程の距離
本当のことを言えば私は彼が好きだった。
何にもひたむきな努力ができて、しかもそれを必ずと言っていいほど結果に結びつける。そんなところに恋心……いや、憧れだったかもしれない。
夏帆さんにもきっと同じような素質はあったのだと思う。それでも一沁くんにばかり気持ちが焦がれたのはやっぱり私が女で彼が男だったからに他ならないのだろう。
ただ、今まで3人で仲良く過ごしてきたその関係を自らの手で壊してしまうのが怖かった。
それでも募り積もる感情は膨れていくだけで。いつかは伝えようと、いつかは吐き出そうとしなきゃって感じてはいたのだけど、いつも勇気が出なくて。この前もらった手紙の返事でようやくそのことを打ち明けよう、今度こそちゃんと吐き出そうって……そう思っていたのに。どうして自分は伝えたい思いのチャンスをみすみす見送ってしまったのだろうか。
もう私は以前のような純粋な笑い方をすることができなくなった。家でも学校でも振りまくのは愛想笑い。それでも十二分に通用した。親だって誤魔化せたし、カーストでの立ち位置も変わらず中心から少し外側。
うまくいっているのに、そのことがとにかく苦しくてたまらなかった。じわりじわりと、でも確実に首を絞められているような気がして、とにかく生きた心地がしない。
どうあがいても私は、一沁くんの死という現実に対して直視することも受け止めることもできなかった。きっとそれだけのことなんだと思う。目の前に置かれた現実は直視して、受け止めて、そして乗り越えなければいけないものだ。それは好むと好まざるとにかかわらず。だけど14歳の私にこの現実は残酷すぎた。特に今まで大した失敗を経験してこなかっただけにより一層、辛さの部分が強調されて。これからずっとその苦しみを背負って生きていくことになるだろう。いつまでたってもきっと乗り越えられることはないだろう。
一方の夏帆さんはというと、一沁くんの存在が消えたことで空きができたカーストの1位……見事にその座についていた。
彼が戦死したと知った直後から彼女は一段と人前で笑顔を見せるようになり、学業に運動に精を出して励んだ。そうしているうちに自然とクラスの、学年の中心人物へと上りつめていた。
「昨日のマフィア映画見た人~?」
クラスで彼女が一度そう尋ねると「は~い」、「俺も~」とクラスメイトが集まっていく。
さすが双子……素質まで瓜二つ。以前の一沁くんを夏帆さんは完璧に再現したのだ。
兄の死を乗り越える妹の姿は純粋にたくましく、何とも素晴らしいことだろう。それこそ愛想笑いを振りまくだけのマシンと化した私とは大違いだ。それがどこか……疎ましかった。私はこんなところで足踏みをしているのに、彼女はひとりでどんどんと先に行ってしまう――夏帆さん、私だけ置いて先に進んで……ちょっとズルいよ。貴女は一沁くんじゃないのに。
それから私は夏帆さんと接することを極力避けるよう努めた。話しかけられてもありふれた定型文だけを返し、それ以上は話さない。こうしている方が気も楽だったし、彼女の新しい世界を壊さないためにもなると信じていたからだ。
戦争の夏から1年半、私は受験生になっていた。
進路は無理を言って東京の学校にしてもらった。別に東京じゃなきゃいけない理由はなかったけど、できるだけ遠くへ行きたかった。願わくば糸魚川静岡構造線よりは先の世界へ。一番ぱっと思い浮かぶ都市、それが東京だったに過ぎない。
とにかくこの場所にいるべきではない、中途半端に近くてもダメだ。
強烈な疎外感から来るそれはもはや脅迫的と表現してもよくて、どうしようもなかった。だから私には進学というもっともらしいものに託けて、実行しようとしたに他ならない。
楽しかった思い出も辛かったあのことも……全部切り捨てて新しい道を選ばないと私は壊れてしまう。
――場所さえ選ばなければ私にとっての高校受験は案外難しいものじゃなかった――
東京のとある私立高校から合格通知が届いた時、自分はそう確信した。進学校と呼べるほどの実績がある訳ではないけど、まぁ、それなりのところ。担任は「水上ならもっと上を目指せたろうに」とやや残念そうな様子であった。
もちろん私はこの結果に満足している。
身の丈に合ったところで身の丈に合った生活をしよう。東京に出るだけで背伸びはした。
それが素直な気持ちだったからだ。
とにかく東京に行って人生をリセットする。今はその瞬間を待つだけだ。
そんなことをぼんやりと考えながら部活に寄って帰路に就いた。時間が遅いことに加えて天気があまり良くなかったこともあり、列車に乗る頃には周囲は真っ暗になっていた。
ほんの数分、人気のない列車に揺られ、降車駅に立つとそこには夏帆さんが立っていた。
ほのかに雪が舞ういつもの駅のホーム。一体彼女はどのくらい待ったんだろうか。制服の肩にはうっすら雪が積もり、頬や耳は冷たい潮風に晒されて真っ赤になっていた。
「陽菜ちゃん……本当に東京の高校に行くんだね」
心なしか声が震えている。
それにしても……誰からそんなことを聞いたのか。どうして事実を確かめようと思ったのか。どうせなら待っていてほしくなかった。リセットするまであと数ヶ月。それなのにどうして私の前に現れるかな。
「うん……まぁね」
会話を終わらせようと短く返した言葉は想像以上に冷たかった。言った私ですらそう感じたのだからきっと夏帆さんにはもっと冷淡に聴こえたんじゃだろうか。
「そっかぁ、ずいぶんと遠くへ行っちゃうんだね。まぁ、でもまた帰って――」
「もう来ない……こんなところ。だから……もう私も前に現れないで」
「どうして……」
「どうしてもこうしても。結局私と夏帆さんは友達って程の距離ですらなかったんだよ。ただ……共通の知人がいたから仲良くしていただけで。そうだったと思うんだ。だからさ……夏帆さんも私のことなんか忘れてさ、自分の道を進んだ方がいいよ」
自分の言った言葉がどこまで本音だったのか……いや、疑うまでもない。
全部本音だ。
肺が凍りそうなくらいに冷たい空気。白く濁るため息。一向に止む気配を見せない雪の中で夏帆さんが傷ついていくのが痛いほどわかった。でも私はもう戻れないし、引き返せない。
「即使如此,还是想再见你一面哦」
去り際に夏帆さんが消え入りそうな声で何か言った。多分日本語じゃない。それに反応して一瞬立ち止まる。でも振り返ることはせず、ただ猛ダッシュで逃げるようにその場を後にした。もう戻ることなんてできないのだから。
あれから月日が流れ、大人になった今、あの時もっと違う対応ができたんじゃないかって時々後悔することがある。
あの頃、軍隊へ行く一沁くんや、その彼の死を乗り越えようとする夏帆さん……私なんかよりよっぽど大きな不安を抱えるふたりに対して優しい言葉をかけることのできなかった自分が酷く恥ずかしく思える。子供だったと言えばそこまでだけど。それにしたってやっぱり――最後は自分のことばかり考えて、親友と呼べる人まで「友達じゃない」と断言して。結局あの頃の私は自分が思っている以上にズルくて、自分を、他人を誤魔化すのが上手なだけだった。
でも、あれを経験できたから今をうまく生きていけてる気もする。
今朝、ポストに届いていたハガキ――それを裏返すと夏帆さんの葬儀の案内が記されていた。
私はいつか夏帆さんに謝ろうと思っていたのだけど、それも叶わないものとなってしまった。とはいっても、これに関しては後悔していない。しばらくすれば私もそっちに逝くから。だから「サヨナラ」は言わないよ――きっとあの世でも会えるだろし、あの世ならもうはぐれることなんてないよね?
END
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