故郷と世界情勢

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故郷と世界情勢

 これは今から10年ほど前、まだ私が中学生だった頃の話だ。  私は兵庫(ひょうご)美方(みかた)長谷町(はせまち)という田舎で生まれ育った。  県北部に位置するこの町は北を日本海、残りの3方を山に囲まれた狭い平野に形成されている小さな集落。鳥取(とっとり)県との県境にも近く、所謂ところの「秘境」だった。  ずっと住んでいて「よく生活ができているな」と感心してしまうくらい何もない。スーパーは隣町に行かないといけないし、コンビニなんてテレビ画面の向こうの世界の話。実際町というか村規模で、そんなものだから娯楽施設なんてもっての他。あるのは家と田んぼと海と堤防。あとは無駄に大きく、シンボリックな形をした深紅の大鉄橋くらい。  当然、交通インフラも死んでいる。  隣町に行くには山を大きく迂回している国道を通るか、鉄道に乗るしかない。その鉄道にしたってお世辞にも便利と呼べるものではなくて、地形上、山の中腹に駅があり、急な斜面の急な階段を歩いて駅まで行く必要がある。さらに運転系統では「国鉄山陰(さんいん)本線」と本線を名乗っているが、実質本線とは名ばかりのローカル線で、列車は2時間に1本。乗り過ごしたりなんかした日には最悪だ。  こんな風に不便な点をひとつひとつ挙げていたらキリがない。  それでも生まれてからこの方、何不自由なことなく人生を送ってこられたのはきっと人間関係全般に恵まれていたからだろう。家族もそうだし交友関係だってそう。これといった失敗を経験した訳でもない。中学生になったあたりから顕著になってきたスクールカーストだってうまくやりこなしてきたつもりだ。  私を囲む世界は優しくて暖かい。  たかが13歳で人生だ世界だなんてだいぶ大げさな表現だ。本当はこんなものじゃない、もっとどうしようもない現実が世界にはあるのかもしれない。  心のどこかでそんなことを薄々感じている部分はあったと思う。  だけどやっぱり無垢な私は……自分を取り囲む友達への信頼や甘い初恋、そして今抱いている未来への期待だけが世界の全てだと妄信していた。  当時の世界情勢と戦後の歴史について話す。  1945年――アジア・太平洋戦争が大日本帝国の無条件降伏をもって終結。  敗戦後の日本を待っていたのは連合国であるアメリカとソ連による分割統治だった。東京協定により糸魚川(いといがわ)静岡(しずおか)構造線を境目に東側をソ連領、西側をアメリカ・イギリス領として統治することとなった。  同じような分断の例を挙げるとすれば、ドイツの東西分断がそれに近い。  それから10年後の1955年、日本は永世中立国として独立することを許され、再び国家としての道を歩み始める。  時を同じくして世界には二大陣営が誕生する。  社会・共産主義を柱として掲げる国家群『東ヨーロッパ・環太平洋共同体(通称・EPIC)』と自由・資本主義を柱と、して謳う国家連合『新大西洋条約連合機構(通称・新連合)』。前者は主にソ連、東ドイツ、中国、ベトナムといった東欧からアジアの国々が含まれ、後者にはフランス、西ドイツ、イギリス、アメリカを中心に西欧米諸国が組み込まれた。  社会・共産主義と自由・資本主義――この相容れぬ両者の思想は新たなる争いの火種として今もなお世界中にくすぶっていた。  もちろん、当初は二大陣営のいずれにも属さない国家は多数存在していた。しかし、いずれの中立国家も軍事的、経済的超大国の前に屈し、今や陣営に属していない国家の方が少ない。  人類はどうあがいても世界を二分したいようで、その方向に動いている――彼の天才科学者は自書にそう綴っていた。  ところが、そんな泥沼の様相を呈する世界の中で日本だけは少し異質の存在であった。  分割統治から独立復帰という経緯だけみればドイツも同じなのだが、ドイツのように分離独立をしたわけではなく、統一国家日本として再独立したところにその特殊性がある。二大陣営の思惑としては極東の地における緩衝材というのがそれになるが、どんな理由にせよ、統一国家の永世中立国として独立を果たしたのだ。  その証拠に新連合筆頭のアメリカからは戦後復興支援を約束され、EPICの中核を担う中国とは大戦中の残留孤児引き上げに関する条約を締結。  その結果として戦後の日本は驚くほど順調に経済成長を果たした。  それでも世界情勢は極めて微妙で、宇宙開発と称した大陸間弾道ミサイルの開発競争が激化し、陣営同士の溝は深まっていくばかりであり、依然として予断を許さない状況にある。  これが終戦から独立、そして1980年代に至るまでの戦後史である。  ちなみに、こんな不安要素しか感じられない歴史を叩きこまれたのは小学校6年生の社会科だ。歴史の教科書の半分すぎたあたりからもう戦後史で資料集にはたくさんのコラムが乗っていた。  大戦後の歴史を習った当初、私が住んでいる日本のすぐそばで歴史が動いているなんて思いもしなかったし、そんな実感なんてこれっぽっちも湧かなかった。ましてや、自分の人生に影響を及ぼすなんて想像できるはずがなかった。  私が初めて戦争を身近に感じたのは中1の冬のことだ。 『昨晩から本日未明にかけて、台湾(たいわん)沖の公海上で新連合軍とEPIC軍の小規模な武力衝突がありました。これについて首相官邸では関係省庁に情報収集を命じると同時に、「我が国はあくまで中立の意思を貫くものであり、近海における戦闘行為は大変遺憾である」と声明を発表、日本政府としての立場を強調。また国防相に対し――』  夕方、帰宅してテレビをつけると、『速報!』という大げさなテロップと共に新連合とEPICが武力衝突をしたというニュースをやっていた。映し出されていたのは与那国(よなぐに)から撮影された台湾沖合の様子。まだ夜明け前にも関わらず水平線の彼方が明るく輝いているのが見て取れる。  映像は数十秒で切り替わったが、それでも私に「あぁ、戦争って本当に近くでやっているんだ」と実感させるには十分だった。ただ、恐怖感(・・・)はさほど抱かなかった。どちらかと言うと戦場が自分の想像以上に近かったことに対する意外さ(・・・)の方が先行していたように思う。 「ふぅーん……台湾沖で武力衝突かぁ」  随分と気の抜けた声だったと我ながらに感じた。それだけ自分にとって戦争というのは他人ごとだったに違いない。 「陽菜、そろそろご飯にするよ!」 「うん、わかったー。すぐ行くー!」  もちろん「何も影響はなかったか? 本当に考えることがなかったか?」と訊かれればそれは嘘だ。何かしら影響を与えた部分、考えた部分というのはあっただろう。けれども母親に呼ばれてすぐに忘れてしまう程度に過ぎなかった。  歴史でやったと言っても本当に一般知識程度だったし、画面の向こうに映る世界に対してまだまだ無知だったと思う。単刀直入に言って平和ボケ――それが戦前の私の最も馬鹿な部分であったんじゃないだろうか。でもそれはある意味で一番大切な感受性だったのかもしれない。  
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