何のための戦争?

1/1
前へ
/6ページ
次へ

何のための戦争?

 お盆が過ぎ、吹き抜ける風が微かに冷気をはらみ始め、いよいよ秋の到来を予感させる晩夏の季節……1通の手紙が私の下へと届いた。  差出人の住所は沖縄(おきなわ)糸満(いとまん)市。名前を見なくても誰からかわかる。     ◇    ◇    ◇  拝啓  水上(みずかみ)陽菜(ひな)様  お元気ですか?  そちらはそろそろ夏休みが明ける頃でしょうか?  こちらは毎日が訓練です。私が配属がされたのは通信部隊なのですが、通常の訓練も実施されており、毎日身体のどこかしらが悲鳴を上げています。もちろん、自分で望んだことですし、多少きつくても逃げ出そうとは思いませんし、慣れてみれば同僚と協力する生活も楽しいものです。  ただ、まだ慣れないものがひとつあります。それは天気です。沖縄の天気は兵庫(ひょうご)のそれとは比べ物にならないくらい暑いです。それこそ、1時間くらい外で訓練をすればすぐに日焼けをしてしまうくらい太陽光が強いです。でも、これから秋に向かっていくので少しは涼しくなってくると思います。  また、話は変わりますが、冬には帰省できそうだという話を聞いたので、お互いその時まで頑張りましょう。  新島(にいじま)一沁(いっしん)  敬具     ◇    ◇    ◇  忙しい合間を縫って書いたのだろう。そんなに長いものではなく、便箋1枚の約半分くらいの文量だった。  けど何より便りが来たことが純粋に嬉しかった。  彼が元気にしていること、冬には帰ってくるということ――もう二度と彼とは会えない気がしていた中でこの手紙がどれだけ心中を落ち着かせただろうか。  私も手紙を書こうと便箋を買い、今伝えたいことのひとつひとつを文字に託して伝えようとした。  初めて絶望を知った私に僅かな希望を与えてくれた世界。でも……今まで優しいと思っていた世界はこの先、何度でも私を裏切る。 『――1984年8月30日 北但(ほくたん)新聞号外―― 「事実上の最後通告を突きつけられた」  そう憤るのは政府高官だ。  新大西洋条約連合機構が再三に渡り要求していた琉球列島割譲問題。その最終回答日となっていた昨日、日本政府は「要求は不当であり、断固として応じることはできない。今後も我が国は中立国として主権を維持しながら両陣営と友好を保つものである」と返答した。  これに対し新連合は一段と態度を硬化させ、駐日大使らを国外退去させると、「現政権はEPICに加担し、自由主義と資本主義の崩壊を目論んでいる」と声明を発表し、さらに「42時間以内に現政権の総辞職及び国防軍の解体、その上で琉球列島の無条件譲渡がない場合は武力を以て日本を共産主義から解放する」と武力制圧も辞さない構えを見せた。  これに対し首相は記者会見で「到底容認できるものではなく、この恐るべき主権侵害を許せば、今後日本は新連合管理下で偽りの平和と中立を掲げなくてはならない」と述べ、徹底抗戦の姿勢を示している。  すでに米太平洋軍、英東洋軍を中心とした新連合の大部隊が沖縄に向け進軍を開始したとの情報も入っており、国防省は沖縄の基地要塞化に向け、各方面軍より応援を派遣すると決定。また24時間以内に全県民の避難に向け準備を進めている。  仮に戦闘に発展すれば太平洋戦争以来、再び日本が戦争をすることになり、そして沖縄が地上戦の舞台になる――』  夏休みももう今日で最後という日に世間を震撼させるニュースが飛び込んできた。  『沖縄割譲要求』自体は新聞やワイドショーで散々騒いでいたから一応は知っていたけど、昨日、今日でここまで現状が悪化するものだとは思わなかった。号外の速報を読んで戦争に対する恐怖心も頭を過ったが、それよりも一番気がかりだったのはやっぱり一沁くんのことだった。  日本と比較して新連合は圧倒的な物量を誇るのはおそらく周知の事実。そんなところと戦争をすればひとたまりもないのは誰の目にも明らかだった。それでも私にできることは無事を祈ることと、今後の戦況を見守ることくらい。そんな無力な自分がもどかしくて仕方がなかった。  9月8日――新連合軍の部隊が日本軍の守備艦隊を突破して沖縄本島に上陸を始めた。その後は二手に分かれ南北にそれぞれ進軍。守備隊が手薄だった本島北部が約2日で制圧され、持久戦に持ち込もうとした南部部隊も圧倒的物量に押しつぶされる形で瞬く間に防衛線が破られていく。  結局は1週間弱で糸満の防衛本部が陥落した。戦争というよりは一方的な蹂躙。その上で本土侵攻をちらつかせてくる新連合を相手に日本はただ要求を吞み降伏をするしかなかった。 『日本に対する3か条の要求  1、琉球列島を新連合管理下の無期限借用地として提供すること。  2、戦争賠償金を支払うこと(なお今後の協議にて詳細は決定するものとする)。  3、日本本土においても新連合軍の部隊駐留を認めること。』  これが戦争の結末だ。  厳しいと言えば厳しいし、むしろこの程度で済んだと言えばそうに違いない。  明らかに太平洋戦争と違うのは職業軍人しか参戦していないことや、戦場が沖縄に限定されていた上に、1週間という短期間で決着がついたことにある。したがってこの戦争が私たち本土の一般人に与えた物理的影響はさほど大きくなかった。それこそ、少し品不足になって物価が上がったことと、沖縄が他国の領土に組み込まれてしまったことくらいで。  むしろそんな事よりも、再び戦争に巻き込まれたという不安と、戦争に伴って家族や親せき、友達を失ったという精神的ダメージのほうが大きかったんじゃないかと思う。  テレビでは連日のように戦没者の名前が読み上げられ、士官クラスの戦没者になると、葬式の様子が国営メディアによって取り上げられたりしている。  それにしても、一体何のための戦争だったんだ?  私がこの戦争に対して抱いたことはそのひとつのみ。  ただ永世中立国と言う名前を護るためだけに、再び沖縄を戦火に晒し、何千人にも及ぶ将兵を戦死させたあげく負けました――そんなに中立国としての名誉の方が大事なんだろうか? 何千何百人の命に代えてまで護らなきゃいけないものだったんだろうか?   もちろん、「人の命は大切にしなくちゃいけない」とかそんな綺麗ごとが言いたいわけじゃない。  これがもし、戦没者の中に彼の名前が……新島一沁という名前がなければ、私はこの戦争に大した感情なんて抱くことはなかっただろう。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加