傷跡にチョコレートを

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 しばらくの後、少女と女はロビーカーの片隅で肩を並べ、キオスクのおにぎりに齧り付いていた。 「こんなものでごめんね」幾度となく頭を下げて礼を言う彼女に、女は逆に詫びた。「口にあうかわからないけど」 「そんな、とんでもないです。とっても美味しいです」 それほど珍奇な夕食は、少女にとって初めてだった。  サラミソーセージにチー鱈、ポテトチップス。それに何故か、生のトマトや胡瓜。  女は決して、食事の代金を貰おうとはしなかった。 「同席してもらっただけで、とっても嬉しいんだから。それに、君は恩人だからね」 「あの……さっきの写真、あれは誰だったんですか?」  少女が尋ねると、女は黙ってかぶりを振った。  不躾なことを訊いてしまったのかと首をすくめる少女に、女は優しく微笑んだ。 「女は一つくらい秘密があった方がいいんだよ。わかるでしょ、そういうの」  踏切の音が、近づいてはあっという間に遠ざかる。田園地帯を走っているのだろう、車窓はいまや完全に闇だ。  そんな景色を眺めながら、貰った烏龍茶をちびちびと遠慮がちに飲んでいると、女が訊いた。「君の名前は?」 「……尾白と申します」 「下の名前も」  しばしの逡巡。それから彼女は、仕方なく正直に名乗った。「……雪、です。空から降ってくる雪」 「雪、へぇ、雪。いい名前だね」それから女は、雪の顔に浮かんだ屈託を、めざとく見咎めて言った。「でも、君はそう思っていないみたいだね」 「だって、くっつけて読んだら白雪ですよ。名前負けにも限度があるでしょ」 「そうかなぁ、私は君のこと、とっても可愛いと思うけど」 「とんでもない。色なんて黒いし、お姫様には性格も言葉遣いも程遠いし……お母さんはいっつも、私を他の女の子を比べて貶すんです。私は努力が足りないって。成績は上がらないし、ピアノも全然上手にならないって」  急にハッと顔を上げて、雪は顔を赤らめた……知り合ったばかりの人に、愚痴を吐くなんて。「ごめんなさい、こんなつまらないこと聞かせて」 「そんなことないよ、続けて」 「でも、ありふれた話ですよ」 「いいから、聞かせて」  勧められるままに、雪は旅に出る前から胸にわだかまっていたあれこれを、女に語って聞かせた。  一度語り出すと、愚痴は次から次へと出てきた。  本当は友達と一緒の公立中学校に進みたかったのに、親が強引に中学受験の道へ進ませたこと。自分には学校を選ぶ権利すら与えられなかったこと。毎日満員の電車に乗って、都心の学校まで通うことがしんどくてたまらないこと。部活すら親に勝手に決められてしまったこと。学校の同級生はおしなべて金持ちで、神奈川の片田舎から通学している彼女は日々惨めな思いをさせられていること。友達は都合のいい時ばかり連絡をよこしてきて、彼女の悩みには決して耳を傾けてくれないこと。たまに昔の友達に会うと、みんな幸せそうに見えて泣きたくなること……。  そうしたあれやこれやを、女はあくび一つせず、真剣そのものの面持ちで聞いてくれた。  おかげで話し終えた時には、雪はなんだか身も心も幾ばくか軽くなったような心地がした。 「……だから、この切符を買った時も、塾に行くふりして家を出た時も、誰にも相談しなかったんです」  そこまで話し終えたところで、彼女はあらためてぺこりと頭を下げた。「ごめんなさい、せっかくの旅行中に、こんなしょうもないことをお耳に入れてしまって。面白くなかったでしょう?」 「そんなことないよ。面白い……なんて言ったら失礼だけど、少なくともあたしには、君の気持ちがよくわかったよ」フーッと吐息をついて、女は缶チューハイを一口呷った。「そっか、君もあたしと同じなんだね」 「私が、あなたと? ……すみません、お名前を教えていただけますか?」 「アイリ。アイリって呼んで」  雪にはフルネームを尋ねておいて、アイリは苗字を明かさなかった。 「君を見てると、昔のあたしを思い出すよ」二本目の缶を開けながら、アイリは言った。酒の嗜み方なんて当然知らない雪ですら心配になるほどのハイピッチだった。 「あたしも君と同じくらいの頃に、親父と大喧嘩して札幌のうちを出たんだ。それで東京に転がり込んだ」 「ご親戚のおうちに、ですか?」 「ま、そんなとこ。十五の時だったね。以来いろんな仕事をしてきたよ。コンビニのバイトもやったし、介護の仕事にも就いた。それから……今の君には、ちょっと説明できないような仕事もね」 「それじゃあアイリさんの今度の旅行の目的は、里帰りですか?」 「へ? ……あ、ああ。そうだね。ある意味では里帰りだね」それから彼女は、口の端を無理に吊り上げるような、妙な笑い方をした。先刻見せた子供のような無邪気な笑みとは、似ても似つかない笑い方。  ゴウッ、と凄まじい音がして、列車がトンネルに入った。  束の間の鏡になった窓に、車内の様子が映し出される。真面目くさった顔の小娘と、対照的に蓮っ葉な笑みを浮かべた年齢不詳の女。ロビーカーの人数は、いつの間にやらずいぶん減っていた。女たち二人を除けば、あとはビールの缶を前に高鼾をかいている、中年男が一人だけ。 「適当なところで、うちに帰るんだよ」ややあって、アイリが言った。なんだか独り言めいた口調だった。 「はい」 「君にもいろいろ言い分はあるのはわかるし、大変だなぁとも思うよ。だけどやっぱり、君のお母さんは、君のことを正しく愛している。そんな気がするんだ」 「私もそれはわかってます……それに、本当は家出だけが、この旅の目的じゃないんです」 「へぇ、よかったら、その目的を教えてくれる?」  ちょっと顔を赤らめて、雪は逡巡した。「笑わないで、聞いてくれますか?」 「笑ったりしないよ」 「約束して下さい」  右手の小指を出して、アイリは言った。「約束」  指切りを交わしてから、雪は思い切って告白した。「……実は、チョコを届けに行くんです。ほら、明日はバレンタインだから」  アイリはたちまち約束を忘れてしまった。けたたましい笑い声に、中年男が目を覚ましてあたりをキョロキョロと見回す。 「ひどいっ、嘘つきっ」腹を折って笑い転げるアイリの背中を、雪はポカポカと叩く。 「ご、ごめん……あんまり可愛らしい理由だったからさ。そっかー、バレンタインチョコかー。うんうん、青春だね」 「茶化さないで下さいよ……もうっ、私、アイリさんのこと嫌いです」 「ごめんて。お詫びに明日の朝ごはんも、私がおごるからさ」  アイリが雪を宥めるのに、それからさらに十分を要した。その間に列車は一度駅に停車し、再び発車した。白々と照らされたプラットホーム。鈴なりになって待ち構えていた鉄道ファンの姿。それでなんとなく、二人はお開きにしようという流れになった。 「三時くらいに、青函トンネルに入るらしいよ。本州と北海道を結ぶ長いトンネル」共にゴミを片付けながら、アイリは教えてくれた。「何気にあたし、楽しみにしてるんだ……海の中って、どんな風に見えるんだろうね」  それでは海底トンネルではなく、海中トンネルではないのか……心の中だけで、雪はそうツッコミを入れた。急に旅の疲れが押し寄せてきて、ろくに口をきく気にもなれなかったのだ。  だが、別れ際の挨拶だけは、彼女は欠かさなかった。「本当にありがとうございました。アイリさんと知り合えて、良かったです」 「また明日、おんなじ席で会おう」そう言って、アイリは手を振った。 「おやすみ」 「おやすみなさい」  いったん個室に引き上げて、洗面用具を回収した時、雪はふとこんなことを思い返した。  ──そういえばアイリさんの薬指、指輪も何もなかったな。
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