傷跡にチョコレートを

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 せっかく持ってきた本は、なんだか気が高ぶってしまい、一ページたりとて読めなかった。  他にすることを何一つとして思いつけなかったので、仕方なく彼女はロビーカーまで散策に行ってみた。  暇を持て余した客で、ロビーカーはごった返していた。酒盛りを楽しむ中年男たち。はしゃぎ回る子供を嗜める母親。一人腰かけ、テレビで上映されている映画をつまらなそうに眺める若い女。窓に向かって並べられたソファはどれも埋まっていて、少女が潜り込む余地はなさそうだった。  仕方なく引き返そうとした時、若い女が立ち上がった。懐から何かが、ひらりと床に舞い落ちる。 「あの」  気づかずそのまま行こうとした女に、少女は慌てて声をかけた。「すみません。これ、落としましたよ」  女は二十歳にも見えたし、三十歳過ぎにも見えた。明るい赤毛に染められた、ショートボブの髪。これから寒い地方へ行こうというのに、いやに胸元が強調されたニット。  振り向いた女は、一瞬疲労の淀んだ目を、疑わしげに細めた──が、次の瞬間、彼女はまるで子供のようにくしゃりと破顔した。少女の手を包むようにして、落とし物を受け取る。 「わぁ、よかった、大事な写真なんだよこれ」ガラガラに掠れた声をしていた。「ありがとうね。何かお礼をさせてくれる?」 「そんな、お礼だなんて」  どきまぎしながら、少女は困ってあさっての方を向いた。もう目的は果たしたのに女はなかなか手を離してくれず、それがなんとも言えず気まずかった──皺の多い、けれどもあたたかな手だった。 「わっ、君の手、すごく冷たい」  少女の葛藤をよそに、女はなおも手を握り続ける。 「君、一人旅?」 「え、ええ」 「それじゃあ、あたしと同じだ。もうご飯は済んだ?」 「いえ、まだです。これから食堂車ってところに行こうと思って」  食堂車、と言った途端、女は大げさに目を剥いてみせた。「へぇーっ、すごいお嬢様なんだ」 「はい? ……い、いえ。そんなことは」 「でもあそこで、フランス料理とか食べるんでしょ?」 「フランス料理? ……まさかそんな。ちょっと軽く済ませるだけです」  しばしの沈黙。それから女は、何かに思い至ったかのように訊いた。「……もしかして君、この列車のご飯の値段、知らない?」  女がたまたま持っていたという列車案内のパンフレットを見て、少女は文字通り凍りついた。  どのメニューも千円は下らず、とてもじゃないが彼女のなけなしの旅費で賄える値段ではなかったのだ。  列車はなおも走り続ける。先刻の車掌のアナウンスを思い返しながら、少女は途方に暮れた。  車内販売などない。どこかの駅で停車している間に、走って買いに行く? 無理だ。そんなに都合よく終夜営業の駅弁屋やキオスクが見つかるとは思えないし、だいいち買っている間に発車されてしまえばおしまいだ。  贈り物のチョコレートが脳裏をよぎった時、小さな咳払いの音がした。少女の肩に手を乗せて、女は言った。 「……ご飯、一緒に食べよ? 私が持ってきたのを分けてあげる」
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