一章「春の雨」

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 雪葉から見ても、伊桜はよく頑張っていると思う。様々なマネージャーを見てきたが、優秀だった久我が選んだ後任なだけはある。個人的には、気合いが入り過ぎて体を壊さないか心配なくらいだ。頑張り過ぎて体や心を壊す若者は、特に責任者を任される者に多い。  地下駅への階段を下りながら、伊桜が言った。 「遅くなっちゃったし、明日は午前休とっても大丈夫だから」  これを伝えるために雪葉を追いかけて来たらしかった。しかし伊桜本人は、明日もいつもの時間に出社するのだろう。 「大丈夫です。終電帰りは、前の案件でもたまにあったので」 「……元村さんって、(たくま)しいよね。いまの案件も、自社からは一人で入ってるってことでしょ? 元村さんくらい若かったら、先輩と二人で入る子、結構多いと思うけど」 「大きい会社だと、そうですね。でもうちは小さいので、だいたい一人で……。最初の一年は先輩と一緒だったんですけど、あとはずっと、一人ですかね」  仕事の相談相手は他社の上司、昼食は一人、雑談する相手もおらず、という調子で数年やれば、感覚はかなり麻痺する。慣れてくる。  週半ばだが、終電の車内は混んでいた。なりゆきのまま伊桜と同じ車両に乗る。いまの現場から自宅の最寄り駅へは、乗り換えが一回だけある。  乗車中、何を話せばいいのかわからなかった。互いに当たり障りのない話をする。先日、マンションの鍵は無事に開いたのかだとか、天気の話や、いままで携わった案件の話をした。  乗換駅では、次の電車が来るまで十分間あった。伊桜は、「喉乾いたなぁ」とホームの自動販売機へ向かう。そして小さなホット缶コーヒーを二つ買い、片方を雪葉に差し出した。 「はい、お疲れさま」  呆気に取られ、すぐに受け取れないでいると、伊桜が首を傾げた。 「あ、もしかして、コーヒー嫌い?」 「…………はい」 「はは、そっか」  スーツのポケットにしまおうとする缶コーヒーを、雪葉は慌てて両手で掴んだ。 「でもあのっ! もらいます!」  瞬きをする伊桜から、缶コーヒーを受け取った。プルタブに手をかけないまま、両手で温かな缶を抱く。  しばらくして電車が到着した。乗り換え後は、二駅乗るだけでもう目的の駅に着いた。 「――俺、牛丼でも食べて帰ろっかな」  深夜営業もしている駅前の牛丼店を見ながら、伊桜が言った。 「家まで、気をつけて帰ってね」 「はい。お疲れさまでした」  駅前で伊桜と別れ、深夜の道を一人家まで歩いた。部屋に入った時には時計が一時を差していた。シャワーを浴び、家にあった惣菜パンを口へ放る。それからもらった缶コーヒーを鞄から取り出した。  チェストの上の家族写真の横に、缶コーヒーを置く。見ていると、心がこそばゆいような、変な気持ちになった。    ×××  月の最終日は帰社日のため、毎月午後休をもらう。年度末にも当たる今日、雪葉は昼休憩の間に、「お先に失礼します」と並ぶ空席へ向けて、誰に言うでもなく挨拶し、プロジェクトルームを出た。  都心の外れ、県境ぎりぎりのところに雪葉の自社〈株式会社さくゆうシステム〉はある。業務内容はシステム開発となっているが、実情は従業員全員が客先常駐、つまり自社外での開発だ。これで業務内容をシステム開発と主張していいのかどうか、迷う時がある。実は派遣事業ではないだろうか。  自社の最寄り駅で降り、栄える駅前の通りを進んで徒歩五分、雪葉は細長いビルの二階にある小さな喫茶店に入った。店員は、エプロンを腰に巻いた店主一人だけだ。 「いらっしゃ――あ、元村さん。お疲れさま」 「お疲れさまです」  この喫茶店が、さくゆうシステムの本社だ。デスクが二つあっただけの小さな本社は、去年喫茶店に変貌した。  二十年ほどIT業界に関わってきた社長の佐久間雄介(さくまゆうすけ)は、低い背に小太りの、ゴールデンハムスターを連想させる外見の、四十五歳だ。子どもの頃に夢だった喫茶店を開いてみたいと、去年本社を自己判断で喫茶店に改造してしまった。  八畳ほどの小さな空間に、席数はカウンター席三席と四人掛けのテーブル席が一つだ。小さな喫茶店だが、常連客は何人かいるようで、本人はなかなかに楽しそうだ。新メニューも、帰社するたびに増えている。 「飲み物、何がいい?」 「えっと、じゃあ、ココアを」 「はぁい」  社長に飲み物を用意してもらい、恐縮しながらいただく。  雪葉が入社した頃は、佐久間は会社を大きくし、都心の人気地区に本社を移転したいと語っていた。だがある日、子どもの頃の夢を叶えておきたいと思い立ったらしかった。  彼が社長で、雪葉は雇われの身でしかないのだから、何も言えまい。会社がどういう方向で突き進もうが、社長の自由だ。文句があるのならば辞めればいいという、ワンマンさが根底にある。当然ながら、桜が舞い散る今日(こんにち)、明日から新入社員が入ってくることもない。人材は、常時募集中だ。  このような未来があるかもわからない零細企業に、何故雪葉が入社したかと言えば、無知だったからとしか言いようがない。進学校に入り、夏休みも冬休みも関係なく毎日勉強三昧だった雪葉は、就職において、企業概要や福利厚生を重視することをまるで知らなかった。学校で学んできたことは、微分積分やケッペンの気候区分、聖徳太子は厩戸王(うまやとおう)で覚えるなど、その手の試験知識ばかりだ。ばかの一つ覚えのように脳みそに叩き込んでいた。  会社というものは、五十人程度の社員がいてようやく成り立つものだと、漠然と、だが本気で考えていた。一人でも会社を起こせると知ったのは、社会人になってからという世間知らずぶりだった。  もし大学に入っていたら、インターンシップや説明会などを通じて、就職について深く考えじっくりと学んだり、知人と情報交換をしたりしながら、適当な就職先を選んだだろうにと、何度考えたか知れない。  逆に、もしあらかじめ高校卒業と同時に就職する学校に入っていれば、教員から福利厚生がいかに大事かを重ね重ね教えられていただろうにとも思う。高卒で就職した中学時代の友人は、在学中に運転免許や諸々の資格を取得し、就職先は学校斡旋(あっせん)という推薦により、優良企業へ就くことができた。去年結婚し、今年子どもを産む予定だという。  雪葉は、何もかも理解できていなかった。福利厚生は健康保険しか知らない状態で、大学不合格になったそのままの勢いで、公共の職業斡旋所へ行った。勧められる企業へとりあえず申し込み、好きな分野の仕事ができるだけでありがたいと働き始め、いまに至る。  学生の頃に想像していた社会人像と比べ、自社の社員はいい加減な人が多い。佐久間の要望に従い、午後一番に帰社してくる雪葉と違い、他の社員は理由をつけて帰社しなかったり、夕方近くに到着したりする。佐久間も特に責めはしないため、毎月仕事を調整し時間通りに帰る雪葉は、自分が真面目過ぎるのかとたまにわからなくなる。  佐久間とただの世間話をしているうちに、三名の自社社員が帰ってきた。 「……お疲れさまです……」  疲れた顔で、本社兼喫茶店に入ってきたのは、人参みたいな顎のぼそぼそと話す中年の男性と、玉ねぎみたいな頭のいつも目を合わせてくれない中年の男性と、そして去年まで引きこもりだったというじゃがいものような頬の中年の男性の三名だ。  三名とも、月に一度会うかどうかの関係で、第一印象はつい構えてしまう相手だ。だが話してみると、気弱だったり口下手だったりするだけの優しい人たちで、飲みの席でもサラダをよそってくれたり、プログラミング等の技術について教えてくれたりする。  六時頃まで待ち、これ以上の社員は来なさそうだったため、五人で飲みに行った。飲みの席では、現場で問題がないか確認し合う。あとは佐久間の喫茶指南を延々と聞かされる。ややつらい時間だが、経費で落ちるらしいただ飯が食べられるので、雪葉は参加するようにしている。 「――SNS特典とか、作ろうかなって。いまの時代は、すべてがITに繋がってるからね。横に広く事業展開していくのが、会社が生き残る道だよ」 「なるほど」  雪葉は頷きながら、横展開するのはもう少し社員が集まってからでもいいのではとも思ったが、佐久間が楽しそうなので言いはせずにおく。このような調子なので、雪葉が入社一年目に世話になった先輩も、気づけば退職していた。  正直に言って、転職しようと考えることはある。だが佐久間は決して悪い人ではなく、何より未経験の自分を雇ってくれた恩がある。  一人前のエンジニアになれたきっかけを作ってくれたのが、佐久間であるのは確かだ。だから雪葉は、辞める決心がつかないまま、ずるずると働き続けている。 「――そうだ、元村さん。いまのところ、来月で終わりみたい」  話題の変わり目で、思い出したように佐久間が言った。
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