二章「盛夏」

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「でも、仕事に対してはすごくまじめなんだよ。それにそもそも、そういうんじゃないから。……私なんか、相手にされるわけないし」  釣り合うわけがない。今日だって、デートというわけではないと、いつも仕事に行く服装と変わらないものにした。着飾ったら、自惚(うぬぼ)れた勘違いをして気合いを入れているみたいだ。ただ、いつもより髪を丁寧に梳かし、結わないで下ろしてはみた。  伊桜が何故連絡先を訊いてきたのかが、疑問だった。理由としてあり得るならば、借金の保証人になって欲しいとか、マルチ商法の会員になって欲しいとか、その手の頼み事だろうか。岳陽は冴えない表情のまま言った。 「俺は、心配してるよ。雪葉はこっちに知り合いもいねえし」 「大丈夫だよ。もう五年も一人でやってきてるんだから」 「……それに雪葉、男とまだ付き合ったことねえし」 「な、何言ってるの!? 私だって、こっち来てから、たーちゃんが見てないところでお付き合いの一人や二人、あったかもしれないでしょ!」  まるで信じていない眼差しを向けた後、岳陽は溜め息で話を打ち切った。 「じゃあ、俺行くよ。体に気をつけてな」 「たーちゃんもね。夏まで試験で忙しいだろうから、体調管理、しっかりね」  岳陽が帰っていった後、伊桜が店から出てきた。今日の伊桜の私服は、グレーの長袖にジーンズという簡素な組み合わせだ。だが顔とスタイルが良いため、どんな服装でも格好良く見える。人生とは、まったくもって平等じゃない。 「あれ? 弟さんは?」 「行きました。元々、こっちにいる友達のところへ、これから行く予定で」 「……そっか」 「急に、すみませんでした。何だか、心配だったみたいで……」  曖昧な笑みを浮かべる雪葉に、伊桜は沈黙を返す。一旦会話に間ができた。伊桜が訊く。 「あの。これから行きたいところとか、ある?」 「……え!?」  どういう意味だろうか。雪葉は何を聞かれているのかわからなかった。質問の意味はもちろんわかるのだが、どういう意図でこんなことを訊いてくるのかがわからない。  黙り込む雪葉に、伊桜は居心地悪そうに目線を泳がせる。彼自身も、戸惑っているように見えた。 「行きたいところは……特には」 「あー。じゃあ、いま買いたいものとかは?」 「……夕方までに、さがるまーたに食料品を買いに行こうとは、思ってましたが」  仮にデート的なものに誘われているのだとしたら、微妙過ぎる選択だ。伊桜がぎこちない笑顔で頷く。 「じゃあいまから行く? 俺、荷物持つよ」 「え! いやそんな、いいですっ!」  申し訳なさ過ぎる上、そこまでしてもらう理由もわからない。 「大丈夫だよ。暇だから」 「いえ。ほんと、いいです……」  伊桜が途方に暮れたように首の後ろを掻くので、雪葉は何も提案しないのが、逆に悪い気がしてきた。 「……なら、代わりに、伊桜さんのおうちに行ってもいいですか?」 「……え?」 「あっ、だめだったら、いいんですけど! ……すごく、きれいなマンションだから、一度、中を見学してみたいなって、ずっと思ってて」 「…………いいけど」  不思議な流れで、二人で伊桜のマンションへ向かうことになった。普通は、異性の家に単身で気軽に上がり込むものではないだろう。だが相手は仕事関係の人で、さらに雪葉など相手にせずとも、女に困るわけがないと思われる人だ。  事故も誤りも起きはしまい。心にあるのは新築マンションへの純粋な興味のみ、適当な会話をしながら歩く。伊桜だって雪葉の部屋を見たのだ。  十四階建ての新築マンションは、エントランスの外観から真新しさを放っていた。白とグレーを用いたモダンな造りで、入ってすぐ横に管理人室の小窓がある。いまは管理人の姿はない。平日の昼間以外は休みなのだろう。  伊桜が自動ドアをくぐって中に入っていく。ロック解除の動作がなかったので、雪葉は首を傾げた。 「鍵を開けなくても、通れるんですか?」 「このマンション、ハンズフリーキー対応してるから」 「ハンズフリー、キー?」  初めて聞く単語だ。伊桜が、ポケットから黒くて小さな四角い物体を取り出す。 「これ、鍵。車とかでも見たことない? 持って近づくだけで、ロックが解除される仕組み」 「へ、へえーっ」  手動の鍵しか知らない雪葉は、自動車と建築のIT化に驚いた。  自動ドアの奥には、広いエントランスロビーが広がっていた。そこにはなんと、卓と椅子が置かれたラウンジがあった。ホテルの受付ラウンジさながらだ。雪葉は思わず呟いた。 「鍵を忘れた夜は、ここに座って待っていれば良かったのでは……」  ほかのマンションの住人が自動ドアをくぐった隙に、一緒に入ることは容易そうだ。伊桜は「ふっ」と笑い損ないの息を漏らした。 「やっぱあの時、かなり迷惑だった?」 「あ、いえ、そうではなくて!」 「ここ、住んでる人、結構通り過ぎるからね。それに、もしかしたら元村さんなら、家に上げて飲み物でも出してくれるかもって。そっちのほうが、のんびり二時間潰せるし」  悪戯(いたずら)(とが)められた子どものように首をすくめ、伊桜は「ごめんね」と謝る。つまり、雑なもてなしは受けないだろうと計算したということだ。  厚かましいと腹が立つどころか、伊桜の茶目っ気のある笑顔にまあいいかと思ってしまう。我ながら何とも単純だ。しかしあの夜がなければ、いまこうして伊桜と二人でいることも、なかった気がする。
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