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「あ、はい」
「俺もこの辺なんですよ。いまの現場のPMなって、一ヶ月以上経つのに、会わないもんですね」
「そ、そうですね」
それは恐らく伊桜が、毎日雪葉より遅く帰っているためだ。その事実は恐らく伊桜もわかっているはずで、こういう場合は会話の内容と切り上げ時が、重要だ。
「晩ごはんの食材ですか?」
買い物かごの中の人参を見て訊かれる。
「は、はい。今日は、いつもより早く帰ったので……作ろうかな、と」
「わー、しっかりしてますね。俺は、ここでビール買って、あとは家にあるカップ麺でも食べようかなって」
「へ、へえ」
「そんで、さっさと寝る予定です。今週も残り一日、がんばんないとですね」
「そう、ですね」
「じゃあ。また明日」
伊桜はほほえみを最後に話を切り上げ、奥の缶ビール売り場へ向かった。会話の主導権は伊桜が握ったまま終わった。雪葉の地味な日常に、スーツ姿の美形が落とし込まれたようだった。人物と背景が合っていない。
伊桜の会話力が羨ましかった。動揺していたこともあり相槌しか打てなかった。雪葉は反省しながら鶏肉を買い、会計を済ませて店を出た。そしてそこでまた伊桜と鉢合わせた。
「あ、また会った」
伊桜が苦笑した。宣言通り、缶ビールだけ入った袋が手にある。十字路の信号を待ち、渡った先も一緒だったため、自然と並んで帰る状況になった。
「元村さんも家こっち側なんですね」
「は、はい」
「じゃあ俺と一緒だ。この辺、静かでいいですよねー」
駅前は学習塾が多いためかあまり賑わいでいない。駅前を離れてしまえば、店もコンビニエンスストアがあるくらいで住宅街が続く。道路もたまに車が一台通り過ぎるだけだ。この状況は何だろうと、雪葉は心の内で右往左往していた。
「あのスーパーも、安くていいですよね。スーパー『さがるまーた』。元村さんも、よく行きます?」
「はい。帰り道なので……」
ヒマラヤ山脈にはエベレストという世界最高峰の山が存在するが、山は地域によっては『サガルマータ』とも呼ばれる。店名はそこからとったものだ。何でも、店長が若い頃に登ったことがあるらしい。建物も古く小さなスーパーマーケットだが、値段が安いため近隣住民には人気だ。
「俺も、よくあそこでビールとか買って帰るんですよ。家までの帰り道、ほかにコンビニもなくて」
「あ。一緒、です。家を通り過ぎれば、少し歩いたところにあるんですけど、さがるまーたに寄ったほうが、ついでなので」
「あれ? 同じだ。もしかして家近かったりするのかな。一人暮らしですか?」
「はい。アパートで……」
今夜は雲が厚く、月が見えない。夜中から雨が降ると天気予報であった。
仕事帰り、街灯がぽつぽつとあるだけの、静寂に包まれた夜道だ。誰もいない夜の公園の前を通り過ぎていく。歩道を行くほかの人影も、遥か五十メートル先にいるサラリーマン一人だけだ。
「元村さんって、歳いくつなんですか? って、女性へのこの手の質問は、相手を見極めなきゃいけないんだけど。元村さん、まだ若そうだから」
「えっと。二十五です」
「わー、やっぱまだ若い。それなのに、もうばりばり仕事できてますよね。すごく助かってますよ、俺」
「この業界に入って、五年近くは経つので……」
「なら一緒だ。俺も、来月で五年で」
駅からスーパー『さがるまーた』までは徒歩四分、そして残り半分の四分間の、自宅への道のりだ。その間、視界の横を通り過ぎる住宅は、アパートにマンション、一軒家と様々だ。一軒家は、警備会社のホームセキュリティに守られ窓はシャッター付き、車庫は鉄柵付きの家まである。田舎から都会へ出て初めて見た時、その厳重さに驚いた。田舎ではホームセキュリティ付きの一軒家など滅多に見ない。
丁字路で足を止めた。曲がった先にある築三十年の三階建てアパートが、雪葉の自宅だ。アパート前に、一畳ほどの小さな庭があり、オーナーの趣味かハナミズキの木が植えてある。花をつけるのは毎年四月の終わり頃だ。花芯から外側へ向かって白から桃色へ色づいていく花が、枝いっぱいに咲き誇り綺麗なのだが、いまはまだ時期が早い。
「あの、私……家、ここなので」
伊桜の帰り道と本当に同じだったらしい。自宅まで送ってもらった形になってしまった。もし恋人ができたらこんな感じかもしれないと一瞬妄想する。
「まじ? 俺、この向かいのマンションだよ」
「え?」
アパートから細い路地を挟んだ向かいに、三ヶ月前に完成したばかりの新築マンションが建っていた。雪葉はいまのアパートに暮らし始めて二年は経つが、このマンションがアパートの南側を陣取ったせいで、それなりに良かった陽当たりが極めて悪くなった。
コンビニエンスストアはマンションの裏にあり、給料日の後はよく、雪葉は一旦アパートを通り過ぎ、自分へのご褒美にデザートを買いに寄る。
「ここに、一人で住んでるんですか?」
訊いてしまってから、踏み込んだ質問だったと口を押さえたくなった。総戸数百ほど、3LDK以上の部屋しかない大きなマンションだ。恐らく家族と一緒か、もしくは彼女と同棲しているかもしれない。いや、彼女とは別れたばかりだったか。質問に、伊桜はしかしすんなり頷いた。
「うん、そう」
「え! すごいですね!」
「はは。そんなことないよ」
否定する伊桜の瞳に、一瞬だけ影が差した気がした。何だろうと思う間もなくいつもの表情に戻っている。
「たださ、ここ、駅が微妙に遠くて、疲れてる時とかしんどいよね。天気悪い日とかも」
伊桜は苦笑しながら、何となしに腰に手を当て、そして表情を変えた。何か違和感があったのか、スーツのポケットの中に手を入れる。上下のスーツすべてのポケットを確認し、さらに手にある黒色のスーツ鞄の中身も探り始めた。
「どうかしたんですか?」
伊桜が、肩を落としながら言った。
「家の鍵、会社に忘れてきたっぽい」
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